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第82回 『アイドル天使ようこそようこ』は2度とない
『アイドル天使ようこそようこ』のエピソードやアイディアは、60本ほど考えていたから43話には充分だった。
余ったアイディアの中には、後に作ることになった『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の2作目(いわゆる海モモ)に使ったものもある。
だが、渋谷を舞台にした『アイドル天使ようこそようこ』でなければ、できないエピソードもあった。
そのエピソードは、どんなアニメにも転用不能だろうから、少なくとも他のアニメでは出てこないと思う。
要するに今となっては幻のエピソードである。
渋谷の道玄坂の中ほどに、百軒店(ひゃっけんだな)という飲食街があるが……カレー屋の「ムルギー」や「名曲喫茶ライオン」等のあるところである……そこの入り口付近に、ストリップ劇場がある。
この劇場……ストリップ劇場が衰退した今も現在のところに生き残っていて、百軒店を訪れる人にはすぐ分かる。
渋谷の隠れた名所である
その劇場と踊り子さんのエピソードを考えていたのである。
勿論、『アイドル天使ようこそようこ』は子供の視聴者を相手にもしたアニメだから、ストリップをテーマにしたからといって、主役のようこやサキが、ヌードになってストリップをする話などではない。
役者が、裸になってでも主役になってスポットライトを浴びたくなる舞台というものの魔力……1度でも舞台に上がって観客の前でスポットライトを浴びると、病みつきになり、舞台から離れなくなる不思議な魅力にとりつかれた踊り子さんの話をアニメでやってみたいと、かなり本気で考えていたのである。
多分、そんなエピソードを『アイドル天使ようこそようこ』でやったら大問題になったかもしれないが、ストリップという題材を露骨に感じさせず作れる気持ちはあった。
『アイドル天使ようこそようこ』には「恋文横丁」のエピソードがでてくる。
「恋文横丁」とは、日本が戦争に負け、アメリカの占領軍が日本に来て、日本の女性達と愛し合い、その後、アメリカに帰って行ったが、日本の女性がその男たちへ送るラブレターを日本語から英語に翻訳してくれる店が渋谷にあったため、つけられた名前だ。
描きようによっては、かなり大人のきわどい話にもなるエピソードである。
それがアニメの素材になるのだから、ストリップ劇場も、描き方次第で、素材になると考えたのである。
だが、探しては見たが、スポットライトを浴びる踊り子さんの気持ちを脚本に書けそうな人がなかなか見つからず、棚上げにしていた。
もしも、『アイドル天使ようこそようこ』が43話で終わらず、60話ぐらいまで延長されていたら、その中に、ひそかに紛れこんでいたかもしれないエピソードで、いまだにちょっと惜しい気もしている。
『アイドル天使ようこそようこ』のエピソードには、日の目を見ていないそんなエピソードが、いくつもあった。
なにしろ『アイドル天使ようこそようこ』の舞台SHIBUYAのモデルは、制作当時の現実の渋谷である。
ほっつき歩けば、エピソードになりそうな素材はいたるところに、転がっていた。
渋谷の街で、F1グランプリが開かれるエピソードなどは、脚本を書いた佐藤茂氏が渋谷の地図に書き込んだグランプリコースまでシナリオについていた。
原則として、渋谷に現実に存在している場所がモデルだから、背景や美術も現実の場所をデフォルメして描いてくれている。
放映後、一部のファンの間で『ようこそようこ』のSHIBUYAのモデルになった場所を巡る渋谷探訪ツアーをした人もいるらしいが、その人達の期待は、かなりの確率でかなえられたと思う。
今の渋谷は、制作当時の15年以上前の渋谷とはかなり変わったように見える。
『アイドル天使ようこそようこ』のエピソードに出てくるプラネタリウムのあった東急文化会館というビルは、今はもうなくなり、その場所には、新しいビルが建設中である。
渋谷駅前の、ビルの壁面にあった街頭ビジョンの数もずいぶん増えた。
それでも、まだまだ制作当時の面影を残すところも多く残っていて、今も渋谷の街を歩くと、『アイドル天使ようこそようこ』のことが思い出されてなつかしい。
そして、『アイドル天使ようこそようこ』のような作り方のアニメは、もう2度とできない事を考えると感慨も深い。
そもそも、原案・シリーズ構成が、2度も入院し雲隠れして脚本ができ上がるなどという目茶苦茶な作品は現れないだろうし、ほとんど直しの時間のない、いきなり決定稿の脚本をわたされる監督をはじめ製作現場の苦労を考えると、今の僕にはとても怖くてできない若気のなせる技だった。
もっとも、監督にとってしても、自分の自在に作っても、どこからも文句が出る時間がない、自由のある作品だったかもしれない。
だが、これは、僕の勝手な憶測で、本当は怒っていたかもしれないのだが……監督のアミノテツロ氏が、自作の中でも自慢の作品だと言ってくれているインタビューを読むといささかほっとする。
今のアニメ脚本の本読みは、『アイドル天使ようこそようこ』の時のようにアバウトではなくなってきて、週1本、月4本のペースで、決められた日時に製作者他、様々なスタッフが集まって脚本家に意見をいい、シリーズ構成の一存で、事が決まるというようにはいかなくなっているようだ。
こうなると、オリジナリティとか個性とか感性というより、いろいろな意見をこなしてスケジュール通りに脚本ができてくるライターが、ありがたいことになる。
したがって、脚本を書いたことのない人を使って、1本に数ヶ月や、時には半年かける事や、結局未完成で終わることもありうるなどという脚本作りは許されなくなっている。
もう、『アイドル天使ようこそようこ』のような脚本作りは2度とできないといっていい。
さらに、この作品の特長のひとつだった作品のBGMに勝手に歌詞をつけて声優に歌ってもらうことも、ほとんど不可能になった。
そこで歌われるものが、台詞なのか歌なのかで、著作権やギャラの問題が起こり、歌なのか台詞なのか、はっきりしないと、簡単に声優さんに歌ってもらう訳にはいかなくなっている。
そんなことがまだはっきり決められていない時代にどさくさにまぎれて作ってしまったのが『アイドル天使ようこそようこ』という作品だったのである。
おそらくそれまでに、著作権など考えずに声優さんにこんな形で歌ってもらうアニメがなかったからかもしれない。
それ以後は、歌は歌、台詞は台詞だと、前もって決めておかないと、声優さんには、歌ってもらえないようになっているようだ。
挿入歌は歌として著作権的にはっきり決められたミュージカルアニメは作れても、そこいらが、きまぐれでアバウトな『アイドル天使ようこそようこ』的作品は、権利問題や金銭問題がからんで、作りたくても作れない。
それでも作ろうとすれば、前もって複雑な手続きや準備が必要になり、TVアニメでそんな面倒なことをするのは製作、監督、脚本、音響、音楽に余程の覚悟がいる。
だが、それをしたところで『アイドル天使ようこそようこ』的な思いがけない即興性は薄れてしまう。
脚本、歌、演出を含めて考えると、多分『アイドル天使ようこそようこ』的な作品は、もう現れないと思われる。
そういう意味で、作品の出来にはいろいろ意見もあるだろうが、アニメとしては、2度とできない珍品であることは、否定できないだろう。
それだけに、僕にとって愛着の深いアニメシリーズである。
だが、玩具もさほど売れない、リンクした歌手もブレイクしない、視聴率もいいとは言えないこの作品は、ビデオもほとんど売れなかったようだ。
ところで、『アイドル天使ようこそようこ』のエピソードの中で、真夏に、冷蔵庫の中から生きた雪だるまが出てくる話があるが、それが、過去にあった魔女っ子ものアニメの作品のエピソードに似ているという指摘を受けたことがあった。
だが、僕は、その作品を見ていないし、『アイドル天使ようこそようこ』の雪だるまのエピソードは、雪の降る地方ならどこの世界にもある昔ばなしを原点にしている。
雪だるまが生き物のように動き出し、次の日には溶けてしまうという話である。
これを元にした文学的な作品としては、ホーソンの「雪だるまの詩」という短編小説があるし、外国アニメには「スノーマン」という有名な短編映画がある。
僕は『魔法のプリンセス ミンキーモモ』でも、ホーソンの短編にインスパイアされたエピソードを作った。
『アイドル天使ようこそようこ』の雪だるまのエピソードはその延長線に位置して、人を楽しませることだけが生き甲斐の雪だるまが真夏に出てきて、人を楽しませた末に溶けてしまい、ラストシーンには真夏のSHIBUYAに雪が降る。
そのラストシーンを見てもらいたくて作ったエピソードである。
過去の魔女っ子ものとかいう作品の脚本も、おそらく世界中にある昔ばなしをヒントにして書いたのであろう。
『アイドル天使ようこそようこ』の雪だるまは、過去の魔女っ子ものとやらのエピソードの影響は全く受けていない。
放映終了当時の、『アイドル天使ようこそようこ』への反響は、僕の知る限り、雪だるまの件ぐらいしかなかった。
あとの反響は、ほとんどないといっていいほど静かだった。
僕としてはずいぶんじたばたして作った作品のわりには、こんなふうに静かに忘れさられてしまうのが『アイドル天使ようこそようこ』の運命なのかと、いささか残念だった。
だが、『アイドル天使ようこそようこ』は、意外にもそのままで終わる作品ではなかったのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
自分の掌握したキャラクターに、自由に動いてもらうこと、その動きや気持ちが自然であることを、あらすじや設定や構成よりも優先させよう。
自分の作ったあらすじや設定にあわせて、キャラクターの自然さをねじ曲げてしまうことがないかよく注意しよう。
これは、脚本をかなり書いているプロでもよく犯す間違いである。
そんなプロは、自分の作ったあらすじや設定に妙な自信を持っている。
キャラクターが不自然な動き方を見せても、それが気にならなくなる。
不自然だとも感じない。
結局、キャラクターを十分に掌握していないから、そういう結果になるのだが、他人が俯瞰で見ると、キャラクターの不自然な動きに当惑するし、魅力的なキャラクターに見えない。
ひどい大根役者の芝居を見ているよう気分にさせられる。
あらすじや設定を優先させキャラクターをねじ曲げると、キャラクターは自由に動かなくなり、脚本家の作ったあらすじや設定を正当化させるために、さかんに説明するようになる。
つまり、自分の気持ちや感情を説明する説明台詞が、やたらと多くなる。
「私は、こういう人間なのよ。私の気持ちはこうなのよ」
「わたしはこうこうだから、こういうふうに感じているのよ。だからこういうふうにしたの」
自分の不自然さを補うために、自分の気持ちや感情を説明しだすのである。
あなたが、書いているキャラクターが、自分のことを説明しだしたら、気をつけよう。
あなたは、キャラクターを掌握していないか、キャラクターの自然さをねじ曲げているかのどっちかである。
自分をプロだと思っている人が、この間違いを犯すと始末におえない。
自分が正しいと思い込んでいるから、キャラクターの不自然さがわからない。
他人が変だと言っても、自分の中では正当化しているから変だとは思えない。
こんな場合は、最初に戻って、キャラクター優先で書き直すしかないのだが、今まで書いたものを全部捨てることのできるプロは、現実にはあまりいない。
やがて、スケジュール上、時間がなくなって、その脚本は、没にもできず、まかり通ってしまう。
ひとつのシリーズの場合、1本のそんな脚本が、全体の命取りになる場合もたまにある。
こうして、シリーズ全体が愚作になる。
とりあえず、そんな脚本を書かないためにも、キャラクターが自分を説明する台詞をしゃべりだしたら、もう一度、自分の書いた脚本を、最初から見直して見よう。
脚本のハウツー本に、よく「説明台詞を書くな」という文があるが、キャラクターの置かれている状況や事件を説明するならともかく、自分のこと(特に気持ちや感情)を説明しだしたら、確かに「説明台詞を書くな」という忠告は正しいと思う。
キャラクターが自然に動いていないから、説明が必要になるのだ。
つづく
■第83回へ続く
(07.01.10)
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編集・著作:
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