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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第44回 実写とアニメ

 1981年に『杜子春』(とししゅん)という長編アニメが作られた。
 芥川龍之介の短編名作を元にして、TBSが放送したスペシャルアニメである。
 最近、TVで「愛と死を見つめて」という作品が放送されたが、この作品には40年ほど昔、当時は存在していた日活という映画会社が、吉永小百合さんを主演にして大ヒットした映画版がある。
 その映画を監督したのが、斉藤武市という人である。
 『杜子春』は、この人の作品のひとつでもある。
 斉藤武市監督作品『杜子春』……実写の監督が関わったアニメはそう多くはないと思うが、その珍しい作品のひとつが『杜子春』だ。
 演出・絵コンテは西牧秀夫氏、キャラクター設定は、椛島義夫氏で、西牧・椛島コンビの自他共に認める代表作と、アニメ関係の本では紹介されている作品が『杜子春』である。
 だったら脚本の僕にとっても……誰も思い出してくれないけれど……隠れた代表作が『杜子春』かもしれない。
 さらに言うなら、音楽・山本直純氏、美術考証・木村威夫氏(実写関係で、すぐれた仕事を数々残している美術監督である)。この人たちも、主な活躍の舞台は実写映画である。
 つまり、製作会社ダックスのプロデューサー丹野雄二氏は、実写とアニメの垣根など考えず、この作品を作ったといっていい。
 この実写畑とアニメ畑の人たちが交じり合って作られたアニメ『杜子春』の脚本を書いた僕は。実写畑の人々から、色々な事を教わった。
 特に美術の木村威夫氏からは舞台になる中国、唐の時代の建物や使われていた小物について……かなりがっちりと考証していただいた。
 当時、中国の洛陽が運河の町である事も、ストーリーに入れ込んだ。
 もちろん、唐時代の洛陽の町を、僕が知るはずがない。
 しかし、たとえアニメの舞台であっても、リアリティが必要である。
 僕は、唐時代、日本の中心で、唐の都をモデルにして作られた奈良と、運河の街、イタリアのヴェニスを掛け合わせたような架空の町を頭の中にイメージして、洛陽の町の地図を描いた。
 洛陽の町は城壁に囲まれていたというから、ドイツにある中世の香りを残しているといわれる城壁都市をイメージに足した。
 そして、そうやって頭の中に作り上げた町を、唐時代の洛陽のモデルにした。
 僕が書く時には、人であろうと町であろうとモデルが必要なのである。
 僕は、何の目的もなくいろいろな街を散歩するのが好きだ。
 そして、目に飛び込んできた街のたたずまいは、僕が書く脚本の架空の街のモデルになる。
 実写の監督が、総監督になると、人間ドラマを、かなり重要視する。
 僕は、かなりがっちりした母と子の葛藤をストーリーに持ち込んだ。
 芥川龍之介の「杜子春」はインターネットの「青空文庫」に原作が載っている。
 芥川龍之介といえば、この作品と「蜘蛛の糸」「河童」ぐらいは、常識として読んでおいても損はしない。
 「杜子春」は芥川龍之介が中国の古典「杜子春伝」を素材にして小説化したものだ。
 仙人になりたがった杜子春が仙人修業を始めるが、仙人になるには条件があった。 訓練の途中、ひとことも口をきいてはならないというのである。
 杜子春は、どんな苦難にあっても黙りとおした。
 しかし、地獄で、馬の姿に変えられていじめられている母の姿を見せられて、思わず「お母さん」という一言が、口からほとばしり出てしまった。……といった話である。
 とても短い作品だから、1時間半の長編にするほどのエピソードはない。
 クライマックスは、杜子春の口からこぼれる「お母さん」という一言である。
 そのクライマックスはクライマックスとして、僕なりのオリジナルのストーリーを加えて、膨らませたが、かなりオリジナルの部分があるので、タイトルには芥川龍之介「杜子春」より……となっている。
 その、「杜子春」より……の「より」の部分が、僕にとって大変だったのである。
 見る者の感動が「お母さん」の一言に結集するように、様々なエピソードを、中国の昔話を参考にして、工夫して取り入れた。
 僕の脚本の初稿を読んだ斉藤武市氏は、「当分、『泣かせ』は首藤君で大丈夫だね」と言ってくれた。
 何よりうれしかったのは、仙人の声をやってくださった宇野重吉氏(俳優、寺尾聡のお父さんで、演劇界の重鎮だった)が、面白い「杜子春」だと誉めてくれた事だった。
 お涙ちょうだい物(つまり観客を泣かせるもの)は、首藤にやらせろ……という声も一部に出た。
 だが、観客の涙を誘う感動作品は、これ1本で力尽きてしまったのか、その後、この手の感動物を、僕は書いていない。
 書きたいとも思わなくなった。
 本来の僕は、涙が苦手なのである。
 『杜子春』はその年の大藤賞というアニメの賞の候補になったが、賞は『セロ弾きのゴーシュ』に持っていかれた。
 『杜子春』の涙を意識しすぎた僕には、この結果に不満はなかった。
 さらに、『杜子春』の特長といえば、はじめてステレオ長編アニメとして、TBSで放送されたことだった。
 今は、ステレオ(音の2チャンネル)で放送されるアニメは常識だが、当時は、はじめての試みだったのだ。
 右から出る音と、左から出る音が違う。音が、左右に移動する。
 当然、脚本を書く僕も、音の位置と動きを意識した。
 意識しすぎて、ステレオ効果の分かりやすい音響装置で『杜子春』を観ると、照れ臭くなるぐらい、やたらに音が動き回っている。
 その癖はいまだに抜けきらず、僕が脚本を書いたアニメは、やたらと音にこだわっているのが分かる。
 今、僕は、ステレオ放送が当たり前のアニメで、脚本家が音の位置を意識しなさすぎるのが気になっている。
 それは演出や音響の仕事だと言われるかもしれないが、脚本家も自分の作品の音の出方を、少しは頭の中で考えて書いてもいいんじゃないかと思うのだが……。
 さらに、音の位置を言うなら、目の位置も意識したいものだ。
 目の位置とは、カメラの視界の事である。
 実写畑の監督だったの葛生雅美氏が、「まんが世界昔ばなし」の監督をしながら、「アニメは目線がめちゃくちゃだから嫌いだ」と、口癖のように言っていた。
 実写は、カメラの位置、レンズ、ピントなどで写るものが違ってくる。
 例えば、ひとつの部屋にいる同じ人間の全身を写すのでも、下から見上げるように撮れば、人物の背景に、天井付近まで写るだろう。
 逆に上から見下ろすようにその人物を撮れば、背景に床が写るはずである。
 実写ならば、背景は実景だが、アニメは違う。
 動画の部分と、背景の絵を書くのは別の人である。カメラの位置によって書かれる背景も違えばピントのぼけ具合も違うはずである。
 そこを意識しないアニメの画面は、どこか気持ちが悪いというのである。
 さらに、登場人物の目線がどこを見ているのか分からないのも気分が悪いと言う。
 例えば2人の人物が、見つめ合って話しているシーン。
 片一方があいての顔を見ていれるクローズアップがあれば、もう1人のクローズアップも、相手を見返しているはずである。
 2人の目の角度が、互いに一致しているはずなのに、分業作業で行われる動画は、そこまで意識して作られるのはまれである。
 アニメの目線が、めちゃめちゃというのは、そういう事だ。
 そこをデフォルメし、誇張して描けるのがアニメのよさでもあるし、人物の動きも自在にできるのも、アニメ表現の利点である。
 だが、それを、演出が意識してやっているのと、それとも意識しないで適当にやっているのとでは、すごい違いである。
 普通は登場人物の目線など意識しないし、写っている背景をカメラ目線で考えるアニメは、ほとんどないといっていい。
 それが、実写育ちの演出家には、耐えられない画像に見えるのである。
 では、脚本家は、それを意識すべきか?
 少なくとも頭の中では、意識すべきであると思う。
 僕は、街でかがんでみたり、座り込んでみたり、背伸びをしたり、急にイスの上に立ち上がったりすることがよくある。
 余談だが、酔っ払いのように、道をはって行ったこともある。
 たまには、本当に酔っぱらってそんな行動をした時もあるが、多くの場合、別に酔って気分が悪くなったわけでも、奇行をしている訳でもない。
 子供の視線だったら何が見えるか? 大男の視線だったら何が見えるか、動物の視線だったら何が見えるか、試しているのである。まるで、映画監督がカメラを覗くように……。
 そして、自分が書く脚本で、どんな画面ができるか考えている。
 もちろん、僕の脚本ででき上がってきた映像が、映像を作るのが監督であり演出である以上、自分が考えていたものと違うのは当前である。
 それでも、脚本家は、でき上がる画面の予想をしながら、脚本を書くべきだと僕は思っている。
 そんなに、映像にこだわるのなら実写の脚本を書けばいいのに……事実、書いた事もある。
 アニメがいいか、実写がいいか、考えた事もある。
 しかし、今の時点では、アニメの方がいいと思っているし、実写の仕事を避けているうちに、実写の仕事自体が来なくなった。
 なぜ、アニメーションがいいのか? ……それを語ってから『戦国魔神ゴーショーグン』の次の仕事『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の話に入ろうと思う。

   つづく



●昨日の私(近況報告)

 オタクという呼び名がある。
 僕など、なんとなく女友達のいない、じめついた男の姿を連想してしまうが、実は、女の子の方が、オタクは多いのだそうである。
 確かに、『戦国魔神ゴーショーグン』や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』等の時に、どこで知ったかアフレコスタジオの前に待ちかまえるアニメファンは、女の子(または女の人)が多かった。
 今の僕の歳から考えれば、20代、30代は、みんな女の子である。
 この際、女性と呼ばなければならない年ごろの人も、女の子と呼ばせてもらう。
 ――ところで。
 『戦国魔神ゴーショーグン』の時は、まだ分かる気もするが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の時に、女の子が多いのは変な気もする。
 ファン・レターも、圧倒的に女の子が多かった。
 首藤剛志ファンクラブなどという、前代未聞、驚愕至極……(脚本家にファンクラブなんて、日本にあっていいのか?)の会長さんも女の子だった。
 しかし、おそらく日本初の脚本家のファンクラブは、今は消滅したようだ。
 みんな、それなりに立派な大人になって、オタク界から脱出したのだと思う。
 同人誌系も、圧倒的に女の子が多かった。
 僕は、僕に関わるアニメの愛好者は、オタクとは呼ばずファンと呼ぶ事にしている。
 そんなわけで、少なくともアニメオタクは、男より女性の方が多いという印象が僕にはある。
 ただ、女性の場合、学校や仕事場で、人の目にさらされる時、身ぎれいにしていたいから、いわゆるオタクっぽい格好はしない。
 きっちりとした服装をしているから、それと気がつかないだけだ。
 コスプレの女の子は、目立ちはするがそれほど多くはないと思う。
 女の子のオタクは普通以上に普通に見える。
 そんな女性のオタクのことを、「腐女子」とも呼ぶのだそうだが、なんだか気味の悪そうなイメージがする言葉なので、普通に「女の子のオタク」と呼ぶ事にする。
 さて、異性に声を掛けられない気の弱いあなたが、もし、オタクだとしたら、オタク同士なら何となく気が合うような気がするが、これが意外とダメである。
 オタクは多様化していて、しかも、自分の世界を作り上げている。
 自分のオタク世界に浸りきっているから、少しでも異質なものが入り込むと拒絶反応が起こる。
 まして、異性ともなると、理想とする異性像が二次元やフィギュアの世界に存在しているから、お互い、入り込む好きはない。
 結局、オタク同士で、異性のつきあいは、不可能に近い。
 やはり、同好会(サークル)や仕事関係で、異性と付き合うしかない。
 そこで、異性友達を作る度胸もない人は、脚本家になろうなどと考えない方がいい……と冷たく言いたいところだが、異性に声も掛けられず自分の部屋に引きこもって、色々妄想している人は、脚本家の日常の生活と似ているところも多い。プロの脚本家も、仕事は1人で引きこもって書いているのである。
 生活習慣は、そっくりといっていい。
 要するに、異性と付き合える引きこもりになればいいのである。
 とすれば、異性と接する機会の多い仕事を見つけ、なかば強制的に、異性と話し合える場所を作る事だ。
 そんな場所と仕事があるのか?
 ある。……少なくとも、僕の若い頃にはあった。
 それが、セールスである。新聞や求人雑誌に営業と書かれている仕事は、ほとんどセールスである。
 これなら、学生のアルバイトとしてでも、履歴をごまかせばやれるセールスが山ほどある。
 セールスは人と話さなければ、つき合わなければ仕事にならない。
 度胸もへったくれもない、仕事だからやらなければならない。
 できれば、相手が誰だか分からない飛び込み型のセールスがいい。
 ただし、新聞の勧誘などというのは止めておいた方がいい。
 新聞をとるかとらないかの勝負が早すぎて、話し合うとか、つき合うという前に、勝負が決まってしまう。
 電話で見込みをとるセールスも止めたほうがいい。
 電話を切られれば、それで終わりである。
 電話をかけ回っているだけで迷惑がられ、自分も電話をかける事につかれてしまう。
 相手の顔も見る事のできないセールスは、人と会った事にはならない。
 僕がここに書いているのは、セールスでお金を稼げと言っているのではない。
 より多くの異性と話し合い、つき合う方法としてのセールスである。
 飛び込みセールスの方法は、そこの会社で教えてくれる。
 売り込むものを断られても、お金稼ぎが目的ではないのだから、気にしなくていい。
 会社の上司から、嫌みを言われても、怒鳴られても、叱られても気にしない。
 何を言われても気にしなければ、自然とあなたに厚顔無恥という、度胸に近いものが育ってくる。
 会社から止めさせられるまで、いればいいのである。
 お金稼ぎでセールスをしているのではないのだから、かまわなくていい。
 止めさせられても、その手のセールス会社は、いくらでもある。
 飛び込みのセールスの場合、昼間の仕事で相手は家庭の主婦が多い。
 主婦であろうと男性にとっては異性である。
 あなたが女性ならば、会社関係のセールスを選ぼう。
 断られ続けているうちに、人の顔を見る事に自然と慣れてくる。
 断られ続けるうちに、少しだけ暇な時間がある人に出会う時がある。
 暇だから、「ちょっとだけなら」と話につき合ってくれる人も出てくる。
 そこからが異性とのつきあいの……いや、異性だけでなく様々な人生との出会いになる。
 もしもセールスがひとつでも売れれば、思いがけない余禄である。
 そんな気持ちでセールスをやろう。
 しつこいぐらい言わせていただくが。これは、「誰でもできる脚本家」のコラムである。

   つづく
 


■第45回へ続く

(06.04.05)

 
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