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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第87回 「海モモ」の脚本家が『サザエさん』から……?

 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本家探しに、いい加減疲れ果てていたある日、知人の脚本家から電話があった。
 「見込みのありそうな若手がいるけれど、紹介しようか?」
 と、言うのである。
 いままでも、そんな電話は、いろいろな所から聞き飽きるほどかかっていた。
 だが、それまで紹介されたほとんどの人が『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は書けそうになかった。
 早速、僕は「会ってみるから、今まで書いたその人の脚本を持ってきて……」と答えた。
 だが、次の日、その脚本家から電話があって、紹介するつもりだった若手は「本人のいろいろな事情で、東京からいなくなり、駄目になった」と伝えてきた。
 そして、紹介したかった人ではないけれど、その人に連絡した時、電話口に出た人が「その人の代わりに自分が書いてみたいけれど、いいですか?」と言っているが、どうする、と聞いてきた。
 「紹介したい人の代理かよ」と、僕はいささかがっくりしたが、まあ、その人が、駄目なら駄目でももともとだなと思いつつ、軽い気持ちで「会うだけは会ってみるよ」と答えた。
 そんないきさつで、僕の前に現れたのが面出明美さんだった。
 要するに、本来紹介された人に会っていれば、多分出会うことはなかったはずの人だった。
 聞くところによると、広島出身で……そんなことはどうでもいいが……東京に出てきてアニメ専門学校を出た後、エイケンというアニメ会社に入り、『サザエさん』の文芸担当をし、『サザエさん』の脚本がいろいろな事情で遅れた時などは、自分で脚本をしばしば書いた事もあり、僕が出会った頃には『サザエさん』の脚本家のメンバーの一端にもなっていたらしい。
 正直にいえば、出会った時は、困ったなと思った。
 僕は、専門学校で脚本を勉強した人を、例外はあるにしろ、あまり信用をしていない。
 シナリオの原稿用紙への書き方は熟知しているが、ストーリーや登場人物がいつかどこかで見たようなパターンなものしか書けない人が多いからだ。
 学校だから、授業内容も、教師のオリジナリティというより、一般的に通じる脚本の形式や構造を教える。いわば学問のような脚本の書き方を教えることに偏りがちだ。
 つまり、学校で教えることができるのは、シナリオを書く技術であり、技術があっても、作者の描きたいもの、その人のオリジナリティが脚本に反映しなければ、一般的に通じる脚本の形式や構造パターンの脚本しかできてこない。
 脚本の実作と、脚本というものを教えることは別である。
 面白い脚本を書く人が、必ずしも脚本の教師に向いているわけではない。
 脚本家個々のオリジナリティや感性は、その人だけのもので、教えることのできるものではないからだ。
 だから、面白い作品を書く脚本家を教師に迎えても、生徒みんなが共有できる脚本の技術を教える事は不可能に近い。
 生徒みんなに通用する技術を教えられる脚本家がいるとすれば、それは、脚本家ご本人だけが持つオリジナリティがない、ということになる。
 だから面白い脚本を書く脚本家は、学校で、技術論より、その人自身の人生観や感性や脚本家になるまでの道のりを語るしかない。
 これは、生徒にとっては、参考になる時もある。
 ある脚本家の生き様、人生観、ものの感じ方を、少しは知ることができる。
 だが、生徒であるあなたは、当然その脚本家本人ではない。
 講義してくれる脚本家への道のりは参考にはなるが、その脚本家と同じ生き方をしているわけではないあなたの身にはつかない。
 それに個性の強い人ほど、独自の脚本創作法を持っているから、学校に通う多数の生徒に通用する創作法など、教えられるわけがないのだ。
 あくまで、その人個人の創作法なのである。
 というより、面白い売れっ子の脚本家は大忙しで、自分の創作法を分析する暇などなく、自分の書きやすい方法で書き続けている人がほとんどだと思う。
 一般的な創作法や技術論など、知識はあっても、脚本を書いている時はいちいち意識などしていない。
 脚本を書くという個性を要求される作業と、脚本の評論や脚本の分析研究は、別のものだと思っていい。
 最近は、シナリオ学校の林立で、脚本をあまり書いたことのない人が脚本の先生になっている場合が多いという。
 シナリオの技術を教えるなら、評論家でも脚本研究家でもできるし、むしろ人前で講義をするには、口下手な人の多い現役の脚本家より、人に教える事の上手いシナリオ教師のほうがいいかもしれない。
 けれど、脚本家とは別に、脚本を書かないシナリオ学校の先生という職業が存在するのは奇妙な気がする。
 いずれにしろ、その手の専門学校は、シナリオを書きたいという同好の人達が集まるから、話題が似たようなものになり、つきあいも限られ、世界が狭くなる。
 脚本家には、実体験や、様々な人と付き合い、その人達を観察することが大切である。
 その事が、学校の中だけ、ないしは同好の人達同志の付き合いだけでは、難しくなってくる。
 もともと個々はオリジナリティがあったかもしれないのだが、それがみんな同じようなことを教わり、群をなすようになると、画一化してくるのである。
 本来個性的だったものが、「朱に交われば赤くなる」で、似たようなストーリーや似たような登場人物の出てくるパターン化したものしか書かない……いや書けない脚本家志望者となっていく。
 面出さんに出会った時、今思えば僕の独断と偏見かもしれないが、アニメ専門校の出身と聞いただけで、僕の気持は後ろ向きになった。
 つまり、オリジナリティのあるものが書けるかどうか、不安を感じたのだ。
 さらに、まともに考えれば、『サザエさん』の文芸担当で脚本も書いたといえば、普通なら、新人としては立派なキャリアである。
 『サザエさん』は僕がシナリオを書き始める前から続いているような、長寿人気アニメだ。
 しかも、舞台はサザエさん一家とその周辺だけで、ストーリーもほとんどワンパターン、時代だって、懐かしの昭和時代の理想的な家族から出ていく気配がない。
 ワンパターンもこれだけ視聴者から支持されながら続くと、気が遠くなるほど偉大といえるアニメである。
 実は、僕も『サザエさん』には少しだけ関わったことがある。
 20代の頃、『サザエさん』で3本ほどハチャメチャドタバタ脚本を書いたら、『サザエさん』のカラーは『トムとジェリー』ではありませんので……と丁寧に言われ、当然、没にされたのである。
 その頃思ったのは、僕にはとても書けないアニメだという事だ。
 20代の僕ですら、古風に感じる家族を描いたアニメだからである。
 昭和の中頃の家族関係を保っている『サザエさん』の世界は、まるで時代劇のような気がした。
 時代劇を書くには、その時代の事、その時代の空気を知っていなければとても無理である。
 昭和の中頃に生まれた僕が、その時代を記憶しているわけがない。
 実際、当時から『サザエさん』の脚本は、ベテランの方がずーっと現代に至るまで書き続けているようだ。
 若い人間には『サザエさん』は無理だと、僕は20代のころから、そう思っていた。
 ところが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を書きたいと言ってきた面出さんは、その頃、まだ20代だった。
 よくまあ『サザエさん』の文芸担当や脚本書きができるよ……と呆気にとられはしたものの、ますます僕の姿勢は後ろ向きになった。
 『サザエさん』と『魔法のプリンセス ミンキーモモ』では、あまりに違いすぎる。
 『サザエさん』はワンパターンの権化だし、出てくるキャラクターも個性的とはいえないだろう。
 一方、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は「なんでもあり」で、それぞれのエピソードに出てくるキャラクターはユニークであってほしい。
 『サザエさん』と『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は世界観も違えば、ユーモアのセンスも違う。それぞれが全く逆のタイプのアニメといってもいいだろう。
 面出さんは、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「空モモ」は見ていたという。
 しかし、子供の頃に『ミンキーモモ』を見ていたからといって、本当に面出さんに『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が、書けるのか?
 しかし、面出さんに出会うまで20人以上、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に向かない脚本家に会ってきた僕である。
 そんな脚本家が、1人や2人増えても構わないつもりにもなっていた。
 救いがあるといえば、文芸担当をやっていたというから、沢山の脚本を読んでいることだった。
 それが、庶民の日常を描いた『サザエさん』であろうと、脚本には変わりない。
 その脚本も、ベテランのテクニックを持った方達のものがほとんどである。
 再度言うが、『サザエさん』の脚本は簡単に見えて、実は相当難しいはずである。
 そんな脚本に囲まれた面出さんには、本人は若いとはいえ、ベテランのテクニックがしみ込んでいるはずである、
 どんな脚本ができてくるか、好奇心が少しだけ頭をもたげてきた。
 さらに面出さんは言った。
 「本当は、『サザエさん』よりロボットものが書きたいんです」
 僕はいささか驚いた。
 『サザエさん』を書いている人がロボットもの?
 その言葉で、僕は決めた。
 面出さんは、いつもの自分とは全く違うものを書きたがっているのだ。
 『サザエさん』と『魔法のプリンセス ミンキーモモ』とをつなぐものが見えた気がした。
 僕は、面出さんに「試しに『ミンキーモモ』を書いてみたら……」と言った。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に1回ぐらい、『サザエさん』世界が入ってもいいじゃないか……なにせ、なんでもありの『ミンキーモモ』である。
 その時点では、面出さんが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のレギュラー・ライターになるとは思ってもいなかった。
 なお、蛇足だが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』以後、数年して、面出さんは『ガンダム』シリーズの脚本を書くことになる。面出さんの思いは、一応、かなったことになる。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』をやっていたせいか、昔、かなりの脚本家志望者にきかれたのが、「夢落ち、というのは、よくないんじゃないですか?」ということだ。
 おそらく、「空モモ」の2部の最終回、2部でのエピソードが人間の赤ちゃんの見た夢だった事への意見である。
 確かに、シナリオの学校や、シナリオの書き方を書いた本では、「夢落ち」と「精神病落ち」は、作劇上のタブーだとされている。
 つまり、映画の中で、どんなに不条理やつじつまの合わない事があっても、変な登場人物が出てきても、最後は「今までのことは夢でした」(この夢とは、眠っている時の夢の事である)で終われば、何が起ころうが許されることになる。
 ご都合主義もはなはだしいというのだ。
 同様に、どんな変な奴が出てきても、理由のさっぱり分からない犯罪や自殺が起こっても、それは精神病の人がやったことだというラストにすれば、それでストーリーを締めくくることができる。
 これも脚本としては、ご都合主義でいいかげんすぎるというのである。
 だが、僕は、それほど「夢落ち」や「精神病落ち」を悪いことだとは思わない。
 眠っている時の夢は、その人の持っている潜在意識の現れだとも言われるし、人間をもっとも分かりやすく見せるのも、その人の見る夢かもしれない。
 要するに夢の描き方次第である。
 最近、「夢落ち」の佳作映画が、次第に増えていることも確かである。
 精神病も同じことである。
 重症の精神病患者ならともかく……多分そんな人は、病院に閉じこめられるだろう……軽度の精神病は、必ず、病気になる理由がある。
 はたからは、たいした事に見えない事が、本人には重大な問題になり、精神状態がおかしくなるのだ。
 それをきっちりと描けば、優れた社会派ドラマになるだろうし、描き方次第では、ホラー映画の傑作が誕生するかもしれない。
 新聞やTVのニュースを見ていると、ストレスが多く、無責任な行為が横行する現代社会では、ほとんどの人が、軽い精神病にかかっているとさえ思える、
 欠陥マンションを造って平気な人、ニュースを剽窃する人、株の上下で大もうけしようとする人、いじめ、原因のはっきりしない自殺や殺人……今の日本には、病院に入院するほどではないが、精神科のクリニックを必要とする人が、平気な顔をして街を歩いているいる気がする。
 いや、今、日本にいるほとんどの人が、僕も含めて、どこかしら精神に病気を持っている気がする。
 確かに、安易な「夢落ち」や「精神病落ち」は避けるべきだとは思うが、夢と現実の境がはっきりしない現代、精神が病んでいるとしか思えない社会を描くのに、「夢落ち」や「精神病落ち」はあっていい気がする。
 たとえば、眠っている間に悪夢を見てうなされた人が、目覚めて「ああ、夢でよかった」と安堵する人と、「なぜ、あんな悪夢を見たんだ?」と悩む人を比べると、後者の方が増えているという。
 現在は、脚本の「夢落ち」や「精神病落ち」を非難していた時代とは、明らかに違っている。
 扱いを慎重にすべきなのは当然のことだが、「夢落ち」や「精神病落ち」が、現代人を描くのに有効な手段になってきたと思うのは僕だけだろうか。
 いずれにしろ、困った時代である。

   つづく
 


■第88回へ続く

(07.02.14)

 
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