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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第74回 はじめてワープロで書いた『銀河英雄伝説』

 会社から僕の仕事場まで10分あまりの距離をスクーターで来た田原氏は、最初は『銀河英雄伝説』の名前は出さなかった。
 僕が、原作のある作品をあまりやりたがらない噂を聞いていたのかもしれない。
 今でもそうだが、僕が原作のある作品をやる時は、原作そのままではアニメになりにくい作品か、ある程度こちらの自由に作りかえてもいいという、原作者とその原作を出している出版社の了解が取れる作品に限るようにしている。
 原作としてきっちり完成しているものを、わざわざアニメにしても意味がないと思うし、どうせ僕が脚本を書くと、僕流に、変わった作品になってしまう。
 原作者がそれを了解してくれないと、原作者に対して失礼になってしまうし、原作を変えてしまって原作者の気分を害したくもない。
 ある作品では原作者でもある立場の僕は、気楽に他人の原作を脚本化する気がしないのだ。
 それに、原作どおりに脚本化するなら、わざわざ僕がやることもないとも思っている。
 脚本を書くなら自分の書きたいものを書きたいし、他人様の原作の中に自分の書きたいものがあるとも思えない。
 だから、自然に、僕の作品歴には原作つきのものが少なくなってしまっていた。
 田原氏は最初、アメリカの戦争映画「眼下の敵」の宇宙版のような作品をやりたいといってきた。「眼下の敵」は、アメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦Uボートとの知恵比べのような戦いを描いた、戦争映画の傑作である。
 今見ると少しテンポが緩い気もするが、脚本家志望の人なら一度は見ておいて損のない作品だ。
 互いの顔も見る事のない敵同士の駆逐艦と潜水艦の艦長が、戦ううちに互いの実力を認めあい、ライバルとして尊敬の念すら抱くようになるというストーリーで、ともかく脚本がよくできている。
 その宇宙版をやりたいというのである。
 壮大な宇宙戦争の中で、優秀な敵同士が、虚々実々の戦いを続けるうちに、互いを好敵手として認めあうようになる。
 田原氏と色々話すうちに、そんな話ならば書いてもいいという気になってきた。
 僕自身がその当時書いていた小説の方も気になっていたから、僕がその脚本を書くと了解するまで、田原氏とは2、3度会っていると思う。
 で、「実は、この話、原作があるんですが……」と、田原氏から聞かされたのは、僕が了解した後である。
 そして、僕の前に原作小説が次から次から出てきて、小山のように積み上げられた。
 それが「銀河英雄伝説」の小説だった。
 かなりのベストセラーで、ファンも大勢いるという。
 正直、びっくりした。
 「これを全部読め……というの?」
 僕には手に余る……と、断りかけた。
 だが、田原氏は、「自分が全部読んでいて、すみずみまで分かっているし、今回アニメ化するのは、主人公2人の出会いの部分だから、全部は読まなくていい」と言った。
 田原氏は、確かに熱烈な「銀河英雄伝説」ファンだった。
 彼が夢中で話す小説の登場人物像とストーリーを聞けば、別に僕が原作を読む必要もなさそうだった。
 しかも、僕が書くのは、「銀河英雄伝説」がどんな作品かを紹介するような、いわば入門編のようなものだった。
 だが、それでも1本の作品としては成立していなければならない。
 田原氏の話す概略を元に、一応、ストーリーの構成図を作ってみた。
 登場人物の名前はとても覚えきれないから、Aがいて、Bがいて、それに対してCがいてDがいる……といった調子で、人物配置を記号化して、Aに該当する人物が原作にいるか……? Bに当たる人物は、誰だ……? そんな感じでストーリーを作った。
 僕の考えた人物配置に該当する人物のほとんどが、原作の中にも登場していた。
 それだけ、原作の人物設定もしっかりしていたということかもしれない。
 ただ、原作は戦争をする上層部を中心に描いていたから、下級の兵士がでてこない。
 そこで、下級兵士をオリジナルで付け加えた。
 ストーリーは、そんな具合に田原氏の語る原作説明を元にして作ったから、原作は読まないまま、おおまかなあらすじはできてしまった。
 さらに、戦闘シーンの描写の流れをよくするためと、数百万も犠牲者が出る大戦争の画面に死体を映したくないので、戦闘シーンを舞踏のように描きたいと思い、クラシックを流す事にした。
 一種の戦闘ミュージカルである。
 特に、クライマックスの戦闘シーンは、ラヴェルのボレロを、最初から最後まで、まるごと流す事にした。
 おそらく、日本の戦争アニメでクラシックが一曲まるごと流される事は、前例になかったろう。
 そんなころ、「銀河英雄伝説」の原作者の田中芳樹氏が、田原氏と共に僕の仕事場に訪ねてきた。
 氏は、僕の書いた『戦国魔神ゴーショーグン 時の異邦人』が気に入っていたらしく、小説を持ってきて、僕はその本に求められるままサインを書いた。
 ちょうどいい機会なので、ステレオで「ボレロ」を聞いてもらい、この曲をクライマックスにまるまる全部使う事の了解をもらった。
 戦闘シーンにクラシックを流しっぱなしにするのは、原作者にとっても予想外の事だったかもしれないが、田中氏は快く了解してくれた。
 ただ、異色の戦争アニメになる事は明らかだったので、この作品のバックアップをしてくれる徳間書店の関係者の方達にも納得してもらうために、あらすじを細かく書いた箱書きが必要になった。
 さすがにこの段階までくると、箱書きに登場人物の名前をAとかBとか記号で書いたのでは、なにがなんだか分からない。
 登場人物の実際の名前を書き込まなければならない。
 ところがこの作品、登場人物の名前がドイツ風で、やたら長いのである。
 ラインハルトとか、オーベルシュタインとか、ミッターマイヤーとか、おまけに登場する宇宙戦艦の名前も、それぞれ複雑で長い名前がついている。
 それが、この原作の読者を惹きつける魅力のひとつでもあったようだ。
 だが、脚本を書く身にしてみれば、これはたまらない。
 このコラムをお読みになっている人はすでにご存知だと思うが、脚本は台詞の冒頭に、その台詞を誰がしゃべったかを書かなければならない。
 僕の書く台詞には、独特の流れがあるので、あまり長い名前の人の台詞になると、その名前を書いているうちに、頭に思い浮かんだ台詞を忘れてしまう。
 これには、参ってしまった。
 そこで、苦肉の策として、ワープロを導入する事にした。
 長い名前を単語登録し、短い語句で、書き込めるようにしたのである。
 つまり、ラインハルトは「らい」、オーベルシュタインは「おー」、ミッターマイヤーは「みっ」といった具合で書き出せるようにした。
 というわけで、僕がワープロを使い出したのは『銀河英雄伝説』がきっかけになった。
 しかし、ワープロには、ワープロの欠点がある。
 公用文のような硬い文章はどうにか上手く漢字変換してくれるが、語り口に特長のある台詞は上手く変換してくれないのである。
 例えば、ミンキーモモなどに出てくる王様の台詞――
 「ええだば、ええだば、それでいいんだば」などという台詞を書くと、「ええ駄馬、エエ駄馬、それで委員駄馬」などと変換されてしまう。
 これではたまらないので、『銀河英雄伝説』を書いた時は、キーボードを打つ前に、漢字とひらがなを自分で確定できる、NECのM式という特殊なキーボードのワープロを使った。
 今はほとんどの人が知らない入力方式かもしれない。
 『銀河英雄伝説』には、軍人調の硬い台詞が多かったので、なんとかM式で乗りきったが、他の作品を書く時はやはり馬鹿な変換が多く、特に台詞を書くのに苦労した。
 それでも、M式は日本語の文章を書くには、一番適していたように思えたが、今はもうどこにも見あたらない。
 ローマ字入力に負けて、普及しなかったのだ。
 それどころか、M式ほどではないが、日本語を打つには便利だと言われた、親指シフトのキーボードも見かけなくなった。
 今はパソコン全盛で、ワープロ専用機すらなくなったようだ。
 日本のパソコン業者は、日本語表現というものに、あまり関心がないようである。
 パソコンで使う日本語変換は、随分利口になったというが、まだまだ、思いどおりの文章を書くには、馬鹿な変換をする。
 おまけに、パソコンで書く事に慣れると、漢字を忘れ、紋切り型の表現が多くなる。
 ほとんどの人が、パソコンで文章を書く現代……。ワープロソフトは、日本人の書く個性的な文体の質を変えてしまったような気がしてならない。
 『銀河英雄伝説』で、ワープロを使うようになって以来、僕のものを書くスピードは、明らかに遅くなった。
 台詞や文章の癖も、昔とは若干違ってしまった気がする。

 ところで、『銀河英雄伝説』は、僕がワープロを使うきっかけになった作品というだけでなく、まだまだ様々なエピソードがある。
 その話を続けようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 今回もまた、アニメスタイル経由の、高校生の方のお手紙にお答えしようと思う。
 そのお手紙によれば……自分の作りたい作品があれば、プロデューサーが脚本を書けばいい。または、脚本家がプロデューサーを兼ねればいい。そうすれば、トラブルもなく合理的に作りたい作品ができるのではないか? それができないのはなぜなのか?
 ……といった内容である。
 そう言われれば、監督や演出が脚本を書く事はあっても、プロデューサー(製作者)が、脚本を書くという話は、あまり聞かない。
 全くないわけではないが、ほとんどないと言っていい。
 映画やテレビの番組を作るには、製作費だけでなく宣伝費やもろもろで最低でも億単位のお金がかかる。
 簡単に言って、その資金を集めるのが、プロデューサーの仕事である。
 そして、作品を作る大勢のスタッフを決めるのも、プロデューサーの仕事になる事もある。
 あなたが、脚本家で、それだけのお金と人を集める能力があれば、プロデューサーを兼任してもいいだろう。
 でも普通は、そうはいかない。
 プロデューサーも、お金を集めたり、その他もろもろの雑用で、脚本を書く時間も勉強する時間も、ほとんどない。
 TVや映画のスタッフのテロップを見ていると、最近は、プロデューサーが何人もいる作品がある。
 映画やテレビの作り方が多様化して、1人のプロデューサーでは対応しきれないほど、仕事が複雑になっているのだ。
 それに日本の場合、独立したフリーのワンマンプロデューサーは少なく、TV会社や映画会社、その他、製作に関連する出版社の社員である場合が多い。
 つまり、自分のお金ではなく、会社のお金を使う事になる。
 お金を出してくれるスポンサーを見つけてくれば、そのお金はスポンサーのお金である。
 作品が儲からなければ、会社やスポンサーに損害をかける事になる。
 そうすると、作品のヒットが、そのプロデューサーの評価に関わってきて(つまり、社内の出世にも関係してくる)、単純に自分の作りたい作品をプロデュースするわけにはいかなくなるのである。
 しかし、自分が関わっている以上、その作品を自分の作品だと思い込み、自分の意見を言いたくなるのは人情である。
 それが、作品の設計図である脚本の会議にしばしばでてきて、脚本家をとまどわせる事になる。
 勿論、自分の思いどおりの作品を作る事を目標に、プロデューサーを職業にしている人もいる。
 そんな人達は、忙しい中で、隠れたところで、脚本や演出を勉強している。
 自分の作りたい作品を具体化したいために、その作品を作れるスタッフを探すネットワークを張っている人もいる。
 そんな人達は、脚本家にとっては、好ましいプロデューサーといえる。
 そういうプロデューサーの関わったオリジナルな作品がヒットすれば、これに勝る事はない。
 だが、自分の関わった作品が儲かる事だけを考えているプロデューサーもいる。
 客の受けだけを狙っているプロデューサーもいる。
 TVも映画も、ほとんどの場合、商売である。
 TVや映画に原作のある作品が多いのも、人気のある原作なら、ある程度の儲けも期待できるからだ。
 プロデューサーとしても、自分独自の企画を考えるより、すでに人目に触れている原作を探した方が、手間がかからない。
 その分、脚本家が作りたいオリジナルの作品が少なくなる。
 現状を言えば、脚本家に、映画やTV番組を独自で作れるほど資金を集める力のある人は少ない。
 プロデューサーにも、脚本を書く余裕や才能のない人が多い。
 だから、プロデューサーと脚本家を兼任する人はほとんどいない。
 質問をくださった方が、高校生だという事で、分かりやすく説明したつもりだが、現実は、もっといろいろこみいって複雑である。
 ただ、お金のかからない小規模な作品では、プロデューサーと演出と脚本、その他もろもろの仕事を兼任して作品を作り出している人がいる事も確かである。
 あまり、人目にふれないそんな作品の中に、優れた作品がある事も指摘しておこうと思う。

   つづく
 


■第75回へ続く

(06.11.08)

 
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