web animation magazine WEBアニメスタイル

 
アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第96回 「海モモ」での実験2

 『ミンキーモモ』は、本来、子供が将来どんな大人になるかという「夢」が、基本になっていた。
 しかし、90年代初期の「海モモ」の時代には「大人になったからといって、何ができるというんだ」「むしろ何もできはしない」という雰囲気が子供たちの間に、漂ってきていたようだ。
 当時のバブル崩壊も、少なからず影響していたに違いない。
 子供たちに「夢」がなくなったのではなく、「夢」の質が変わっていったのだ。
 「大人になったら何になる?」という夢が、「夢」ではなく「絵空事」になっていた。
 もともと、80年代の前作である「空モモ」も、大人になったからといって、「夢」がかなうという単純な構造ではなかったが、少なくとも大人に変身する事が、夢を実現させる手段として有効だというストーリーのきっかけにはなっていた。
 だが、90年代には、大人になる事が「夢」へのきっかけとして機能しなくなっていた。「夢」がキーワードのミンキーモモは、90年代の「夢」がなんであるかを、探さなければならない作品になってきたのだ。
 90年代の「夢」は何か?
 はっきりした「夢」の分かりにくいそんな時代の「夢」を描く事は、90年代の社会性を意識しなければ、不可能に思えた。
 魔女っ子アニメに、さりげなく社会性を盛り込むのは、当時の若手のアニメ脚本家にはとても難しい事だ。
 パソコンにしがみついてアニメやコミックに浸り切っている90年代の若手脚本家の多くに、その時代の社会に対する敏感なアンテナがあるとはいえなかった。
 時代の社会性といっても、その時期の流行を追いかけているだけでは、作品に普遍性が出てこない。
 その時代の社会性の中に見える人間の本質のようなものが、さりげなくにじみでてこそ、どんな時代にも通用する古くならない作品ができると僕は考えていた。
 あくまでそれは理想論ではあるが、ミンキーモモは制作された時代を反映しつつも、どんな時代にでも通用するアニメにしたかった。
 時代によって「夢」の質は、変わって行くが、その変遷をしっかり描けば「人間の持つ夢」というものの全体像が、浮かび上がってくるはずだと思ったのである。……この時点で、当初は80年代の「空モモ」だけで終わるつもりの『ミンキーモモ』が、3部作以上の、20世紀から21世紀をまたぐ「夢」をテーマにした大長編になる構想に、少なくとも僕の中では変わった。
 だから、「海モモ」は、『ミンキーモモ』という作品全体の中盤にあたる2部目を描いている事になる。
 ちなみに、3部目は、2001年ごろの予定で、企画と全体のストーリーはできていたが、その後、毎年のように企画されては、いつも実現ぎりぎりのところでいろいろな事情で遅れ、今年こそは今年こそはで、それでも今も企画は動いている。
 一時、学習誌で3部らしきものが、連載されたことがあり、少しだけ僕も関わったが、アニメ化まではいたらず、番外編的な性格になった。
 本来の3部目のアニメ企画とストーリーは、いまだに生きており、かなり高い確率で、近く実現すると思うが、はっきりした事は今はいえない。
 21世紀の『ミンキーモモ』が予定されるなら、そのためにも、90年代の『ミンキーモモ』である海モモには、2部目の役割としての1990年代から2000年の時代性と社会性を盛り込みたかった。
 当時の魔女っ子アニメに、社会性を盛り込むことは、それ自体が実験だった。
 その機会を狙っている時に、スポンサーがきっかけになる要求を出してきた。
 ミンキーモモの住む家の玩具を作って売り出したいから、今住んでいるホテルを引っ越してくれというのである。
 本来、ホテルという設定は、夢を持った旅人達が立ち寄ってくれるというもので、それが建てられた公園も妖精たちが住んでいるという、「夢」というものを語りやすくするための設定だったが、実際にその設定を上手く利用できたエピソードは、わずかしかなかった。
 つまり、設定倒れになりかかっていた。
 玩具のために設定を変えろというのは、本来理不尽な気にさせられるものだが、今回は渡りに船だった。
 モモ達が引っ越しをするには、それなりの理由がいる。
 その理由に、当時の社会性と、ついでにそれによる妖精達の消滅までつっこむことにした。
 当時、南北ベトナムの統一から、東西ドイツの統一、そして、ソ連の崩壊にいたり……世界地図の国境が次々と変わっていき、様々な紛争や問題が起こっていた。
 日本なら、地図で県の境や町の境がどう変わろうと、選挙戦で投票者の数が変わるぐらいの差しか日常的には変化がなさそうだが、大陸で地続きの諸国家の国境となると、そうはいかない。
 主義、民族、宗教、国家の利益、様々な要素が交錯し、新しくできた国境付近に住む人々の生活は、平安なはずがない。
 ある日、突然、モモの住んでいた国はなくなり、モモの住むホテルのある公園は、4つの国の国境になる。
 さらに、4つの国の境の中心が、モモの住むホテルになる。
 例えば、モモの家の居間の真ん中が、国境になると、居間の中を一歩歩くと、別の国になってしまうのである。
 子供にとっては国境など関係ないのだが、大人の都合ではそうはいかない。
 嫌も応もなく、あっさり引っ越しである。
 モモもその両親もアニメでは陽気にお気楽に引っ越して行くが、現実の社会でいえば、モモは現在も世界中にあふれる難民の子供の1人になったことになる。
 そして、紛争の火種になるような場所に、妖精がのんびり住めるはずもない。
 そんな状態で「夢」を語る事が出来るだろうか……?
 こういう類の社会性の強い重いテーマを、いかにあっけらかんとコメディタッチで「夢」というキーワードと結びつけるか……これが、少なくとも僕にとっては実験だった。
 さらに、ほとんど好奇心と遊び半分で、現実社会(?)にやってきた海モモに、自分の存在理由を意識させるために、前作で人間に生まれ変わっていた空モモと出会うエピソードを持ってきた。
 単なるお遊びのゲストではなく、空モモを登場させることは、「海モモ」がリメイクではなく、「空モモ」の続編である事を強調するためにいつか必要だと、監督の湯山氏ともども考えてはいた。
 もっと早く会わせるべきだったという意見もあったが、僕としては、モモが国境のために住む場所を変え、自分というものを考え始めた、実際に放映された順番の時期が適当だったと今も思っている。
 ところで、スポンサーから要求された新しいモモの家は、案の定というか、玩具としては実現しなかったようだ。
 玩具の方は企画倒れだったが、海モモの世界は、それによってよくも悪くも前進した。
 「大人になるという魔法」が、子供にとって魅力的でなくなったと判断したスポンサーは、モモに「大人になる魔法」以外の魔法を使うようにと言ってきた。
 それは僕も望んでいた事だった。
 『ミンキーモモ』に社会性を盛り込もうとした実験に、エピソードの中で必ず1回は「大人になる魔法」を使うという縛りは、いささか邪魔だったのだ。
 もっともすでに、モモが大人にならないエピソードはそれまでもいくつかあったのだが……これで公認ということになった。
 そんなこともあり、モモの引っ越しを機会に、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』はオープニングを衣替えして、『夢を抱きしめて』という副題がついた。
 それに伴って、挿入曲をふやしたCDを出そうという企画が出てきた。
 挿入曲は必ずエピソードに使うという条件で、エピソードに添った挿入歌が作曲される事になり、それはますます『ミンキーモモ』という作品の実験的なエピソードを増やしていく結果になった。


   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 ともかく、本読みという会議は、脚本家にとって楽ではない。
 自分の書きたい事があっても、本読みの空気を読めば、それがどうしても通りそうもないテーマやアイデアの時もある。
 しかし、あなたには、誰が何と言おうと、登場人物にやらせたい事やしゃべらせたい台詞がある時もあるだろう。
 本読みに出席する人も、真面目な人は、その作品をよくしたいと思って、意見やクレームをつけるのだから、脚本家が何と言っても引き下がらない。
 仮に引き下がっても、納得していないから、その場の空気が悪くなる。
 そんな人が、何人も集まって、それぞれの意見を言いだしたら、あなたが本来書こうと思っていた事など吹っ飛んでしまう。
 僕がまだ若い頃、かなり大きな規模の作品のプロット(あらすじ)段階で、集まったプロデューサー同士で意見が合わず、数人のプロデューサーがそれぞれの考えをゆずらず、もめた事があった。
 いつまでたってもまとまらないので、面倒くさくなった僕は、思わず「この脚本は僕が書くんだから、ごちゃごちゃ言わずに僕に任せてください」と言ってしまい、居合わせたプロデューサー全員のひんしゅくを買ったこともある。
 だからといってプロデューサー達の意見もまとまらず、結局、その作品は、僕の思いどおりに書かせようということになり、結果、僕の脚本どおり映像化されることになったが、かなり僕にとっては疲れる会議だった。
 この場合、まだプロット(あらすじ)の段階だから何とかなったが、完成した脚本で、いろいろ意見が出ると、収拾がつかなくなる。
 結果、それぞれの意見を聞かざるを得なくなり、あなたが書いたんだか、プロデューサー軍団が書いたんだか訳の分からない脚本ができあがる。
 それを防ぐ悪知恵がある。
 高等技術だから、めったに使わないほうがいいが、あなたがどうしても書きたいオリジナリティのある部分で、もしかしたらクレームがつきそうなところがありそうな時は、もっと、大きな穴を作っておくのである。
 つまり、誰もがクレームを付けるだろう分かりやすい脚本の欠点部分を、わざと作っておくのだ。
 ほとんどの人が、その欠点部分に気がつき、意見やクレームはそこに集中する。
 あなたが、書きたかった問題の部分から、みんなの目をそらさせるのである。
 あなたは、大きな欠点部分への指摘に、はいはい頷いて書き直せばいい。
 自分が悪いと分かって書いているのだから、直しは簡単である。
 そして、あなたのオリジナリティは守られる。
 もっとずるい方法は、自分の書きたいものを先に書いておいて、その他に大きな穴のあるものを、もう1本書いて、それを1稿として出すのである。
 そして、クレームや意見を、言わせるだけ言わせておいて、数日後に、前もって書いた脚本を出す。
 本読みとしては、直しの入った2稿目の脚本だが、あなたにとっては、思いどおりに書いた第1稿という事になる。
 最初から真面目に書いたものを出して、ごちゃごちゃ言われて自分のオリジナリティの失われた脚本になるより、精神的にも書き直す手間を考えても、よっぽどましである。
 何より自分の脚本をそのまま守る事ができる。
 ただし、これは、本読み会議の本来の目的を馬鹿にするというか無視するやり方だから、あまりやらないことだ。
 そうしたことが相手に分かると面倒な事になる。
 高等技術という由縁である。
 僕も、この手はめったに使わない。
 もっとも、僕はシリーズ構成と脚本を兼ねる事が多いから、ほとんど自分の本を直す事もないのだが……規模が大きくてシリーズ構成の一存で事が決まらないような作品の時は、たまにやってみようかなと考える事もある。

   つづく
 


■第97回へ続く

(07.04.25)

 
  ←BACK ↑PAGE TOP
 
   

編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.