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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第67回 忘れかけてた『COSMOSピンクショック』

 僕と小説との関わりを書こうと、押入れや本棚の中を探っていたら、忘れていたアニメが出てきた。
 1986年に書いた『COSMOSピンクショック』という作品である。
 ちょうど、小説や舞台ミュージカルに、没頭していた頃の作品だった。
 時代的に、僕のアニメ歴からするとアニメから浮いた時期に、ぽこんと飛び出してきたようなアニメである。
 小説の話を始めると、この作品について書く余地がなくなってしまうので、小説の話を1回後ろにずらして、『COSMOSピンクショック』について語っておこうと思う。
 この作品の特長は、何と言っても、その映像媒体にある。
 今は、DVDの全盛期だが、ディスク版の映像媒体として、かつては、パイオニア系のレーザーディスク(LD)と、ビクター系のVHDが、競い合っていた。
 VHDは、銀盤のレコードのようなLDと違い、プラスチックの、薄い箱のようなものに入っていて、箱ごと再生機に入れて再生するようになっていた。
 そして、再生機の中の針のようなものが、盤面をこするようにして、画像や音を読み取っていた。
 そういう意味では、仕組みは今も残るレコードプレーヤーに近いものだと言っていいだろう。
 それに比べ、LDは盤面に針が触れずにレーザー光で読み取る仕組みになっていた。
 VHDは、盤面がケースに入っているため、盤面に視聴者の手が触れず、汚れがつきにくい事を売りにしていたようだが、ケースそのものにホコリが入ってしまうと、素人にはとり出しようがなく、しばらく放っておくと、ホコリのために針飛びを起こすようなこともあったようだ。
 画質もLD並とは言えず、ビデオとさして違わなかったような気がする。
 そんなこともあってか、VHDはLDより早くすたれてしまった。
 今はとっくに製造中止され、再生機を見つけるのも難しい。
 その運命はやがて、DVDに取って代わられるLDにもやって来るのだが、1986年ごろは、VHDとLDが、拮抗して市場を争っていた。
 どちらが市場を制するかは、どんなソフト(作品)を持っているかにかかっていたようである。
 LDが、圧倒的に勝利した後も、LDにはないソフトをVHDが持っている場合が多かった。
 僕自身も、LDになくビデオにもなくDVDにもない映画作品を、VHDで何作品も持っている。
 そんなVHD側が、LDにないものを作ろうとした試みが「Anime Vision(アニメビジョン)」というソフトである。
 その頃のアニメブームにあやかって、映像によるアニメ雑誌を作ろうとしたのだ。
 つまり、今のアニメージュやアニメディアやニュータイプの映像版が、アニメビジョンだった。
 話題になりそうなアニメの話題や予告、声優の人たちのインタビューの映像が、1時間から、1時間半近く満載されていたが、その中の目玉のひとつとして企画されたのが、連載アニメの『COSMOSピンクショック』だった。
 1回が10分で、とりあえず3本。アニメビジョン3巻分を1部として、3部作になる予定だった。
 「最近、アニメ、やらないの?」
 そういいながら、担当のプロデューサーが打診してきた時、映像版アニメ雑誌の連載など聞いた事もなかった僕は、なんとなく気分がむずむずしてきて、やってみる事にした。
 何でも新しい事はやってみようというおっちょこちょいなところが、僕にはある。
 日本で初めての映像雑誌連載アニメ……やってやるぜ……である。
 それに、内容は全てこちらに任してくれるという。
 10分間で3本という事は、実質的には、30分1本分を書けばいい事になる。
 それで、月刊としても3ヶ月は、時間がある。
 しかし、連載ものということは、1本ごとに、視聴者に続きを見たくなるような引きを作らなければならない。
 さらに、途中から見た人にも分かるような単純な話がいい。
 ストーリー作りは結構悩んだが、新しい事をやるのは、それはそれなりに面白い。
 本来の自分は、その頃小説に気持ちが向かっていたから、1回10分間のこの作品は、いい息抜きになった。
 大筋は極力簡単にした。
 子供の頃、宇宙人に連れさられたボーイフレンドを追いかけて、宇宙を銀河の果てまで一直線に飛んで行くミッチーという少女の話だ。
 この大筋だと、少女が行く先々で出会う事件が、エピソードになる。
 話の終わりは、ボーイフレンドとの再会だから、それまではいくらでも事件を作ることができる。
 極めて連載向けの話である。

 2106年、太陽系冥王星、宇宙基地から1機のハイパーロケットが飛び立つ。
 そのロケットの正体は不明で、管制塔からは、何の離陸許可も出ていなかった。
 防衛戦闘部隊は直ちに発進し後を追ったが、誰も追いつく事はできなかった。
 ロケットはあっという間に太陽系の領空を越え宇宙の彼方に飛び去った。
 「わたしは止まらない!」
 それが太陽系に残した最後の声だった。
 誰もが、この暴走を止めようとしたが、誰も止める事はできなかった。
 人は、そのロケットを、機体の色からピンクショックと呼んだ。
 これが、『COSMOSピンクショック』のはじまりだ。
 最初の3本をまとめたVHDの説明にはこんなふうに書いた。

     ×      ×

 アニメ界に、またまた強い女の子が現れました。
 我らがピンクショック号のミッチーです。
 なんだか、最近のヒロインはタフな娘が多い様ですが、それだけヒーローに元気な男の子がいなくなった……まるで現代の日本を象徴している様な気もする今日この頃なんです。
 じゃあ、現実の女の子は元気かって言うと、そうも思えないのです。

 やっぱり、世の中、男の子と女の子しかいないのだから、男の子が元気じゃないと、一見、女性上位の様な今のアニメも、だらしない男達への女の子達のつっぱりか、絵に描いたヒロインに憧れるしか手のだせない男の子の産物としか思えないと言ったら言い過ぎでしょうか。
 みんな、元気を出してほしいなあ……なんて思ったスタッフの気持ちが作品になったのが、このピンクショックなのです。
 ヒロインのミッチーは、宇宙を突っ走ります。四才の時に結婚を約束したヒロシ君と会う為に……。
 今、どんな男の子に成長しているかは知りません。
 そして、今、それはミッチーにとって、どうでもいい事なのです。
 現実に会ってみるまでは、ヒロシ君は、ミッチーの大切なヒーローであり続けるのです。
 ミッチーの気持は、もしかしたらヒロシ君へ対する愛と言うより、自分へ対する愛への確信なのかもしれません。

 ミッチーの愛していたヒロシ君はもう存在しないかもしれないけれど、会う日まではミッチーの胸の中で、ヒロシという神話は、生き続けるでしょう。
 ミッチーは元気です。
 誰の為でもない自分の愛の為に突っ走っているから……自分というものを、とても大切にしているから……。
 自分の為って言うと、直ぐに我ままだと言われそうですが、あなたはどう思いますか。
 ミッチーはその答を出してくれそうな女の子です。

 そして、男性諸君、ミッチーを応援してくれますか……。それとも、ミッチーの「神話」ヒロシ君自身をやってくれますか……とにかく、ピンクショックは、元気の出るアニメでいたいのです。
 ほら、ミッチーの声が聞こえます。
 「まってて、ヒロシチャン、わたし、止まらない! いつかきっと! 会える日まで……!」
 やがて、そんなミッチーのひた向きさに引かれて、応援団が結成され、ミッチーの追っかけをはじめます。
 ミッチーの耳に彼らの応援歌が聞こえてきます。まるで、阪神タイガースを応援する「六甲おろし」の歌のように、「アンドロメダおろし」の歌声が宇宙に高鳴ります……「フレー、フレー、ピンクショック!」
 そして、「フレー、フレー、皆さん!」
 皆さんも、張り切ってください。
 こんな解説じゃ元気のでない君、早速、アニメを御覧下さい。

     ×      ×

 えらく調子のいい説明である。
 それだけ僕も若かったのだろう。
 そして、僕の知る限り、予想以上に評判がよかったのである。
 こんな調子で、どこまでも続くはずの『COSMOSピンクショック』だったが、3本分の第1部で止まってしまった。
 実際はあと3本、第2部分まで脚本ができていたのだが、肝心の「アニメビジョン」が、最初の3巻で廃刊になってしまったのだ。
 VHDという映像媒体自体も、その頃から元気がなくなり、やがて消えて行った。
 『COSMOSピンクショック』のミッチーは、いまだに、宇宙を一直線に飛んでいるに違いない。
 『COSMOSピンクショック』の作品自体は、3本をまとめた1部が、VHDとビデオになって発売された。
 十数年前、近所のレンタル屋で、そのビデオを見つけた時はなつかしかったが、その後は見当たらず、どうなったのかは知らない。
 キャラクター・デザインは平野俊弘氏、演出は長谷川泰男氏、まつもとけいすけ氏、ミッチーの声は佐久間レイさん、音楽は川井憲次氏……今は、監督の押井守氏とコンビのように音楽を作曲している川井氏だが、氏にとっては『COSMOSピンクショック』が初めてのアニメ音楽だったと思う。
 笑ってしまうのは、今になっても、『COSMOSピンクショック』の応援歌「アンドロメダおろし」(僕が作詞した)の音楽著作権料が、ほんのわずかな額だが入ってくる。
 いまだにあの歌が、どこかで使われているのかと思うと、ほほ笑ましい気分にさせられる。

 これで、小説や舞台ミュージカルに励んでいた頃の、思い残したアニメの事もお話したし、そろそろ僕の小説関係の話をしようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本の値打ちは、ものごとを、どのように見て、どのように書く事ができるか……の個性である。
 普通の人の考えないような切り口で、ものを描けるかにかかっている。
 だが、その切り口が、視聴者があきれ果てるようなとんでもないものだと、ただのでたらめな脚本にすぎない。
 ある程度、視聴者から共感を持たれなければ、ひとりよがりの脚本でしかない。
 ここが難しいところである。
 自分が独創的だと思っても、他人が納得しなければ、独断的でわがままで何を言いたいのか分からない脚本になってしまう。
 こういう脚本を書く人は、実際にも結構いて、個性的な作家だと勘違いされ、本人もその気になっている人も多い。
 だが「あの脚本はあの脚本家しか書けないだろうと言われる程度の脚本家」は、視聴者の多くが認める事のできる「あの脚本はあの脚本家しか書けないだろうと言われる作者」でなければならない。
 そういう脚本家を、アニメでもいいし実写映画でもいいし、TVドラマでもいいから、探して見よう。
 多分、古今東西を探しても数十人しかいないはずである。
 そんな脚本家を見つけたら、その人の書く脚本のどこが個性的なのかを、ちょっとだけ研究してみよう。
 そして、自分のものの見方とどう違うかを検討してみよう。
 ただし、その作家のものの見方を真似をしてはいけない。
 真似は本物を越える事はできない。
 むしろ、その作家とは、まったく逆の見方を自分の中に探してみるのだ。
 それが見つかった時、多分、それがあなたの個性的なものの見方になる。
 個性的な作家の見方と、逆の見方は、普通の人のものの見方になってしまうんじゃないかと……心配する人もいるかもしれない。
 だが、安心してほしい。
 個性的な作家と逆の見方は、決して平凡な普通の見方にはならない。
 別方向からの個性的な見方になるのだ。
 この見方は、普段の日常でも習慣として身につけておくといい。
 つまり、「普通の人がこう考えているなら、自分は逆の考え方をしてみよう……」ということである。
 世の中は、一面的な見方で片づけられる事はひとつもない。
 個性とは、自分の見方を持つ事である。
 その見方が、独善的でなく、他者に「なるほどそういう見方もあるのか……」と納得されるような見方だったら、あなたは、多分「あの脚本はあの脚本家しか書けないだろうと言われる程度の脚本家」に、一歩も二歩も近づいた事になると思う。

   つづく
 


■第68回へ続く

(06.09.20)

 
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