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第92回 「海モモ」を支えてくれた人たち1
「海モモ」は、制作会社葦プロダクションの上層部からも、丁寧にあつかわれていたようだ。
嘘か本当か知らないが、前作の「空モモ」の時、葦プロダクションは潰れる寸前で、「空モモ」が駄目だったら、上層部はアニメ会社を止めて、おでん屋でも始めようかと話し合っていたという噂もあった。
そのなごりかどうかしらないが、葦プロダクションは「海モモ」の頃、副業としてラーメン屋を始めたらしい。
もっともそのメニューに、「ミンキーモモラーメン」があったかどうか僕は知らない。
残念ながら、ラーメン屋は、長続きせず店じまいし、葦プロダクションはアニメ関係だけの会社に戻ったようだが、ラーメン屋が成功していたら、今ごろ葦プロダクションは、葦ラーメンなどというチェーン店になっていたかもしれない。
そんな話が、当時を知る人たちの間では、今も語り継がれている。
それはともかくとして、前作「空モモ」は、予想以上にヒットして、葦プロダクションは、アニメ会社として立ち直った。
つまり『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「空モモ」は、葦プロダクションの救世主だったらしいのである。
それだけに、葦プロダクションの上層部のミンキーモモに対する愛着もひとしおだったのだろう。
上層部に限らず、「ミンキーモモ」は、葦プロダクションのみんなから、可愛がられていたようである。
そんな中でも忘れようとしても忘れられない存在で、文芸担当というか制作担当というか、宣伝担当というか「ミンキーモモ何でも屋」といってもいいほど大活躍したのが、ペンネーム南極二郎氏こと佐藤徹氏だった。
南極二郎のペンネームの名前の由来は日本の南極観測の際、南極に取り残された幾頭もの犬のうち、たった二頭の生き残った犬、タロとジロのジロから来ているらしいが、なぜ、南極太郎でなく南極二郎なのか……そもそも、なぜ南極なのかもよく分からない、ペンネームだけでは謎の人である。
だが、実際は、脚本、演出、作画、音楽、どこの現場にも姿を現わし、それぞれの現場をつなぎ、様々な雑用をこなし、ビデオやLDの説明文やら、PR用に製作状況を面白おかしく書いた文章まで書き、ミンキーモモのスポークスマンとしてパソコン通信からイベントまでミンキーモモファンとのパイプ役をこなしてくれた人で、「海モモ」には、なくてはならない存在だった。
氏の登場するイベントなどは、トークの内容がほとんど漫才で、ファンに随分受けていた。
僕の担当する脚本の立場からすれば、脚本家の人数は多いし、脚本の修正は四稿五稿が当たり前、最高三十七稿までいって揚げ句の果てが没……等という脚本製作状況を怒りもせず、にこにこ脚本のでき上がるのを待ってくれるやさしい文芸担当だった、
ミンキーモモのプロット募集の時も、面倒くさいだろうにとてもよく協力してくれた。
機械音痴のある脚本家が、ワープロを買おうとした時など、相談相手になってくれて、わざわざ電器屋まで行って品定めまでしてくれた親切な人である。
実は、南極氏にミンキーモモの脚本を書いてもらおうかとも思った事もあったのだが、あまりに忙しそうだし、これ以上負担をかけるのは酷だと思ってあきらめたこともあった。
南極氏は、僕の知る限り『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「海モモ」の製作状況ついて誰よりも全貌をよく知っている人だった。
ご本人が、アニメを好きだという事もあるのだろうが、『ミンキーモモ』に関しては、その気持がより特別であるように僕には見え、この人の陰になり日向になりの働きがなかったら、「海モモ」は、少なくとも脚本上はうまく回転しなかったかもしれない。
つまり「海モモ」は、ある意味、南極二郎氏の作品でもあったのである。
ついでだが、南極氏こと佐藤徹氏は、その後、葦プロダクションを離れ、仲間とジーベックというアニメ会社を作った。
さて、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「海モモ」が、「空モモ」と制作上で大きく変わったのは、放映する局が日本テレビ系になったのと、音楽が、ビクターからキング系になったことだった。
広告代理店のプロデューサーは大野実氏で、ミンキーモモの名づけ親でもあるし当然「空モモ」に好意以上のものを持っている方だったから安心だったが、日本テレビも、キングも僕にとっては初めてだった。
何でもありでバラエティに富んだ『ミンキーモモ』の世界を許容してくれるかどうか、いささか心配だった。
だが、それは全くの杞憂だった。
日本テレビの堀越徹プロデューサーは、最初から『ミンキーモモ』に好意的で、「海モモ」の第1話の脚本を読んで、「ここ数年、こんなに面白い脚本は読んだ事はない」と言って喜んでくれた。
お世辞だとしても、僕はうれしかった。
「海モモ」の声についても『アイドル天使 ようこそようこ』のレギュラー、サキという役で、僕は林原めぐみさんをよく知っていたから、林原さんが「海モモ」の声をやると聞いて不安は少しもなかったが、「林原めぐみさんが、『海モモ』として望みうるベストの声だ」と、わざわざ念を押して僕に言ってくれたのも堀越氏だった。
「海モモ」で僕が気にしたのは音楽関係だった。
脚本というものは、台詞はもちろんだが、その作品に出てくる必要不可欠な音があればそれにも意見を持つべきだというのが、僕の持論である。
作品の音は、監督、演出、音響監督、声優さん等の方達の守備範囲である。
普通はシリーズ構成や脚本家は、作品の音に関して口を出す事はないようだ。
だから、それについて脚本をしきるシリーズ構成があれこれ言うのは、明らかに越権行為である。
そんな事は分かり切っているから、できるだけ出しゃばらないようにしているが、脚本上、どうしても必要な音があれば前もって注文しておく必要がある。
作品の音で、重要な部分を占めるのは音楽である。
アニメシリーズの場合、以前にもこのコラムで書いたが、シリーズ全体に必要になりそうな歌やBGM(映像のバックに流れる音楽)を、100曲以上、作品のダビング(音入れ)する前に作ってしまう。
どんな曲が必要か、監督や作曲家の人達が打ち合わせして決めるのを、音楽のメニュー出しなどと言うが、その時点では、まだ脚本は最初の数話分しかできていない。
だから、監督や作曲家は、その作品のシリーズの持つジャンルの雰囲気にあった音楽を予想し、必要になりそうな曲を見込んで作る事になる。
例えば、ホームコメディやラブコメに、ロボットアクション風の曲やホラー風の曲を作っても使いようがなく、無駄になるだけである。
しかし、僕がシリーズ構成をする作品は、ひとつのジャンルに収まらない。
ロボット物の『戦国魔神ゴーショーグン』に、まさかクラシックが必要になるとは企画段階で、僕以外、誰も思わなかっただろうし、『さすがの猿飛』も、原作のコミックからは想像もつかない戦争物からミュージカルまで様々な番外編が続出し、それに似合ったBGMが必要だった。
パロディギャグだらけのアニメだから、BGMもパロディギャグの曲を多くしてほしかった。
となれば、全体をある程度把握しているシリーズ構成が「こんな曲が欲しい」と、言わざるをえない。
以来、最小限度だがBGMに、注文を出させてもらう事にしていた。
もっとも、僕自身は最小限度だと思っているが、他の人がどう思っているかは知らない。BGMにまで口出しするうるさい奴と思っているかもしれないのだが……。
ただし、余談になるが、『ポケット モンスター』の初期のシリーズ構成をした僕は、悪役のロケット団の歌の作詞はしたものの、音楽に関しては何もしていない。
ついでだが予告編も書いていない。
理由は後で詳しく書こうと思うが、早い話が、『ポケモン』の中堅プロデュサーの1人に、アニメとしての『ポケモン』は監督のものだから、僕は脚本以外に口を出さないようにという意味の事を言われ、釘を刺されたからである。
理屈としてはもっともだし、僕が妙に口を出してごたごたしたくないので、そのプロデューサーの言葉に従う事にした。
話をもとに戻そう。『魔法のプリンセス ミンキーモモ』も、ジャンル分けすれば魔女っ子ものだろうが、出てくるエピソードはその枠に収まらない。
むしろ、普通の魔女っ子ものにはありえないエピソードの方が多い。
それだけ、多種多様な曲が必要になる。
監督も音響監督も作曲家も大変だが、重要なのは『魔法のプリンセス ミンキーモモ』全体の音楽制作を担当するプロデューサーである。
音楽がビクターからキング系に変わった事で、当然、音楽関係のプロデューサーも変わる。
それが、僕には、気になっていたのだった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
原作どおりの脚本を書き慣れてしまうと、自分のオリジナリティを持ち続けることは難しい。
自分のオリジナリティを守るのには、仕事としての脚本とは別に、自分の書きたいオリジナルの脚本を書き続けることが一番いいのだが、実際には難しい。
原作どおりの脚本とはいえ、それでお金を稼いでいる人は、まがりなりにもプロの脚本家だという変な自覚があるから、今さら頼まれもしないお金にもならないオリジナルの脚本を書く気にはならないのである。
そんな気持は、僕にはとてもよく分かる。
僕は、脚本のストーリーやエピソードやテーマ、台詞等を頭の中に浮かばせて頭の中で脚本を完成させるのは好きだが、実際にそれを書くという作業が、嫌いというか苦手である。
子供の時からそうだから、書くという作業が、性格的に僕に向いていないのかもしれない。
だから、シリーズ構成などをしている時は、頭の中ではすでにでき上がったエピソードや脚本を他の脚本家に渡して書いてもらう時も少なくない。
他の脚本家に書いてもらったそんな脚本は、僕の頭の中で考えた脚本と同じはずはないから、台詞を含めていろいろ書き直し、結局、僕も書く作業をせざるを得ないことも多い。
そんな作業は手間がかかるし、こんなことならはじめから僕が書けばよかったと思う事もないわけではない。
「自分で書けばいいのに……」と、人から言われる事もある。
首藤がシリーズ構成をする作品は、脚本をほとんど首藤に書き換えられるぞという噂が飛び交った時期もあった。
断っておくが、そんな脚本でも最初は他の脚本家に頼んだのだから、僕が書き直してもその分のギャラを僕はもらわないし、脚本タイトルに僕の名前も出さない。
脚本タイトルに、他の脚本家と並びで僕の名前が出ている脚本は、目安として70パーセントから80パーセント、僕が書き直した脚本といっていい。
もちろん、1行も筆を加えない脚本もある。
脚本家の方が、シリーズの基本的な部分を押さえた上で、自分でエピソードを考えて、その人のオリジナリティが前面に出ている脚本には、僕は口を差し挟まない……いや、筆を入れることはない。
そんな脚本は、僕がしゃしゃりでると、変にぎくしゃくしたものになる危険性が高い。
僕が何もしないですむ脚本は、僕にとってもありがたい脚本である。
しかし、そんな脚本を書ける脚本家は、そう数は多くない。
もっとも、そんな脚本家の方たちは、原作どおりの脚本を書いても、その人なりのオリジナリティの匂いのする脚本になるから不思議である。
ともかく、僕は土台から書く作業が嫌いなのだから、僕でなければ絶対書けないと思うもの以外は、できるだけ、他の脚本家に書いてもらおうということになってしまう。
要するに、僕は書く作業から逃げているのかもしれない。
それでも、今まで脚本にしろ小説にしろ書く事で、食べてきたから不思議というか、随分、自分と矛盾した仕事をしてきたなと、つくづく思う今日この頃である。
そんな僕だから、原作どおりの脚本しか書いた事のない自称プロの初心者脚本家が、売れるあてのないオリジナルの脚本など、いまさら書く気にならないのがよく分かる。
だが、オリジナルを書かない初心者脚本家は、何度も言うが、確実にオリジナリテイが薄くなり、誰が書いても同じというような脚本しか書けなくなる。
オリジナリティのない脚本家は、代わりがいくらでもいる。
お取り換え可能、いろいろ都合が悪くなれば使い捨てである。
脚本を依頼する側からしても、同じような脚本を書くなら、同年代か、年下の方がつきあいやすい。
年上の脚本家は、話も合わないし、ギャラの問題もあるし、いろいろ面倒くさいから、脚本を頼むのを止めちゃえという事になりがちだ。
つまり、その脚本家独自のオリジナリティがないと、いずれ使い捨てられる運命にあるといっていい。
中年になって使い捨てられた脚本家など、たいしたスキルもないし他の職業でも使いものにならない。
アルバイトもできずフリーターにもなれず、家がなければホームレスである。
では、オリジナルの脚本を書く気になれない人が、自分のオリジナリティを守り育てるにはどうしたらいいか。その話をさらに続けよう。
つづく
■第93回へ続く
(07.03.28)
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編集・著作:
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