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第91回 「海モモ」の監督とキャラクターデザイン
いうまでもなく、アニメの出来は脚本だけでなく、作品に関わる様々な人の力が、作品に反映してくる。
スタッフの技術的なものも大切だが、作品に対する熱意のようなものが大きくものをいう。
自分でも相当苦労した自覚のある『魔法のプリンセス ミンキーモモ』2作目「海モモ」の脚本部分だが、それは作品の入り口部分でしかなく、それを作品化する演出、作画、音響、音楽、声優さん、その他の部分について、詳しい事を僕は知らない。
だが、作品完成部分に近いアフレコに行く事で、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』「海モモ」に対する他のスタッフの乗りを垣間見たり想像する事はできる。
隣の芝生はよく見えるというが、CD(チーフ・デレクター)の湯山邦彦氏は、はじめての総監督が前回の「空モモ」だった事もあり、特別に愛情を込めて「海モモ」に接していたようで、湯山氏の指示の下で若手の演出家やアニメーターがどんどん育っていくのが、ミンキーモモに向いている脚本家が見つからなくてじたばたしている僕にはうらやましく思えた。
湯山氏には湯山氏なりの苦労があったのだろうが、それを口に出す事は、僕に対してはあまりなかった。
脚本に関しても、ほとんど僕に任してくれた。
名の知れたアニメ監督は、それぞれ、独特な個性や臭みのようなものがあり、それを前面に出したがる人が多く、自分のやりたいように脚本をいじる人も多いのだが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』における湯山氏は「空モモ」「海モモ」両方とも自分の個性をあまり主張せず、なんでもありの『ミンキーモモ』の世界の空気を上手く表現していた。
いろいろバラエティにとんだ脚本を、『ミンキーモモ』の世界にしっかり収めて外さなかった。
『ミンキーモモ』が、他の魔女っ子ものではない『ミンキーモモ』であり続けたのは、原案や原作でシリーズ構成でもある僕のいささか個性的すぎるかもしれない脚本群を、手際よく処理してくれた湯山氏の力が大きいと思う。
湯山氏はどんな脚本が出てこようと、うまくこなしてしまう万能選手なのである。
なんでもこなす万能選手だけに、個性的な脚本の多い『ミンキーモモ』を首藤節という人はいるが、湯山風演出という人はあまりいないようである。
湯山氏本人も「自分の色や個性が見えないのが、僕の個性」というような事をインタビューで言っている。
確かに、監督の個性が前面に出すぎて、その監督のにおいがぷんぷんするような作品は、誰が脚本を書こうが○○監督作品と呼ばれ、それなりの評価を受ける。
だが、湯山監督の場合、その監督名が特別に注目されるほど、個性的なにおいのする作品はあまり多くないようだ。
だが、湯山氏の監督する作品は「ミンキーモモ」に限らず様々なジャンルで出来のいいものが多い。
守備範囲が広いのである。
そういう意味でも、日本のアニメ界でもっと評価されていい監督の1人だと思う。
今現在、10年以上『ポケットモンスター』の総監督を続けている事だけでも、ただ者ではない事の証拠のようなものである。
あの作品については後で述べるつもりだが、最初の3、4年、僕もシリーズ構成や脚本で関わった時期がある。『ポケモン』のアニメは、表面に出てこない部分がいろいろ大変で、13年続いた『まんがはじめて』のシリーズを経験した僕でも、精神的にも神経的にも疲れて付き合いきれなくなった作品である。
この先、『ポケモン』が何年続くか知らないが、その総監督をこなしている湯山氏は、そうとうな力の持ち主だと今さらながらに感心している。
『ミンキーモモ』に関しては、自分自身では、特別な色や臭みはないと言っているものの、音楽にはこだわりがあるようで、さりげなく挿入歌の作詞をしたり、欧米のホームドラマタッチが好みで、その感覚が欲しい時は、忙しい中、「海モモ」では脚本も書いている。
自分で脚本を書いた事もあるせいか、脚本の難しさも知っていて、脚本を作品のたたき台としてしか考えていないアニメ監督が多い中では、脚本を重要視する監督でもある。
僕の書く脚本は、登場する人物が無国籍でドライなタッチが多いが、湯山氏は、意外に家族愛や、特に母親と登場人物の関係が気になるらしく、今後、その手の作品を手がけると、傑作アニメが生まれるかも知れない。
いずれにしろ、どんなジャンルのアニメ作品でも水準以上に仕上げる演出家としての才能は、なんでもありの『ミンキーモモ』の監督として最適の人だったと思う。
『ミンキーモモ』というと、スタッフとしては僕の名前が出る事が多いようだが、それ以上に湯山邦彦監督作品である事も忘れてはならない。
さらに、キャラクターデザインの芦田豊雄氏率いるスタジオライブが、『ミンキーモモ』1作目の「空モモ」に引き続いて「海モモ」のキャラクターを受け継いでくれた事も、「空モモ」の世界の空気を「海モモ」に漂わせるために重要な要素になったと思う。
ミンキーモモの基本的なデザインは、「空モモ」の時に芦田豊雄が描いたミンキーモモである。
しかし、実際のアニメになってからは、芦田豊雄氏のデザインをもとにして、わたなべひろし氏他、様々な人がそれぞれのミンキーモモを描いていた。
それらをよく見比べると、1人ひとりが、ずいぶん違うミンキーモモを描いている。
それでも、同じミンキーモモに見えるのは、基本になった芦田氏の最初のデザインがユニークだったからだろう。
「海モモ」は、スタジオライブのとみながまりさんの作画がメインだったそうである。
前の「空モモ」から10年経っているが、基本は変わらない。
だが、「海モモ」は1990年代のモモである。
「海モモ」は1980年代の「空モモ」と似ていても実は違い、それでいながら動き回る世界の空気は『ミンキーモモ』タッチでなければならない。
この微妙にややこしいキャラクターデザインは、芦田氏のスタジオライブという会社で培われた独特な雰囲気の中でなければ作れなかっただろう。
とみながまりさんは、「海モモ」を、当時のインタビューで、自分の代表作だと語っているが、確かに、1980年代の「空モモ」とは一味違う1990年代の「海モモ」ができ上がっている。
それでも、ミンキーモモの世界が壊れていないのは、スタジオライブの持つ空気が、とみながまりさんの作画に息づいているからだろうと、僕は勝手にそう思っている。
「海モモ」の制作は「空モモ」の時とは違う楽しさもあった。
「空モモ」の時は、新しい魔法少女ものとして期待と同時に不安も多かった。
東映動画の確固たる魔女っ子ものがありながら、いまさら、魔法少女ものを作ったってろくなものができるわけがない。
東映動画を下手に真似したものを作ってどうする気だ……という声も少なくなかった。
僕自身も、「空モモ」のような魔法少女を作っていいのかどうか? 受け入れられるかどうか? 正直な話、分からなかったといっていい。
だが「海モモ」は、「空モモ」がある程度の評価を受けた後の10年後である。
『ミンキーモモ』は、ある意味、ステイタスになっていた。
「海モモ」は、みんなが期待している作品のひとつになっていた。
『ミンキーモモ』なら見てみたい。制作に参加したい。
そんな周囲の好意的な熱意のようなものが、感じられた。
だから、制作側から、脚本に対して何の注文もなかった。
「ミンキーモモを作るなら好きにやってくれ」といった感じだった。
「好きにやれ」は、いいものを作らなければという重圧にもなったが、僕にとってはうれしい気持の方が大きかった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
自分の書きたい事、描きたい事、つまりオリジナルな脚本をろくに書かない脚本家になりたての時に、原作どおりの脚本を書き慣れてしまうと、自分のオリジナリティがどんどん失われていく事は確かだ。
僕自身は、今まで原作どおり書いた脚本は1本もない。
原作がある作品で、登場人物や状況などの設定を使う事はあるにしろ、書き出すと台詞もストーリーもテーマも原作と違ってしまう場合がほとんどである。
原作どおり書かないというより、書けないといったほうが正しいかもしれない。
そんな僕だから、原作どおりに脚本化してくれという仕事自体が、いつからかこなくなった。
僕に原作のある仕事がくるとしたら、原作どおりだとアニメにならないもの、なんらかの手を加えないとアニメにならないものばかりである。
だが、僕がそうだからといって、みなさんに原作どおりに脚本を書く仕事はするな……とは言えない。
原作どおりの脚本を断っていると、そのうち脚本の仕事自体がこなくなる恐れがある。
原作どおりとはいえ、めったにない脚本の仕事をつかんだのに、それを捨てろと言うほどの勇気は僕にはない。
原作のあるアニメが全盛の時代、オリジナリティが要求される仕事がくるチャンスも少ないだろう。
と、すれば、原作どおりを要求される脚本を仕事と割り切って書くしかないだろう。
だが、自分の書いているそれを、脚本とは思わないほうがいい。
その仕事は、原作をアニメ用に清書しているぐらいに考える事だ。
そして、本読みの打ち合わせはアニメ業界への人脈作りに役に立つとものとして、不愉快な顔を見せず愛想よく何を言われても、はいはい頷いていればいい。
僕は、それがうまくできなくて、人脈を作るどころか失う場合が多いようだ。
そんな僕の真似は、くれぐれもしないように……。
業界の人脈は、広ければ広いほどよい。
脚本家の生命線といっていい。
どんなに出来のいい脚本を書いても、付き合いが無愛想で感じが悪いと、相手があなたから引いてしまう場合もある。
例えば、アニメに限らず女性脚本家全盛の頃であれば(今もそうだが……)、男性のプロデューサーにとっては、同程度の脚本を書くのなら、当たりの柔らかい女性の方がいいに決まっている。
打ち合わせを兼ねた食事など、女性脚本家だと高級レストランだが、男性脚本家だと安い赤ちょうちんになると、女性脚本家へのやっかみもあってか、まことしやかに言われた時期もある。
半分冗談だが、脚本家には、その人の書く脚本の出来よりも、業界との付き合いが大事だと言い切ってしまう人すらいるらしい。
だから、原作どおりの脚本を要求されたら、それは業界との大切な付き合いだと思って書く事を僕は勧める。
だが、その付き合いは本来の脚本を書く事とは違う。
自分のオリジナリティを衰退させる原作どおりのアニメ用清書を付き合いで書くのとは別に、自分のオリジナリティを持続させる方法を考える事だ。
その方法を模索してみよう。
つづく
■第92回へ続く
(07.03.14)
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