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第51回 『ミンキーモモ』変幻自在
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の第8話以来、ストーリー上、『ミンキーモモ』は、モモが大人に変身するシーンが、1回あれば、あとは、なんでもありになった。
モモが変身する大人も、子供のモモがよかれと思ってする変身だから、大人が考える変身とは違ってくる。
どんな大人になってもいい。モモが必要と思えば、泥棒になってもいいのである。
実際、レッド・キャットという泥棒になった事も、何回かある。
時代は、秘密情報部員007の流行ったころである。
特殊任務を持った00モモになって、007もどきに、秘密兵器を振り回した事もある。
相棒の情報部員が、ジェイムズ・ギブミー……いうまでもなくジェームズ・ボンドの名前が由来である。
悪の組織はスルメッチ……007シリーズの悪の組織、スメルッシュのもじりである。
活躍する場所も、どこでもいい。
大西部から、南海の孤島、北極、南極(はでてこなかったが)、宇宙……舞台は、脚本家におまかせになった。
もともとがどこかの地球のどこかの街である。
どんな事件が起きてもどんな変人、奇人、怪物が現れても、夫婦の関係がぎくしゃくして夢の国の王様が地球に落ちてきても、不思議でない世界になっていた。
月に1回、夢の国の王冠につくはずの宝石も、シリーズ構成の僕の、その回その回の気分次第だった。
ミンキーモモがどこにいこうが、何をしようが、どんな顔になろうが……実際、作画監督と原画が各回で変わるごとにモモの顔が変わり、これにはいささかとまどった……ファンの間でも誰それの作画監督や原画がいいの悪いのと意見が飛び交い、脚本家からも、自分の脚本は誰それの作画監督、原画の時にしてくれと、注文が出るぐらいだったが、いっさい僕は無視した。
芦田豊雄氏が作ったミンキーモモの個性的なシルエットに変わりがない以上、どんな顔をしていてもミンキーモモはミンキーモモなのである……という気持ちを崩さなかった。
もっとも、これはシリーズ構成としての僕の気持ちで、総監督の湯山邦彦氏がそこいらをずいぶん考え、苦労しただろう事は想像できる。
こんな具合にストーリーは変幻自在。主人公の顔さえ毎回変わったのに『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の作品の性格が変わらなかったのは、ミンキーモモの持つ個性をどんなエピソードでも絶対変えなかった事、小山茉美さんの声の演技が変わらなかった事、お供の三匹の個性づけを頑固に守った事、いつ出てきても変わらない地球のパパとママの天然ぼけした愛情表現を続けた事、夢の国の王様とお妃様の性格の普遍性を守った事……につきるだろうと思う。
よく、番組強化などという理由で、放送途中で、いままでレギュラーだったメンバーを入れ替えたり、付け加えたりする事があるが、まず失敗する。
企画当時に練り上げて、脚本家もスタッフもキャストも、やっと慣れてきたレギュラーを変えると、ほとんどの場合、前のレギュラー以上の魅力を持ったキャラクターにはなれない。
なぜなら、最初の企画当初でスタッフのアイデアは底をついており、キャストもそのキャラクターに最良と思われる人を選んでいる。
さらに言うなら、多くの脚本家の技量には限界があり、毎回のゲストはともかく、シリーズ全体を支えるだけのレギュラーを新しく描ききれないのだ。
結局、新しいレギュラーは、前のレギュラーの出し殻になってしまう。
新レギュラーに変更前のレギュラー以上の魅力を期待するのは、今の多くの脚本家の力量からして無理なのである。
もちろん脚本家の実力にもよるが、今のほとんどの脚本家は、描く人物がパターンどおりの個性だとしても、十人以上のキャラクターをきっちり描き分ける事は難しいと思う。
それが分からずに、番組のレギュラーを、簡単に変える事は危険である。
昔、ある人気番組で、大プロデューサーの独断でレギュラーを変えた作品があった。
そのレギュラーの顔が外国では受けないという変な理由だが、当時、その番組のシリーズ構成だった僕には何の相談もなく、抜き打ちの決定だった。
変わりに入ってきたレギュラーは、前のレギュラー以上の魅力は出せなかった。
当たり前である。
脚本家が、急に現れたレギュラーに対応できるはずがないのである。
レギュラー変更に何の相談も受けていない僕が、新レギュラーに対してやれることはない。
ただ、レギュラー変更を決めた大プロデューサー以下スタッフを、馬鹿な事をする人たちだなあと思っただけである。
やがて、新しいレギュラーのために、今までのレギュラーたちのバランスまで崩れていき、明らかに作品が低迷してきた。
と、降ろしたはずの前のレギュラーが外国でも結構受けているという情報が入ったらしい。
たちまち新しいレギュラーは外され、前のレギュラーが戻ってきた。
その番組は長寿番組となり現在も続いているが、前のレギュラーは昔のままのキャラクターで出続けている。
前(そして今)のレギュラーと少しの間だけ入れ替わった、新レギュラーのキャラクターをデザインした人、そしてなによりその声を担当した俳優さんが、かわいそうだった。
もともと、レギュラーになりうる魅力のない役をやらなければならなかったのだ。
大プロデューサーの、少しでも番組を売りたいという気持ちはよく分かる。
だが、一度決めた事は動かないという事も大事である。
この大プロデューサーは、脚本家というものをよく知らない。
脚本が読めないプロデューサーともいえる。
この大プロデューサーの最大の功績は、あるゲームをアニメ化した事である。
それは多分誰もが認める事である。
が、その後、この方が番組を売りたいがためにその作品にした事は、当時シリーズ構成の僕としては、首をひねる事が多かった。
作品がヒットしているので、それが目立たないのが、幸いである。
よかったですね……と、心から思う。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、最初のレギュラーを絶対に動かさなかった。
それに『魔法のプリンセス ミンキーモモ』には、作品に口を出すプロデューサーはいなかった。
代理店読売広告社の大野実氏が、サンタクロースが実在するような話をやりたいと、企画当時からおっしゃっていたが、それはもうこっちも同感し了解した、お約束のようなものだったから、口を出した事にはならない。
葦プロの社長も、作品を気に入ったのか「ええだばええだば」で、にこにこしていた。
スタッフも乗ってくれたようで、脚本には書いていない、画面上での色々な遊びというか、いたずらがちらほら見え、これには怒るわけにも行かず痛しかゆしだった。
後は、スポンサーの玩具屋さんが何を言い出すかだが、少なくとも「打ち切り」を言い出す終盤近くまでは、何も言ってこなかった。
いや、言っていたのかもしれないが、葦プロのプロデューサー加藤博氏や梅原勝氏は、僕の耳にまで通さなかった。
当初はおそらく誰も想像しなかっただろう、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のストーリーの変幻自在さに、もしかして一番困ったのは、総監督の湯山邦彦氏、そして音楽の高田ひろし氏と音響監督の藤山房延氏かもしれない。
例えば、『ミンキーモモ』のBGM(バック・グラウンド・ミュージック)は、『ミンキーモモ』の脚本の最初の2、3本を読んで、全話分……予定としては52話分……の百数十曲ぐらいを作っておくのだが(音楽のメニュー出しという)、なにしろ『ミンキーモモ』の最初の2、3話分といったら、スポンサーを意識して、女の子向け魔女っ子もの風に、おとなしいストーリーになっている。
当然BGMも、少女向きにおだやかなものが多くできてきた。
湯山邦彦氏も『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のその後の展開が、あれほどはっちゃけたものになるとは思っていなかっただろう。
ところが、話が進んでくると、ファンタジーはともかくとして、アクション、カーレース、西部劇、戦争、怪獣、宇宙SF、ラブロマンス、エトセトラ……まともな少女もので終わる回がほとんどない。
たちまち使える曲がなくなってきた。
BGMを選曲しなければならない藤山房延氏の苦労は、想像を絶する。
『ミンキーモモ』用に作られたわけではない著作権フリーの曲を持ってきたり、クラシックを持ってきたり、音楽の調達だけでも大変なのに、女の子ものにはでてきそうもない、爆音、轟音など、ほとんどアクションアニメと同じような効果音が必要になる。
おまけに、アフレコスタジオには僕が来ていて、台詞はアドリブの山である。
予告編は僕がアフレコの現場で書くから、アフレコ終了ぎりぎりまでできてこない。
藤山氏は、外見は温和な方である。
いつもにこにこと音響監督をしていてくださる。
しかし、『ミンキーモモ』に関する限り、ずいぶん悩まれたのではないかと想像する。
もしも、『ミンキーモモ』のせいで、白髪が増えたとしたら、申し訳なくもありがたいとしかいいようがない。
藤山氏があるコメントで『ミンキーモモ』の事を、「見る側としても楽しめる、思い出深い作品……」と語ってくださっているので、うれしいと同時に、同じ仕事をしたスタッフとして、いまさらながらだが感謝の気持ちでいっぱいである。
だが、それでも曲が足りない現実は変わりない。
そんな時に『ミンキーモモ』の音楽制作を担当していたビクターレコードから――なお海モモはキングレコードだった――『ミンキーモモ』の新しいLPを出すという救いが入った。
何が出てくるか分からない『ミンキーモモ』だから、必要になる曲を言ってくれというのだ。
そこで、作曲家の方と会って、メニューを出した。
その時以来、僕がシリーズ構成をする作品では、音楽のメニュー出しには意見を言わせてもらい(『ポケモン』は歌の作詞は一曲したが、BGMのメニュー出しには参加していない)、BGMの全曲を手元に置いておく事にしている。
脚本と映像と音楽は切り離せない……脚本を掌握するシリーズ構成も、BGMに対して意見を持つべきであるというのが、僕のシリーズ構成をする上でのスタンスである。
『ミンキーモモ』で是非とも必要なのは、フェナリナーサが降りてくるシーンのBGMだ。
すでにその時、フェナリナーサが地球に降りてくるストーリーは考えていなかった。
『ミンキーモモ』の元になった「フィナリナーサから来た男の子」というミュージカルのラストシーンも、地球に夢を取り戻す事に挫折した少年が、絶望してしょげかえっている時に、ふと見つけた赤ん坊の笑い顔の中に、フィナリナーサが降りてくる姿をイメージして、勇気づけられるというものだった。
「この子の瞳の中にはフィナリナーサが見えている……だから、いつか、きっと……」
と、微笑む少年の姿がラストシーンのつもりだった。
もちろん、LP制作の時にはまだミンキーモモが車に轢かれ人間に転生する事は考えていなかったが、全編のラストシーン近くで、ミンキーモモの夢でもいいから、フェナリナーサが地球に降りてくるシーンだけは見せるべきだと思っていた。
イメージとしては、東京オリンピックの閉会式があった。
それまでのオリンピックの閉会式は、国ごとに入場していたが、東京オリンピックの閉会式は違っていた。
国や民族の隔たりなく、みんながどっと会場に流れ込んできたのだ。
なかなかに感動的な閉会式だった。
あの閉会式のように、フェナリナーサの住人たちが門が開くとドーッと地球に降りてくる。
その時のBGMがどうしても必要に思えた。
僕は作曲の方に、そのイメージを伝え、ディズニーのピノキオの主題歌「星に願いを」を派手にしたような感じの曲に……とお願いした。
それが「夢のフェナリナーサ」という曲である。
いい曲だと思う。
これには後日談がある。
それからずいぶんして、似たような曲をラストシーンに持ってきた映画を見た。
「未知との遭遇」である。
そのラストシーンに流れる曲がどこか僕には「夢のフェナリナーサ」をほうふつとさせた。
作曲はジョン・ウィリアムズ。
監督のスティーブン・スピルバーグは、ジョン・ウィリアムズにラストシーンの曲を「星に願いを」をモチーフにして作ってくれと頼んだそうである。
単なる偶然だが、なんとなく楽しかった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより、だれでもできる脚本家・番外編)
それでは、脚本を書き始めてみよう。
何を書いたらいいのか分からないという人が時々いるが、そういう人は脚本を……いや文章を……それだけではなく芸術と呼ばれるもの全般から撤退したほうがいい。
何かを表現したいから、そのひとつとして脚本があるわけで、何を表現したいか分からないで、ただ職業としての物書きや芸術家にあこがれているなら、止めておく事だ。
まず最初に表現したい事があって、その手段として職業があるのである。
よく、テレビや映画を見て、あの程度の事なら私にも書けそうという理由で、脚本家を目指すのは間違いである。
まず、表現したい事がある。
それに適しているのが脚本家のようだから、脚本を勉強する……というのが本筋で、脚本家という職業になりたいから、脚本を勉強するのは筋違いである。
例えば、画家になりたいから絵を勉強するのではなく、自分が表現したいものが絵でしか描けないものだから、絵の勉強をするのである。
もっと至近な例を取るなら、歌手になりたいから歌を勉強するのではなく、歌でしか表現できないものがあるから、歌を勉強して歌手になるのである。
もっと露骨な言い方をすれば、ホリエモンになりたいから、ホリエモン商法の勉強をするのではなく、金を儲けたいから、ホリエモン風商法の勉強をするのである。
結果はどうなるか分からないが……。
そこを勘違いするから、脚本家になる方法とか、脚本作法などというハウ・ツー本が、流行る事になる。
正直言って、作法などどうでもいいのである。
あなたが表現したいものがあるかどうかが、一番大事なのである。
あなたが表現したいものを、他人が教えられるはずがない。
だから、あなたに表現したいものがない限り、学校も、参考書も、先生も、無意味である。
そこを勘違いしているかいないかを、まず自分に問い掛けてみよう。
自分が誰かに表現したいものがある人しか、僕がこれから書く事はお役に立てない。
ただ、自分に表現したい事がなくても、現役の脚本家をやっている人が多い事は確かだと思う。
それは、その人の生き方だから否定はしない。
脚本家に、勝ち組と負け組があるという言い方をした人がいた。
もしかしたら、自分の表現したい事がなくて脚本家をやっている人のほうが、勝ち組は多いのかもしれない。
けれど、僕がこれから伝えようとしている「誰でもできる脚本家」は、「誰でもなれる脚本家」ではない。
ましてや、脚本家の勝ち組になる方法でもない。
そのため、普通のハウ・ツー本とは内容がずいぶん違っているかもしれない。
そこのところ、よろしくご理解の上、これからの話を読んでいただきたい。
まず、脚本家の基礎として、普通、最初に、プロット(あらすじ)の作り方、書き方、というのが出てくる。
確かに、自分が書く脚本がどんなものかを、他人に知ってもらうための手段として、プロットが必要になってくる場合がある。
映画は、脚本家1人で作れるわけではなく、他の人にどんな脚本なのかを知ってもらう必要があるからだ。
特に規模の大きな映画や、テレビ作品では、いやでもプロットを要求される。
しかし、さしせまってその必要がない限り、表現したいなにかがあるあなたには、プロットなんぞ書く必要はない。
むしろ、脚本表現者であるあなたには有害ですらある。
だから、シリーズ構成(番組脚本の元締めみたいなもの)だった僕は、あるシリーズ作品以外(ぶっちゃけて言うと『ポケモン』だが)プロットを書いてもらった覚えがない。……『ポケモン』の場合、僕がプロットを要求したのではなく、他のスタッフがどんな作品ができるか心配で、僕を含めてそれぞれのライターに要求したのだ。
プロット(あらすじ)なぞ、脚本家なり演出家なり、製作者なりが、互いに話しあえば分かる事で、それを文章にしてみると、そのプロットに、書いた脚本家自体が縛られる傾向がある。
それが困るのだ。
では、脚本を書くあなたにとって、なぜ、プロットを書く必要がないかを詳しくお話ししていこうと思う。
つづく
■第52回へ続く
(06.05.31)
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編集・著作:
スタジオ雄
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