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第55回 『ミンキーモモ』は「ロリコン」を受けて立つ?
先週、ロリコンや、萌え現象について書いたら、少なからず反響があった。
「ロリコンのどこが悪い」「萌えキャラなしで今のアニメは成立しない」など、自己弁護というより、居直ったような過激な口調が多い。
僕としては、驚いたというより、「やっぱり」という感慨が強い。
最初の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が世に出てから、4分の1世紀が経つが、この種類の趣味を好む人が、商売の対象になるどころか、産業になるほど増殖し、あたかも市民権を得たかのように堂々と闊歩するようになった。
ペドフィリア(小児性愛)との関連をいう人もいるが、そこまで、いわゆる困った人が、今、「ロリコン」と呼ばれる人の中に多数いるとは、さすがに僕も思ってはいない。「ロリコン」や「萌え」は現代の社会現象のひとつだと感じている。「ロリコン」と「萌え」は違うという人もいるが、傍から見れば、大同小異にしか見えない。
昔、「ロリコン」という言葉が流行り出した時、精神科の医者や、心理学を勉強している人や、カウンセラーに、この現象について聞いた事がある。
色々な見方があったが、要するに依存症の一種と見るのが、妥当のようである。
依存症には、アルコール依存症を筆頭に、煙草依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症などいろいろあるが、当時「ロリコン」で表現される男性の現象は「生身でない疑似少女への恋愛依存症」だという説である。
実害のない間は、関わらないでおけばいい。
自分で気になる人は、精神科やカウンセラーに、気楽にいって相談する手もある。
だが、普通はそっとしておけばいい。
アルコール依存症や薬物依存症のように、進行を止める事はできるが、もとの体に戻る事のない不治の依存症とは違い、生身の女性と付き合うようになれば、自然と直るだろう。
だが、現実は、そうは行かなかったようである。
生身の女性と付き合うどころか、それを面倒に思ったり、むしろ嫌がる男性が増えているのだ。
あるアニメ業界の若い人に聞いたら、「生身の女性は、近づくと毛穴が見えて、気味が悪い。その点、アニメやフィギュアは、それがないからいい」と言っていた。
これには驚いた。「ロリコン」や「萌える男」は女性にもてない男性、というのが通説だったが、自発的にもてたくない男性もいるのだ。
生身の女性が苦手だから、疑似のアニメやフィギュアに愛を持つ。
確かに、生身の女性は、付き合うのにいろいろ面倒くさい所があるのは否定しないが、この世の中には、男と女しかいないのである。
日本人の男が、「ロリコン」と「萌える男」だけになり、生身の女性と性愛関係がなければ、子供がいなくなり、日本人は滅亡してしまう。
もちろんこれは大袈裟な冗談だが……女性の自立化も手伝ってか、現実は結婚しない男女と少子化はどんどん進んでいる。
確かに、家庭を持ったり、子供を育てるのは、お金がかかる。
同じお金を使うなら、男になにかと文句を言わないアニメやフィギュアのほうが、愛する対象としては便利かもしれない。
明らかに増えている「ロリコン」や「萌える男」現象を、そういうふうに考えれば、好意的に解釈できないこともない。
ただ、「ロリコン」や「萌え」に興味のない、僕のようなアニメの脚本の作り手としては、気持ちのいいものではないし、「ロリコン」とか「萌える男」とか言われる人たちへの対処をどうしたらいいか、考えている事は確かである。
商売になるんだから、むしろ購買層として標的にすべきだ、という考えが多いのも確かである。
脚本家の作り手の中にも、その趣味の人が増えてきているから、それが商売になるのは大歓迎だという人もいるだろう。
ご本人が「ロリコン」ないしは「萌える男」系だったら、趣味と実益を兼ねて、大喜びかもしれない。「ロリコン」や「萌え」は、商売から見れば、今や、大事なお客様なのである。
お客様は神様である。
威張って「ロリコン」でいていいし「萌える男」でいていい。
だが、そんな男性たちが忘れているものがある。
アニメやフィギュアで、代用されている、生身の女性達である。「ロリコン」や「萌える男」現象に対する、女性達の思いは、今は、あまり表面に出てきていないようにみえる。
さて、女性の間では、30代前に結婚しないと負け組という意識が一部にあるらしい。
そして、ついに、負け組の女性が増えるのは、オタクの男が増えて、男性が結婚したがらないからだ……という説を唱える本も出てきた。
女性側からの告発である。
現代は「フェミニズム」の盛り上がっている時代である。
女性を、生身ではないアニメやフィギュアを代用にして愛するのは、現実の女性を蔑視しているという意見もちらほら出だしている。
男性が行動や言動には出していないが、頭の中であっても、アニメやフィギュアを性愛の対象とするのは、セクハラと同じだと、怒りを感じる女性もいる。
彼女達の意見が、社会的な表面に出るようになると、「ロリコン」や「萌える男」現象は、どう対応するだろう。
もしかして「ロリコン」や「萌え」対象商品は、禁止され、アニメも規制を受けるようになる。
と、なると、表現の自由の問題まで波及してくる。
これは、今のところ、妄想に過ぎない僕の戯れ言である。
ところで、なぜ、僕が「ロリコン」や「萌え」の対処にこだわるかといえば、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が、ロリコンの元祖だとか本家だとか言われることが嫌なだけではない。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の空モモが終わった時、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品の全てが完結したと思っていた。
しかし、10年後に続編が作られる事が決まった時、リメイクにしない以上、前作と10年の違いがある時代性も表現すべきだと考えたのである。
民話や昔話は、時代によって、テーマは同じでも表現が変っていく。
同じミンキーモモでも初代のミンキーモモとは10年の隔たりを感じさせるファンタジーでなければ作る意味がないと思った。
だから、海モモが活躍した時代を表現できる脚本家……つまり、自分の生きている時代をファンタジーに織り込んで表現できる若い脚本家を見つけるのに、非常に苦労した。
初代のミンキーモモを書いた人たちにも少しだけ、ご祝儀的に書いてはいただいたが、それは時代性とは関係のないエピソードで、主に海モモの脚本全体の質を上げるために書いていただいた。
だが、海モモの時代的感覚を描くべき主流になる脚本には、なかなかいい感覚の持ち主が現れなかった。
そのため仕方なく、僕の見た時代感覚が、海モモにはエピソードの中にさりげなく放り込まれている。
残念ながら、脚本全体の質としては、海モモは空モモより優れているとは言いがたいと思うが、初代空モモとの時代の変わり具合は、ある程度、表現できたとは思う。
海モモ当時を思い出せば、「オタク」とか「ロリコン」は、コミケやポルノアニメ等では出現していたものの、時代性を表現するほど突出してはいなかった。
そのため、「ロリコン」等の存在は、脚本上、無視できた。
男性にこびる内容の脚本でないことだけに気を遣えばよかった。
でき上がった作品を、視聴者が「ロリコン」的に見ようが、「萌え」的に見ようが、それは見るほうの勝手であると割り切れた。
だが、3代目のミンキーモモがあるとしたら、今や社会現象になっている「オタク」「ロリコン」「萌え」を無視できない。
少なくともエピソードのいくつかには、登場するだろう。
すでに考えてあるエピソードには、こんなのがある。
大人になっている空モモと海モモと3代目の魔法の使えるモモは、とある町に迷いこむ。
その町には、女性と子供が誰も住んでいなかった。
町の男たちが追い出したか、女性達が逃げていったのか、ともかく男達しか住んでいない。「ロリコン」と「萌える男」達だけの町だったのだ。
女性の姿らしいものがあるが、それは、みんなフィギュアだった。
そんな町に紛れ込んだ、生きている女性である3人のミンキーモモはどうなるか? どうするか?
男達は、どんな行動にでるか?
しかも、その町のバックには、巨大な「ロリコン」「萌え」系の大企業がついていた。
3人のミンキーモモの大冒険が、始まる。
こんなエピソードだが、肝心の僕が、「ロリコン」趣味が皆無で、萌え感覚もない。
登場する「ロリコン」も「萌え男」も気味の悪いものにはしたくない。
今は当たり前の、社会現象なのである。
よくあるホラータッチなものにはしたくないのだ。
だからこそ、「ロリコン」や「萌え」の事を、よく知りたいと思う。
3代目のミンキーモモは、「ロリコン」や「萌え」など、気にしないタフな女の子にしたい。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』も3代も続けば、タフでなければ生きていけない、それでいながら優しいファンタジーでなければ、やっていけないと思っている。
現代に比べれば、初代の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本は、のん気なものであった。
基本は、昔話や民話をベースにしていたが、やりたいことをやっていた。
脚本的には、30話近くから粒ぞろいになってきた。
普通の脚本には、ありえないト書きも出てきた。
29話の「UFOがやって来た」というエピソードには、こんなト書きが、書かれている。
本当のUFOが登場する場面である。
……UFOが降りてくる。
……日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーンが展開する。
これが、ト書きである。
「日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーンって、どう描けばいいんだ?」
この脚本を受け持った演出・絵コンテの、大庭寿太郎氏は、おおいに困ったそうである。
それでも、脚本側に文句はこなかった。
その脚本を書いたのは僕……アバウトなものである。
でき上がった作品のそのシーンが、「日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーン」かどうかは、脚本を書いた僕も、作り上げた大庭氏もスタッフも、何も言えない。
その感想は、視聴者にまかせるしかない。
それにしても、首藤剛志という脚本家は、無茶なト書きを平気で書くシナリオライターだと、自分でも感心する。
くれぐれも真似はしないように……。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
僕がワープロを使い出したのは、『銀河英雄伝説』の劇場版を書いた時からである。
それまでは、原稿用紙に万年筆かサインペンで書いていた。
つまり、消しゴムを使う必要もない、直しのない原稿だった。
書く時間もかなり早い方で、普通脚本は200字詰めの原稿用紙(ペラと呼ぶ)で書くのだが、僕の場合、400字詰めで書く事も多かった。
200字では、1枚が短すぎて、1枚1枚めくるのが面倒だったからだ。
脚本上の直しもほとんどなく1稿で通していたから、直しが出てきた時に、書き直す量が少なくて済むための200字詰め原稿用紙を使わなくてもよかった。
それがなぜワープロを使ったかというと、『銀河英雄伝説』の登場人物の名前が、やたら長かったからである。
おまけに、戦艦の名前など専門の造語もやたら長い。
どんなに長いかといったら、ここに書くのも大変なので、ビデオや田中芳樹氏の原作で確認してくださいと、さりげなくPRしてあげるのが、僕の親切なところである。
僕は、脚本と原作とは違うものという考えだから、内容を変える事はあるが、登場人物の名前までは、さすがに変えられない。
しかし、脚本の台詞にいちいち、それを喋った人の名前を書き込んでいたら、名前を書いているうちに、書こうと思った台詞を忘れてしまう。
おまけに、僕の台詞のやりとりには、ある種のリズムがあるから、長い名前を書き込んでいるうちに、リズムが取れなくなる。
そこで、ワープロの文字登録機能に目をつけたのである。
ラインハルトという名前なら「らい」、キルヒアイスという名前なら「きる」で変換できる。
これだと、リズムが崩れず、脚本が書ける。
おまけに、当時買ったワープロは、NECのM式という、今はない特殊なキーボードだった。
このワープロの大きな特徴は、漢字にする文字は最初に確定できる事だった。
つまり、普通のワープロは、ひらがなを打ってから漢字に変換するが、M式は、漢字とひらがな用のキーが最初から別れていて、最初にキーを打つ時に、それが漢字になるかひらがなになるかを、確定できるのだ。
日本人にとっては、とても便利なキーボードだったが、時代の流れで消えてしまった。
次に便利だと思われた親指シフトも、今はほとんど見かけない。
日本の企業は、ワープロで日本語を書く時の便利さをどうでもいいと思っているらしい。
いまさら日本語表現にローマ字変換しかないようなパソコンに文句をいっても仕方がないから、話を元に戻す。
『銀河英雄伝説』は、軍人が使うような硬い台詞を使っていたから、あまり問題はなくワープロを使えていた。
それでも、漢字で書くと決めて、キーボードを打つM式ですら、違う熟語が出てきて、結構いらいらさせられた。
それが、『銀河英雄伝説』から離れて、普通の脚本を打ち出すと、もう、目茶苦茶である。
日常的に使う会話がうまく変換できないのだ。
つまり、お役所的公用文には、何とか適応できても、日本人が普通に使う会話、方言、微妙なニュアンスは、まったくお手上げになってしまう。
まして、個人個人が使う個性豊かな特有の喋り方は、ほとんど無理という事になる。
つまり、脚本の命でもある会話に、ワープロは向いていないのである。
変換効率が高くなったと言われる現在のワープロソフトも、こと会話になるとお手上げになる。
それに、会話は時代と場所によって変わってくる。
ワープロの変換はそれについていけないのである。
小説等で、特有な文体のある文章は変換不能である。
ところが、今の時代は、脚本も小説も、パソコンでワープロを使うのが常識である。
脚本など、ワープロで書かないと、読みにくいからと受け取ってもらえない場合もある。
ファックス、メールも、枚数の関係で、ワープロの方が、便利だ。
そのためか、作家が、ワープロの変換に合わせて、文章を書いている節さえある。
いくら最近は利口になったとはいえ、それは公式文書のような硬い文章の事……やっぱり、ワープロは、未だに馬鹿である。
ワープロ変換にまかせて文章や会話を書くのは、文章を馬鹿に合わせて、馬鹿な会話を書くのと同じである。
自分の書く文字が汚く読みにくいから、ワープロで脚本を書くという人も、ワープロの初期は多かった。
折角の脚本が、読みにくい字のために、下手に見えるというのだ。
だが、そういう人は、文章も会話も、最初から上手いとは言えなかった。
だから、脚本の初心者の人に特に言いたいのは、最初の原稿は紙に書けという事だ。
そして、誤字や脱字は構わないから、自由に自分のリズムで書く。
ワープロは、あくまで、推敲を兼ねた清書用に使おう。
物書きにとって、パソコン、ワープロは敵だと思っておいた方がいい。
つづく
■第56回へ続く
(06.06.28)
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編集・著作:
スタジオ雄
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