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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第86回 「海モモ」脚本家探し

 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の続編……いわゆる「海モモ」の脚本は、タイトル上は、20人を越える脚本家の名前が載っているが、僕が声をかけた脚本家は最終的に30人以上だった。
 「海モモ」は、未放映分3話……これは番外編としてビデオなどには入っている……を入れても全部で65話で、一人で5、6話分書いている人もいるから、30人以上はあまりに多すぎる。
 タイトルに名前の載った20数人だって、常識からすればあまりに多い。
 だが、その中には、1、2本しか書いていない人もいるから、これだけの数になっている。
 脚本を書いた人の中には、監督の湯山氏さえいた。
 通常のシリーズの場合、多くても6、7人が、レギュラーで順番に書けば済む。
 僕も最初はそのつもりだった。
 実際、脚本を書き始めた頃の打ち合わせには、5、6人しかいなかった。
 一応、若手のプロのライターがそろっていた。
 だが、彼らに『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界を書くのは予想以上に難しかったようだ。
 エピソードはいくつもあったが、その中に出てくる登場人物に躍動感がないのだ。
 ストーリーも、破天荒にはじけることがなく無難に手堅く終わってしまう。
 何度も直してもらったが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界が、他のドラマやアニメとかけ離れていたせいか、『ミンキーモモ』らしさがでない。
 みんなどこかで見たようなアニメや子供向き番組になってしまう。
 昔の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』――「空モモ」を書いた脚本家の方達が持っていたオリジナリティや個性が、「海モモ」を書く脚本家の表面には出てこないのだ。
 時代が変わったのか、脚本家の書くものが画一化して、誰が書いても同じようなものにしかならない。
 それに、前の「空モモ」から10年経ったという時代の違いもよく表現できていなかった。
 人間をよく観察して、人間というものを描くことが得意な脚本家も少なくなっていたようだ。
 平凡にアニメ化した人間像しか出てこないのだ。
 さらに、昔の「空モモ」には、大人になるという夢が魔法として機能できたが、10年後の「海モモ」の時代には、大人になることが、そろそろ子供の夢ではなくなっていた。
 魔法で大人になっても、何の事件も解決できない現実が、さらに「海モモ」の脚本を書きづらいものにしていたのかもしれない。
 ただ即物的に大人に変身して一時的に事件を解決してめでたしめでたしでは、前の「空モモ」以後、続々と作られた他の魔女っ子アニメとの違いがほとんどなくなってしまう。
 どうにか『魔法のプリンセス ミンキーモモ』として成立するものができ上がっても、そこまでにあまりに時間がかかりすぎた。
 1本が完成するまで、2ヶ月や3ヶ月かかる脚本が多かった。
 若手の脚本家達も疲れが見えていたし、このペースでは、週1本消化するTVアニメには本数が少なすぎる。
 それに、プロのライターとして食べて行くには、ギャラの関係で当時は月に2、3本は書かなければならない。
 そんな脚本家達に、時間のかかる『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本を書いてもらうのも、酷な話だった。
 結局、他の若手の脚本家の中から『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界が書ける人を探すしかなかった。
 最初から参加していた脚本家の方には、納得のいく作品に仕上がるまでじっくり時間をかけて書いていただくことにした。
 他の仕事がある人は、そちらを優先してもらい、無理に『ミンキーモモ』の脚本完成を急がすことは止めにした。
 結果として、最初に集まってもらった脚本家の中で、『ミンキーモモ』の放映終了まで残っている人は少なかった。
 『ミンキーモモ』を書くことをあきらめたり、他の仕事が忙しくなったのだ。
 勿論、ある程度、ベテランの脚本家に書いてもらえば、時間もかからずそこそこのものはできるだろうが、他のアニメを書き慣れた方が、簡単に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の独特の世界を描けるとも思わなかった。
 そういう方達に、脚本を書いてもらって『魔法のプリンセス ミンキーモモ』をどこにでもある魔女っ子ものにはしたくない。
 それに、そんなベテランに書いてもらって、やたら時間がかかってはかえって迷惑をかけることになる。
 さらに、「海モモ」が続編だからとはいえ、どうしても比較されるだろう「空モモ」の脚本がすでにある。
 たまに「海モモ」を書いてもらう、前の「空モモ」の脚本家の方はいるにしろ、その方達はそれぞれの仕事が忙しい。
 多くの本数を期待はできないし、本来『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は若い脚本家がメインになって活躍してもらいたかった。
 だからといって「海モモ」の脚本群のレベルが、「空モモ」と比べた時、極端に落ちるものにもしたくない。
 「海モモ」の脚本家探しは、長い地獄巡りをしているようだった。
 知っている新人の脚本家に片っ端から声をかけ、知人の脚本家からも随分紹介してもらった。
 気がつけばその数は20人を超えていた。
 ほとんどの人が、共通した弱点を持っていた。
 オリジナリティ(作家の個性)のなさと、脚本の展開にリズムがないことだ。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界が独特というのは、実は「なんでもあり」ということだった。
 ミンキーモモとレギュラーの個性さえしっかりしていれば、後は、何を書いてもいいのである。
 ミンキーモモとレギュラーの個性は、かっちりできている。
 エピソード自体は、いくらでもある。
 僕自身が持っているエピソードもかなりの数があった。
 勿論、脚本家自身がエピソードを持っていれば、それはそれでいい。
 そのエピソードの描き方に、オリジナリティとリズムがあればいいのである。
 それぞれの作家独自の個性とリズムが、30分の時間に収まっていればいい。
 それのできる人が、少なかった。
 「空モモ」の頃の脚本家と「海モモ」時代の脚本家の違い……つまり10年の差は……「海モモ」時代の脚本家に、独自のオリジナリティとリズムを持った人が少ないことである。
 原作のあるアニメが多いとか、パターンどおりの展開を要求されるアニメが多いとか、理由はいろいろあるだろうが、現実は脚本家にオリジナリティとリズムがなくても、それで通用する時代になってしまった。
 むしろ、脚本家に独特なオリジナリティやリズムがあると、かえって困る作品が圧倒的に多くなってしまったのである。
 後に、「海モモ」に関わった、当時若手だった脚本家達からよく言われたのだが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品は、簡単なようでやたら難しかったそうである。
 どこが難しかったかというと「なんでもあり」で、「何をやってもいい」という事だった。
 原作があったり、パターンどおりの作品なら簡単に書けたかもしれないが、「何をやってもいい」と言われると、何をやったらいいのか分からなくて随分悩んだそうだ。
 おまけに僕から「これが、あなたのやりたいことなの? 書きたいことなの?」と聞かれると、その場で立ち往生してしまうのだという。
 特にこの傾向は、シナリオ学校などで、一応脚本の書き方を勉強した人に多かったようである。
 書き方は知っているが、自分の書きたいものが漠然としてはっきり分からないのだ。
 だから、それぞれのエピソードに登場する人物が個性的でなくなり、リズムのない平板な展開になる。
 結果、どこかで読んだような脚本のどこかで見たようなアニメになってしまう。
 脚本の中に監督の湯山氏の作品もまぎれこんでいるが、それは、脚本以外の作業で多忙だったにもかかわらず湯山氏がやりたかったエピソードであり、当然だが、湯山氏は誰より『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のリズムを知っている人である。
 僕の脚本家探しは続いた。
 新しい脚本家に出会うたびに、『ミンキーモモ』という作品の説明をし、昔の「空モモ」とエピソードがだぶらないように、「空モモ」全部のエピソードを書いたものを、コピーして渡した。
 できてきた脚本は何稿も書き直してもらった末、手直しして何とかなるものは手を加えた。
 キャンセルした脚本がいくつも出て、没にしたプロット(あらすじ)は、数知れない。
 この作業を、監督やプロデューサーと本読みの打ち合わせをする前に、脚本家と話し合ってやった。
 正直言って、多数の脚本家と話し合うことは、かなりきつかったし疲れもした。
 エピソードがあるんだったら、僕自身が書いたらいいのにという声もあった。
 だが、僕が書くと、僕の個性とリズムの脚本だらけになってしまう。
 誰が言い始めたか知らないが、首藤節というやつである。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、いろいろな人や様々な出来事にミンキーモモが、出会う話である。
 各話もバラエティに富んでほしかった。
 いわゆる首藤節のトーンで埋め尽くしたくなかったし、何より、メインは若手の脚本家達にしたかった。「空モモ」が1980年代の作品であるように、「海モモ」には1990年代の空気と社会性を持たせたかったからだ。
 ベテランの脚本家から、脚本メンバーは固定した方がいいよ……という忠告もいただいたが、固定できるだけの脚本家達に出会えないのが現状だった。
 だが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本に向いていると思える脚本家との出会いが、20数名を越えた頃やっと現れた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本は数学だという人がいる。
 脚本家は文科系より、理工系の人の方が向いているという意見もある。
 時々、なるほどなあと思うことがある。
 ここでいう数学とは、公式を暗記することではなく、全てのことを数学の公式になぞらえる感覚をいう。
 脚本家がこの感覚を持っていると、自分の書いている脚本を自然に数学の公式に置き換える。
 本人は無意識だとしても、そうしてしまうようだ。
 そういう数学的な感覚は結構大切だと思う。
 数学の公式に合わない事を書くと、その感覚がなんだか変だなと感じて、数学の公式に合わせようとする。
 人間の行動もいろいろ枝葉がついているものの、シンプルにすると、ある種の数学公式に置き換えられるという。
 しっかりした数学の公式は、シンプルで美しいと表現する人もいる。
 人間の行動だけでなく、世の中の森羅万象が様々な数学の公式に置き換えられる。
 音楽も美術などの芸術も突き詰めて行けば、数学の公式になる。
 脚本を書いたり読んだりする時に、数学的な感覚は確かに役に立つ気がする。
 その感覚が気持ちのいい時は、上手くいっている脚本である。
 つまり、描かれている人間の行動も、上手く描かれている。
 違和感を感じる時は、どこかが数学の公式にはずれている。
 その脚本には、間違っているか、無理なところがある。
 数学の感覚のある人は、確かに脚本家に向いているのかも知れない。
 別に序破急とか、起承転結などを気にせずとも、数学的感覚が気持ちよければ、その脚本は上手く書けているのである。
 いや、脚本家に限らず、芸術分野に長けている人は、数学の感覚の優れている人かもしれない。
 数学は創作であるという言葉もある。
 小中学校で数学関係の成績が悪くて、いまさら数学の感覚なんて持ち出されても困るという人もいるだろう。
 安心していい。
 小中学校で習うのは、数学ではなく暗記である。
 優れた映画や音楽、芸術の類が、優れた数学の感覚で作られているとすれば、それらを浴びるように見聞きすれば、あなたにもその感覚が身につくはずである。
 ただ、その感覚を数学だと意識するかしないかは、あなた次第である。
 僕は意識した方が、その感覚を分かりやすく理解できると思う。

   つづく
 


■第87回へ続く

(07.02.07)

 
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