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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第68回 気がつけば小説家になっていた

 しつこいようだが、僕は、書くという行為が嫌いである。
 脚本ですらアップアップで書いているのに、その上、小説など、考えてもいなかった。
 明らかに脚本と小説は書き方が違うし、これ以上、小説という余計な書き方を覚えたいとも思っていなかった。
 そんなある日『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のアフレコ現場に、徳間書店から出ている「アニメージュ」の当時編集をやっていた鈴木敏夫氏がやってきた。
 新しくできるアニメージュ文庫に『戦国魔神ゴーショーグン』の「その後」……つまり続編を小説にして出したいと言うのだ。
 鈴木敏夫氏は、いつもほほ笑みを絶やさず、腰が低く、ささやくように話しかける。
 仕事の現場ではどういうふうだか知らないが、僕には終始そんな感じで接してくれていた。
 「『戦国魔神ゴーショーグン』はメジャーな作品とは言えないし、いきなり『その後』の『戦国魔神ゴーショーグン』を書いても、読者も訳が分からないんじゃないんですか?」
 と言うと、あっさり、「それでは、TVで放映した部分をノベライズしてから、『その後』を書いてください」と言う。
 「小説なんて書いた事がないんですが……」と言ったが、「脚本が書ければ、書けないはずがないでしょう」と答えてくれた。
 態度は腰が低いが、相手に嫌と言わせないで、なんとなくぬんめりとこちらの気持ちに入り込んでくる。
 鈴木氏は『さすがの猿飛』のアフレコ現場にもみえて、小説版「戦国魔神ゴーショーグン」を書けと誘ってくれた。
 結局「じゃあ、取りあえずTV版のノベライズだけでも……」という感じで、小説というものを書くことにさせられてしまった。
 鈴木氏には、こちらのやる気がふらふらしている時にやる気にさせる、不思議な能力がある。
 書くとは言ったものの、登場人物の会話のやりとりが特長のひとつである『戦国魔神ゴーショーグン』を、どう小説化するか? ……随分、考えた。
 今、このノベライズを読み返すと、あの手この手と色々工夫の後が見えてなつかしい。
 突然、登場人物が、本筋と関係ない相談をはじめたり、特に、ぽんぽんと飛び交う台詞を、いちいち誰それが言ったと文で書いていくとリズムが損なわれるので、台詞の前に登場人物のマークを決めて、○○が言ったとか、××が答えたなどという文章を省く事にした。
 つまり、
 「真吾、あなたの出番よ」とレミーが言った。
 「省エネ時代、節電のため、あまり使いたくないけど仕方がないな。いくぞ、レミー」と真吾は答えた。
 「俺は疲れた。好きにやってくれ」くたくたになったキリーが、投げやりに言った。
 と書くような文章を、
 レミーマーク「真吾、あなたの出番よ」
 真吾マーク「省エネ時代、節電のため、あまり使いたくないけど仕方がないな。いくぞ、レミー」
 キリーマーク「俺は疲れた。好きにやってくれ」
 こんな具合に、マークを台詞の冒頭に付けてスピードアップさせたのだ。
 ところがそんな工夫をしたため、編集部でいちいち登場人物のマークをゲラの段階で原稿に手仕事で貼りつけてもらうなど、余計な作業をしてもらい、随分、編集の方には迷惑をかけたらしい。
 結局、いちいちマークをつけなくても、誰がその台詞を書いたか分かるというので、第2作目以降は、マークなしで台詞を書く事にした。
 だから、1作目の小説版「戦国魔神ゴーショーグン」は、構成や書き方が、普通の小説とは違う、風変わりな文体になっている。
 今でも、こんな小説形態は珍しいだろう。
 「戦国魔神ゴーショーグン」は、初版五万部を出してくれたが、再版も出て、かなり売れたそうである。
 僕はそれが普通なのかと思っていたが、実際、小説はそれほど売れるものではなく、そもそも、初版部数が5万部というのが、いい度胸だそうである。
 今ごろになって、アニメージュ文庫の鼻息の荒さに、感謝している。
 当然のように「その後の戦国魔神ゴーショーグン」も出版されて、後は全く僕のオリジナルになり、ロボットも登場しなくなった。……というより、ロボットの必要がなくなったのだ。
 第3冊目の「狂気の檻」は、登場人物こそ『戦国魔神ゴーショーグン』のメンバーだが、内容はほとんど大人向けになっている。
 それもそのはずで、ストーリーは、全く別の作品のアイデアに『戦国魔神ゴーショーグン』のメンバーを当てはめたものだった。
 なにも、わざわざ『戦国魔神ゴーショーグン』でやらなくてもいい作品だと、ある人に言われたが、新しい人物設定を使うより、勝手知ったる『戦国魔神ゴーショーグン』のメンバーで、ストーリーを動かしたほうが、僕自身が手慣れていて楽しかったからである。
 「狂気の檻」から、表紙や挿し絵も天野喜孝氏に変わり、小説全体のタッチも大人っぽくなった。
 その頃には、僕も小説の書き方に慣れてきて、「戦国魔神ゴーショーグン」の小説は、番外編も入れると8作を数えるようになったが、まだ完結編が出ていない。
 完結編になる予定の「鏡の国のゴーショーグン」は、随分、時間がかかったが、のろのろと書き続けていて、もうすぐ完成するはずである。
 鈴木氏にお世話になった小説には、「アニメージュ」の連載から始まった「永遠のフィレーナ」という小説があり、これは、連載後もアニメージュ文庫で続き、全9巻がほぼ10年がかりでやっと完結した。
 「戦国魔神ゴーショーグン」や「永遠のフィレーナ」が始まった当時の「アニメージュ」の編集長は尾形英夫氏で、この方とも面白いエピソードがある。
 印象に残っているのは、仕事の打ち合わせを兼ねて、食事を原宿でした時の事である。
 昔の原宿で食事である。
 しかも、わざわざ原宿の指名である。
 それなりの食事になるだろうと、誰でも考える。
 僕もそう考え、それなりの格好をして出かけた。
 だが、尾形氏が、にこにこしながら誘ったのは、原宿駅前のほとんど立食い屋に近いラーメン屋であった。
 僕は心底、驚いた。
 人から食事に誘われて驚いたのは、後にも先にもこの時だけである。
 他の人に聞いても、尾形氏という人は、そういうユニークな方であるらしい。
 僕が書いた小説のかなりの数は、徳間書店のアニメージュ文庫で出版されているが、長い期間の作品が多く、僕の編集担当の方も入れ替わりがあり、それぞれの方に色々お世話になった。
 特に印象に残っているのは、「幕末豪将軍」で、わざわざ京都の取材まで付き合って下さった高橋望氏である。
 坂本龍馬の墓に、一緒に行った日の事は、今でも覚えている。
 さらに家族以上にお世話になった吉田勝彦氏は、長い付き合いになった。
 1989年にアニメージュ文庫で出した「都立高校独立国」(後にFMでラジオドラマが放送された)以降のアニメージュ関係の小説は、ほとんどこの人がいなければ完成しなかったと言っていい。
 本来、1冊で完結する予定だった「都立高校独立国」が、ストーリーが長くなりすぎてなかなかでき上がらず、僕が困っていた時も、上下巻の2冊にして完成してくれたのは、この人である。
 「永遠のフィレーナ」のシリーズも、この人なしでは完成しなかっただろう。
 ずるずる延びていた完結編を書き終える事ができたのも、吉田氏が「アニメージュ」から部署が代わる事になり、吉田氏がアニメージュにいる間に書き上げようと、自分にむち打ったから完成できたようなもので、そのきっかけがなければ、いまだに「永遠のフィレーナ」は、文字通りフィナーレを迎えていないかもしれない。
 よい編集者と出会えれば、出来の悪い作家も書く作品はよくなるし、悪い(?)編集者と出会えば、出来のよい作家がつぶれる事もある。
 小説は作家と編集者の共同作業であり、編集者は作品の最初の読者であるということが、僕の例を見れば、よく分かる。
 その他にも僕が書いた小説はいろいろあるが、「戦国魔神ゴーショーグン」を含めて、他の作品の事は、次回に続けようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 前回、個性的な作家の真似はするな、それを越える事などできない、という主旨を書いたが、さらに言うと、今、一般に放映されているアニメ脚本の真似は、絶対やめたほうがいい。
 真似る事に慣れると、あなたの個性はぼろぼろになる事、うけあいである。
 いつの間にか僕は、はじめて脚本を書くようになってから、ゆうに30年は越えてしまった。
 シリーズ構成が多いから、当然、僕のストーリーや構成をもとにした脚本を読む事になる。
 その数は、脚本の直しを要求した脚本を入れると、数千本になると思う。
 だが、その内、最初の1稿で、僕の気持ちの中でOKになった脚本は、10分の1もない。
 いや、もっと少ないかもしれない。
 それをなんとかしようと、改訂作業が始まる。
 脚本の改訂が続くと、脚本家も疲れるが、シリーズ構成はもっとへとへとに疲れる。
 もともと、脚本を書いたのは、プロと呼ばれる人たちである。
 僕は、心の中で「こんな作文は、脚本を書く事なんて止めちゃえ」と、顔はにこにこしながらわめきたくなる。
 僕は、どちらかと言うと、作家の個性やユニークさを重要視するタイプである。
 脚本としての完成度は、あまり要求しない。
 そもそも僕は、完成度が高い脚本とは、プロデューサーや演出家から文句の出にくいあたりさわりのない作品だと思っているので、特別、すぐれて面白い作品だと思った事がない。
 もちろん、「アラビアのロレンス」の脚本家のロバート・ボルトのシナリオなど、完成度も面白さも一流だから、そんな名作を、完成度が高いなんてえらそうなことは、僕は言わない。
 僕の言っているのは、日本のアニメ作品の脚本の完成度である。
 僕の知らない脚本は、このアニメの全盛期、無数にあるはずである。
 それがゴミの山、夢の島ほど存在しているのが、予想される。
 演出家や絵コンテの努力で、どうにか人様に見せられる作品になった脚本も多いと聞く。
 僕など、一時は、プロの脚本家の個性のなさに頭にきて、脚本の素人を使ってシリーズを作ろうとした事がある。
 なぜこんなことになるのだろう。
 一応、プロと呼ばれる人は、本来は個性とユニークさを持ち合わせていたはずである。
 ……そうであったと信じたい。
 それが、レギュラーの仕事を続けるうちに、スポンサーや局やプロデューサーや演出家の言いなりに直すうち、自分自身を見失ったとしか思えない。
 それに、プロになった安心感からか、極度に勉強不足である。
 何を書いてもありきたりのパターンになる。
 原作のある作品なら、原作に頼り切ってしまう。
 自分の書いた脚本がつまらないのは、原作がつまらないからだと、居直る人もいる。
 他人の書くつまらない脚本を読んで、自分もこの程度でいいやと満足してしまうのかもしれない。
 こういうアニメ脚本家が多くないか?
 それでいいのかどうか、考えてみませんか……?

   つづく
 


■第69回へ続く

(06.09.27)

 
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