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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第43回 『戦国魔神ゴーショーグン』ってなんなんだ?

 『戦国魔神ゴーショーグン』は、ロボット物というより、登場人物達のキャラクターで、話題になった作品のようだった。だが、僕自身は、無理に視聴者向けに、受けを狙ったキャラクターの性格や台詞を作ったわけではない。
 それぞれのキャラクターのモデルになった人物を、多少オーバーにし、声優さん達の個性をプラスして自然に作り上げた人物像で、それが、他のアニメと違うと言われるなら、むしろ、それまでの他のアニメのキャラクターが、類型的で、喋っている台詞も記号的で、ありきたりのパターンでしかなかったのだと思う。
 それまでプロだった脚本家の描くキャラクターは、手慣れてはいても、台詞も行動もパターン過ぎるように思えてならなかった。
 だから、その後の、僕のシリーズ構成作品には、既成のアニメの脚本家には、あまり書いていただいていない。書いていただくとしても、かなり個性的な物を書く方……パターン化しない方に、限らせてもらった。
 『戦国魔神ゴーショーグン』の登場人物は、僕にとっては、ごく普通の人間達で、その個性を的確に現すのに、台詞がいかに自然に聞こえるか、アフレコぎりぎりまで、考えていたにすぎない。
 そんなわけで、実は、『戦国魔神ゴーショーグン』のキャラクター作りには、さほど苦労はしていないのである。
 一番、僕が考えたのは、意外に思えるかもしれないが『戦国魔神ゴーショーグン』というロボットとケン太という子供の存在だった。
 ただの戦闘マシーンではないゴーショーグンとケン太の関係にしたかったのだ。
 僕はそれまで『まんが世界昔ばなし』をやっていたこともあって、人間が、動物だけでなく、様々な物に対していだく感情に興味を持っていた。『昔話』の枠を越えて、古代の伝承や、原始の人類の万物に対する畏敬の念に注目していた。
 原始の人間は、万物を、物として考えず、同等の存在として考えていた。今後、人類が宇宙に進出していくとしたら、宇宙にいるのは、地球型、人間型の意志を持つ存在だけではないだろう。
 宇宙に進出する資格があるとしたら、万物と意志の疎通ができる存在ではないか……古代の伝承には、風や海、ありとあらゆる地球の存在と意志を疎通できる人達の話が沢山出てくる。
 それが、人類の進歩とともに、人間の思考の中から忘れ去られてしまった。
 それにともなって、万物は人間と意志の疎通のない物に、成り下がってしまった。
 機械は、人間のために動かされるだけの道具になってしまった。
 人間の周りの万物は、意志のないものになってしまった。
 そんな地球という存在に、宇宙へ進出する資格があるのか……?
 宇宙の意志は、そんな人類をテストしてみる事にした。
 機械と意志を通ずる事のできる人間は、存在するのか……。
 そのテストの対象になったのが、ケン太だった。
 「メカは友達……」という意識を持つケン太。
 ケン太という登場人物を思いついたのは、実写ものの「GOGOチアガール」というシリーズを書いていた時、コンピューターで、試験の予想をする女の子のエピソードを書いた。
 当時、それはフィルムで撮っていた作品で、1秒24コマの映画と、走査線の数の違うコンピューターのモニターとの関係の他、モニターに写る文字が小さすぎて、フィルムにモニターの画面がよく写らなかった。
 美術担当は、多いに困った。週1ペースの作品で、モニターに写る文字の大きさを変える事などできなかった。
 ところがである。スタッフの知人の息子の中学生が、たった1日で、コンピューターのプログラムをいじり、フォントのサイズをフィルムに写りやすいように大きく変えてくれたのである。それも、いとも館単にだ。モニター画面をフィルムに撮影する作業は簡単に終わり、大人の一同は、このコンピューター中学生の存在に仰天した。
 この中学生の事が、僕の頭に残っていた。
 この中学生が、コンピュターと意志を通じ会わせる事のできる人間だったらどうだろう。
 それが、ケン太という少年のベースになった。
 ケン太は、成長していくと同時に、地球上の色々なものと、意志の疎通を可能にしていく。
 地球上に現れた多分、最も新しい機械の一種であるロボットとも意志を疎通させようとする。
 一方、意志など持っていなかった……というより忘れていたロボット達にも、宇宙から送られてくるビムラーというエネルギーによって、意志が覚醒してくる。
 万物に意志があるという考え方は、一神教の外国諸国には、分かりにくいかもしれないが、八百万の神を持つ日本人には、理解できるかもしれないと僕は思った。
 ケン太は、ロボットだけでなく、様々なものと意志を疎通させていく。
 そして、宇宙に進出していく存在の資格を得るのだ。
 ケン太は、いわゆる新人類ではない。むしろ、かつて地球にいた、何とでも対話できる原始の人間達に復帰した人間なのだ。
 そして、それが、宇宙に進出する資格でもあった。
 『戦国魔神ゴーショーグン』は、その仲立ちをするロボットだったのだ。
 教育用ロボットOVAは、ケン太が、宇宙に飛翔していく時、思わずつぶやく。「私達が、ケン太君を育てたのですね」
 TV版『戦国魔神ゴーショーグン』は、万物と意思を疎通させる少年の成長を描いたファンタジーのつもりであった。
 その周りをとりまくキャラクターは、いくら個性的に見えても、メインのストーリーの脇役だった。
 彼らが主役になるのは、TV版ではなく、TV版『戦国魔神ゴーショーグン』というファンタジー(全体のシリーズから知ると一つのエピソード)が終わった後の、小説版からである。
 したがってTV版『戦国魔神ゴーショーグン』のファンタジー色の強くなる後半の部分は、他の脚本家の方達には理解しにくいと思い、僕が、全部書くしかなかった。
 余計な事だが、『戦国魔神ゴーショーグン』の人気など、僕は、ほとんど意識していなかった。
 その年の、アニメージュグランプリの各話部門で、最終回が1位になるなど考えてもいなかった。キャラクター部門でも、ブンドルが3位、レミーも、ベストテンに入っていた。全体の、映画も含めたグランプリでは2位……1位の「銀河鉄道999」と60票ほどの差しかなかった。
 こんなことなら、アニメージュを70冊ほど買い占めて、組織票で投票すれば、全体でもベストワンになるところだったと、みんなで冗談を言ったものだが、『戦国魔神ゴーショーグン』が、それほど視聴者の気持ちをつかんでいたなどとは、作っている側は誰も気がついていなかった。
 正直に言って、TV版『戦国魔神ゴーショーグン』は人間とはなにかという哲学を描いたものでも、宗教を描いたものでも、その頃流行ったニュータイプ等という新人類を描いたものでもない。
 人間がもともと持っていただろう万物に対する畏怖の情や愛情を、とりもどしたらいかがなものでしょうか……というファンタジー……メルヘンといってもいい……そんなつもりで、僕は書いていた。
 戦争を止めるにはどうすればいい? ……簡単である。人間に使われる武器が、戦いを拒否すればいい。人間が喧嘩したければ、武器なしで殴り合えばいい。
 これがファンタジーでなければ、なんだろう。
 それが、『戦国魔神ゴーショーグン』の最終回だ。
 この最終回も、最終回らしいシナリオとして、ここに掲載していただいた。
 戦闘の前夜、レミーが黒焦げのハンバーグを作るところは、シナリオにはない。
 多分、演出の湯山邦彦氏が考えたシーンである。
 フランス育ちで、美術にもうるさくて、多分、料理に対する舌も肥えているはずの……まして、モデルにした女性がドイツにいるレミーが、ドイツうまれのハンバーグを黒焦げにするかどうか……絵コンテを見て、少し考えたが、レミーのかわいらしさを描きたい演出家の気持ちもよく分かるので、それでいいと思った。
 このシーンを好きだと言う人も多いので、僕としては、あってよかったなあ……と今は思うシーンである。
 『戦国魔神ゴーショーグン』はその後、お遊び風の映画版や、シリーズ小説になり、番外編をふくめて小説は何巻も出ている。それにはロボット・ゴーショーグンもケン太も出てこない。
 読者の対象年齢層も上がっている。ストーリーはTV版で脇役だったキャラクター達が主役である。
 レミー島田を主人公にした映像版『時の異邦人』は、小説も出ているが、子供向きとはとてもいえない。
 最終巻はほとんどできていて、「鏡の国のゴーショーグン」と名前まで決まっているが、まだ出版はされていない。
 この作品には、僕自身の人生観が投影されるから、ある程度、僕が歳を取らないと書けそうになかった。
 だが、そろそろ、その時期が近づいてきたようである。 
 『戦国魔神ゴーショーグン』の次の葦プロダクションと僕の作品は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』だが、その前に、このコラムに書くのを忘れていた作品と、なぜ、僕がアニメーション専門のようになったかを書いてから、『ミンキーモモ』の話を始めようと思う。

   つづく



●昨日の私(近況報告)

 最近のこのコラムは、ちっとも、僕の近況報告になっていないが、「誰でもできる脚本家」のために、スペースをさく事にしている。
 さて、異性と話す機会の少ない人は、無理やりでもその状況を作り上げて、異性と話すことに慣れなければならない。
 ともかく、異性の集まりそうな場所に行く事である。サークルでもクラブでも何でもいい。顔を出す事である。
 そんなクラブやサークルは、インターネットを探せばいくらでもある。
 ただし、メールのような、相手の顔や自分の顔の見えない参加は駄目である。あくまで、相手の顔と姿の出会える場所に行くのである。
 たとえば、あなたが男性だったら、女性の集まりそうな英語サークルや、それこそ華道クラブでも茶道クラブでも何でもいいから出席しよう。そして正直に言おう。僕は物書き志望なんですが、女性の事をよく知らないのです。それに、お華やお茶の事もよく知らないので、一石二鳥と思ってきました……すると、意外に女性達は、親切に教えてくれたり、話に乗ってくれるものである。
 要は、そういう異性の多い場所に行く度胸を、君が持つ事である。
 彼女達にとっても、男性は珍しい存在だから、相手になってくれる場合が多い。女性の場合は、男性の多い、武術のサークルや、写真や、鉄道、飛行機、模型関係のサークルに行くと、親切にしてくれる。
 ただし、気をつけてほしいのは、決して恋愛関係の交際相手を探すのではなく、あくまで話し相手の友達を探しに行くという意識を忘れない事だ。男と女の事であるから、恋愛関係ができてしまえば仕方ないが、「あくまで、異性というものを知る」という所期の目的は忘れないでほしい。
 ほかにも異性の多い場所はいっぱいある。コンビニやスナックや、大人の女性を知りたければ、バーやキャバレーのアルバイトなどというのもある。どこでもいいから、異性と気楽に話せるように訓練する事だ。
 僕の場合、高校を出た時に、ガールフレンドはいたが、男女共学から浪人生活に変わった途端、極端に女性友達が少なくなった。
 ガールフレンドは、気楽に声をかけられる女友達というよりも、恋愛関係に近い。
 これでは、気楽に声をかけられる女性友達が少なくなる一方である。
 僕は、正直言って若い頃は、ずうずうしかった。
 そこで、はずかしながら、ガールフレンドには内緒で、極めて古典的な方法をためしてみる事にした。
 交差点で、見知らぬ女性に「暇だったらお茶でも飲みませんか?」と声をかける方法である。
 その言葉しか相手に言わなかったら、一日五時間以上声をかけても、1人も付き合ってくれなかった。
 当たり前である、見ず知らずの男に声をかけられて、ついて行く女性など、よほど変である。
 しかし、それを試してみる度胸ぐらいは持ってほしい。
 次に数年後、セールスのアルバイトをしていた時に、ちょっとひょうきんな仕事仲間と、ある実験をしてみた。
 ひょうきんな男が。2人づれの女性とすれちがうと声をかけるのである。
 「どーして、あなた達、そんなに美しいのですか?」
 僕もまじめな顔で、言う。
 「その美しさについて、話し合いませんか」
 その台詞しかどんな女性とすれちがっても言わない事にした。
 だいたいの女性達は、気味悪がって逃げる、吹き出して笑う。
 しかしである。この台詞だけを使って、新宿の歌舞伎町を3回まわったら、最初に声をかけた女性の2人組に、また出会った。
 また、僕らは同じ事を言った。
 相手の2人組は笑って「少しだけなら……」と言って、近くの喫茶店に付き合ってくれた。その日は、夜遅くまで、その2人組と話し合い、場所は喫茶店からスナックに代わり、1日中、一緒にいてもいい状況になった。ただ、僕も仲間も4人分のホテル代を持っていなかったので、終電で別れることになった。で、その女の子達とは、しばらくの間、友達関係が続いた。
 こんな事も起こるのである。それもしばしば……。
 でも、これは、いささかやりすぎのエピソードであろう。
 もっと気の弱い人のために、異性との付き合い方を考えて見よう。
 くどいようだか、あくまでこのコラムは、異性獲得法ではなく「誰でもできる脚本家」がテーマである。

   つづく
 

■第44回へ続く

(06.03.30)

 
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