web animation magazine WEBアニメスタイル

 
アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第59回 『ミンキーモモ』延長再開あれこれ

 一度、打ち切りになった『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の延長が決まった理由は、ファンの要望でも、視聴率が後半上がって行った事でもなかった。
 関連商品の売り上げが少なくなったスポンサーにとって『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、もう、番組を続ける理由がなかった。
 だが、その頃である。
 おそらく、『ミンキーモモ』とは関係なしに、スポンサーが完成した玩具があった。
 かみ切りばさみのような用途を持った、龍の子供とも、ワニの子供ともつかないデザインをした玩具で、名前はカジラと付けられた。
 だが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』打ち切りを決めた今、カジラをアピールするのに適当な場所がない。
 だったら、いっそ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を復活させて、その中でカジラを活躍させようというのが、スポンサーの考えだった。
 スポンサーとしては、ミンキーモモのお供の3匹、モチャー、ピピル、シンドブックを、カジラ3匹に入れ替えて、番組を続けるつもりだったようだ。
 しかし、お供の3匹がカジラになったのでは、もう『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界ではない。
 しかも、最終回でミンキーモモが人間の赤ん坊になっている事を、スポンサーは知っていなかったのか、それとも眼中になかったのか、ともかく、カジラ三匹をお供にして番組を再開しろという。
 だが、得体のしれない龍だかワニの子供を3匹お供にして活躍する『魔法のプリンセス ミンキーモモ』など、僕は考えつかなかった。
 このまま再開などせずに終わった方が、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品にとっては、ましだとすら思った。
 けれど、制作会社としては、打ち切られるより制作続行の方がいいに決まっている。
 どうにか妥協案はないのか? ……こちらの答えは「ありません」としか言えなかった。
 そこで登場するのが、総監督の湯山邦彦氏である。
 彼はスポンサーとの会議で熱弁を振るい、今までのお供達の重要性を強調した。
 とうとうスポンサーは、今までのお供の3匹はそのままにして、1匹のカジラをお供に付け足す事で妥協した。
 日ごろ口数が多いとも思えない湯山邦彦氏が、どんなふうにスポンサーを説得したかは、僕には謎である。
 余程、熱心に話したのだろう。
 お供がカジラ1匹ふえるだけなら、なんとかなる。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の再開は決まった。
 決まったはいいが、人間の赤ん坊になったミンキーモモは、元に戻れない。
 下手な再開の仕方をすれば「夢は人に与えたり与えられたりするものではなく、自分で見るもの」というテーマで終わった話が緩んでしまう。
 結局、赤ん坊のミンキーモモが、夢の中で見る、少女に成長した頃の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の話という奇妙な構造にした。
 内容は、もしもミンキーモモが自動車事故にあわなかったら、どんな出会いがあっただろう……そして、当初考えていた、夢や希望を阻むものとの戦いで終わらせる事にした。
 51話の、死を直前にしたアクションスターが最後のスタントに賭ける「ラストアクション」や、妖精の存在を信じる少女が、その思いを阻む黒い雲と闘う59話「ある街角の伝説」などは、ほとんど、ミンキーモモが自動車事故にあうエピソードの前から考えていたものである。
 しかし、打ち切りが決まってからの再開は、ほとんど仕切り直しと同じである。
 特にスタッフは大変だったようである。
 もう、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』とは別の仕事にとりかかっている人もいたろうし、それを再結集するには、楽ではなかっただろうと思う。
 時間の足りなさを、取り繕うために、「MINKY MOMO GRAFETY」という総集編を2話付け足したが、それでも放映に間に合わすのにスタッフ一同、必死だった。
 シナリオも、僕はアフレコに出続けていたから、作品を連続性をもって見ていられたが、他の脚本家は、自分の作品が終わった時点で『ミンキーモモ』から離れている。
 他の仕事に取りかかっている人もいた。
 僕にしても、『さすがの猿飛』というアニメと『戦国魔神ゴーショーグン』の小説、『まんがはじめて物語』がかぶり始めていた。
 それに加えて『ミンキーモモ』の再開版……頭の中が、支離滅裂状態だったといっていい。
 だが、助かったのは、脚本家の誰もが、『ミンキーモモ』を、忙しいからといって嫌がらなかった事だ。
 むしろ、自分の書きたいものが書けるならと、積極的に参加してくれた事だ。
 最初52話予定が、46話で打ち切り、それが63本になった。
 2本の総集編を引いたとしても、単純計算で9本増えた事になる。
 46話で、ミンキーモモを人間の赤ん坊にしたために、当初考えていたエピソードが使えなくなったものがある。
 63話まで、明らかにエピソードが足りなくなっていた。
 そこで、思いがけず助かったのは、筒井ともみさんと金春智子さんの2人の女性ライターが、自分の書きたいらしいものを持って、ミンキーモモに戻ってきた事だ。
 筒井さんは、デビルクイーンという、白雪姫に変身したミンキーモモに対抗する、奇妙なキャラクターを作ってきた。
 このキャラクターはなぜかスタッフに気に入られ、スタッフ側から続編を作ってくれという要望が出て、3部作になった。
 筒井さんは、もともとあまりアニメには関心を持っていない人だが、デビルクイーンは、自分で書いて妙に気に入ったらしく、1本だけのつもりが、結果、3本も書いてしまったのである。
 もう、他の人にデビルクイーンは渡したくないと思ったのかもしれない。
 スタッフも、同じような気持ちだったらしく、なぜか3部作とも演出・絵コンテ湯山邦彦氏、作画監督わたなべひろし氏である。
 このスタッフの巡り合わせは、ローテーションというより作為的なものを感じるが、作品の出来がよければそれでよしである。
 デビルクイーンの3部作について、僕が注文したのは、3作目で人間の夢や希望をはばむ黒雲の存在を意識してくれと言った事だけである。
 実は、デビルクイーン3部作の最後の脚本では、デビルクイーンは死ぬ事……または生死不明になるはずだった。
 筒井さんは、自分の作ったキャラクターは自分で始末をつけたかったのだろう。
 しかし、湯山邦彦氏が、デビルクイーンの生きている姿を出したいと言い出し、多少の論争になった。
 僕としては、どっちの気持ちもよく分かった。
 どちらにしても、再開後の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』はミンキーモモが夢の中で見る話である。
 悪夢を強調するには、デビルクイーンの死もあるだろうし、湯山氏のヒューマンな終わり方も分かる。
 結局、デビルクイーンは生き延びる事になった。
 筒井さんは、いつもはアニメを厳しい目で見る人なのだが、3部作を通し、でき上がりを見て漏らした感想は……「まあ、いいんじゃない……」であった。
 この台詞が出る時は、結構満足している時なのだ。
 金春智子さんは、時間SFものがなぜか好きのようである。
 それも、作家ジャック・フィニィのようなノスタルジックなファンタジーである。
 まさに時間ファンタジーそのもののような53話「お花畑を走る汽車」、地球上のパパとママの昔を描いた60話「時は愛のゆりかご」、時間ものではないが超能力少女の孤独を描いた56話「木もれ陽の少女」の3本は、『ミンキーモモ』の形を借りた金春ワールドのような気がする。
 金春さんの作品にも僕が言ったのは、黒い雲の存在を意識してくれという事だけだった。
 その他、谷本敬次氏のものは、彼の趣味的なものが出ていたし、土屋斗紀雄氏には、ミンキーモモが交通事故で転生しなかった場合の、『ミンキーモモ』が始まる当初に考えたエピソードをアレンジしたものを、主に書いてもらった。
 だが、正直な話、『ミンキーモモ』が再開した頃の困った存在は、カジラだった。
 ストーリーのどんな位置で、どんな事をすればいいのか、誰も分からなかった。
 スポンサーから押し付けられた付録でしかなかった。
 カジラの声を担当する千葉繁氏が、カジラを見て、「これ何? ……俺、何をすればいいの?」と言っていたが、それに答えられる人はいなかった。
 余計な事を喋られても困るので、台詞もなかった。
 ただ、台詞で「カジ……カジ……カジラ」と自分の名前を叫ぶだけで、あたり構わず、周りのものを噛っているギャグメーカーでしかなかった。
 それでも、千葉繁氏は、それぞれの場面で感情を込めて「カジ……カジ……カジラ」を喋っていた。
 もともと、カジラが何のために出てきたのか分からないギャグメーカーでは、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の作品自体が困るのである。
 意味のない存在は、だれ1人、レギュラーに入れるつもりはなかった。
 カジラがレギュラーである以上、カジラにも存在理由がなければならなかった。
 その存在理由らしきものを考えついたのは、夢や希望を阻む黒い雲が、頻繁に登場し出した頃である。
 カジラは……ミンキーモモを守るために存在している。
 つまり、ミンキーモモが自分を守ろうとしている、自我意識のようなものだ。
 だが、モモを守ろうとしているものは、ただ単にミンキーモモの中だけにあるのではない。
 カジラは、しかし最終回までそれらしい行動は見せない。
 最終回にきて、カジラの存在理由がはじめて分かる。
 僕は、カジラの存在とストーリーの展開がそれでいいのかどうか、何度も反復して考えた。
 やがて、カジラの存在に確信めいたものを持てるようになってきた。
 そして、カジラの存在理由を決めた時、むしろ今度は自発的にカジラは、自分の名前以外、喋らせないようにした。
 カジラが喋るのは、最終回、それもクライマックス寸前、自分の存在理由を、存在する価値を語るようにする事にした。
 カジラの存在価値については、スタッフにも脚本家にも話さなかった。
 妙に意識されて表現されると困るからだ。
 ただ単なるギャグメーカーという存在でいい。
 スタッフもそのつもりで描いていたようだった。
 ただ、声を演じる千葉繁氏には、カジラは、ミンキーモモの自由奔放な自我意識のようなもの、ミンキーモモが普段抑えているものが、あっちこっちへ飛んで行って好き勝手な事をやっている、その自我意識が形になっているんだ――とは、説明しておいた。
 たとえ、「カジカジカジ……カジラ」という台詞しかなくても、声を演じる役者さんには、自分が何であるかの手がかりは必要だからだ。
 千葉繁氏は、ほとんどないに等しい台詞を、自由奔放に、よくやってくれたと思う。
 だが、自我意識等というものは、絵や台詞では説明が難しい。
 もっと分かりやすい表現はないのか……僕は、再開したミンキーモモの後半は、ほとんど、その事ばかり考えていたといっていい。
 人間の夢や希望を阻むもの、絶望やあきらめが、赤ん坊のミンキーモモが見る夢の中では、黒い雲の形で見えるというのは、かなりうまく表現できたと思う。
 が、それに打ち勝つ自我意識を、どういう戦いで表現したらいいか……。
 それが、いよいよ打ち切りでないラストに向かう『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の大きな課題だった。
 そして、残り2話を残すところまで、脚本はやってきた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 念には念を入れ、あなたのイメージの中で、よみがえった脚本を、もう一度、録音を聞いて点検してみよう。
 冗長なところはないか。
 自分だけで分かって、他の人には分からないところはないか。
 まるで、他人に説教しているように、台詞で説明しているところはないか。
 そして、何より大事なのは、自分がイメージした自分の映画が、面白く感じられるかどうかだ。
 面白いと感じられたら、合格である。
 ただ、こういう事がある。
 自分が作ったつもりのものが、どこかで聞いた事がある、見た事があると感じた時である。
 と、すると、あなたは、誰かの作品を真似たか、パクった事になる。
 思い出してみよう。
 自分が見た映画に同じようなものがあったかどうか……。
 もし、具体的な映画があれば、それは、意識せずに盗んだ事になる。
 それは困る。
 が、具体的な作品が思いつかない場合は安心していい。
 あなたは、すでに色々な映画を見て影響を受けている。
 それが、渾然一体となって、あなたの身に付いている。
 もうそれがあなた自身なのである。
 どこかで見た事がある、聞いた事があるのは当たり前だ。
 あなた自身の作品なのだから……。
 自信を持って、自分の作品と思っていい。
 あなたの脚本が、あなたの朗読で録音してあれば、だいたいの上映時間もわかる。
 コンクールなどで基本になるのは、50分から1時間40分ぐらいの長さだ。
 この作業を終えてから、ワープロやパソコンで清書しよう。
 ただ、でき上がった脚本を、友人や知り合いに読んでもらって感想を聞くのは、考えものである。
 脚本は、小説とは違う。
 脚本を読みこなせる人と、そうでない人がいる。
 脚本を読めない人に、誉められてもけなされても、意味がない。
 脚本を読める人は少ない。
 現役のプロデューサーや演出家にも、実は脚本を読める人は少ないのである。
 でなければ、ろくでもない脚本の映画やTVがこんなに沢山、世の中に発表されるはずがない。
 初心者は、自分が最高の読み手だと思っていい。
 それだけの勉強はしてきたはずですよね……。
 さあ、あとは、どうやって自分の書いた脚本を発表するかだ。

   つづく
 


■第60回へ続く

(06.07.26)

 
  ←BACK ↑PAGE TOP
 
   

編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.