色彩設計おぼえがき[辻田邦夫]

第178回 『輪るピングドラム』色彩設計おぼえがき その5 3.11その時……

北の海、オホーツク海沿岸に、今年も流氷が来ているようです。
流氷、これがね凄いんですよ! 僕はこれまで3回ほど、流氷見るためにこの時期の網走に行きました。ビッシリと海を埋め尽くす美しい白さ、海岸に打ち寄せ、すべてを閉じ込めてしまう氷の圧倒的な質量美。もうね、一度は皆さんも見ていただきたいのでありますね。こうして書きながら、ああ、今年なんとか行ってきたいなあ。もう前回から何年経った? 毎年ビミョウに行きそびれちゃってるのです。
そして、忙しければ忙しいほど、行きたくなる!(←逃避行動らしい)
さあて、実際どうなんだろ? ホントに行けるスケジュール的隙間はどこに?(汗)

さてさて。
3月11日午後2時46分。3話の美術打ち合わせが終わって僕は、スタジオ近所のフレンチで遅めのランチ。ちょうど食べ終わってお店のオーナーと談笑していたその時でありました。ゆっくりと長めの揺れが始まって次第にその揺れ幅が大きくなっていきました。滑り落ちて砕けるワイングラス、棚から倒れ落ちて割れるワインボトル。オーナーに言われるがまま道路に出た僕が見たものは、信じられないくらいにゆわんゆわんと揺れる電信柱でありました。直下型ではない大きな振幅は、とっさに千葉沖、茨城沖震源を予想しました。あるいは東北か? まだ続く揺れの中、手元のiPhoneでtwitterからの情報を確認。東北沖震源、東京は震度5強(のちに5弱に訂正)。東京に生まれ育って48年近く、初めて体験する規模の大地震でありました。
大きな揺れがおさまったところで急ぎスタジオに戻りました。まず心配だったのが僕の機材です。商売道具のEIZOの24インチモニターCOLOREDGEが倒れてないか? まずそれが心配でありました。スタッフルームはビルの4階。これまで割と小さな地震でもイヤな感じに大きく揺れてたフロアなので、なおさら被害が心配でした。さすがに地震の直後なのでエレベーターは無理。階段を使って4階へ。案の定、スタッフルームはかなりの惨状。「実家と電話がつながらない」とパニックになっていた東北出身の制作の女子を落ち着かせつつ、スタッフルームを見回すと、作画机の上に積み上げてあったカラーボックスは気持ちよいくらいにキレイに床に落ち、やたら見通しがよくなっていたのが鮮明に記憶に残っています。床に散乱する原画やタイムシート、設定のコピーを拾い上げ片づけているスタッフたち。ほぼ南北方向に揺れたため、北向きあるいは南向きに設置していた机の上の棚は壊滅的に落ちてました。幾原監督、山崎助監督、演出の金子氏の机もみんな北向き配置でもうぐっちゃぐちゃの惨状。ちなみにその時幾原監督は、脚本の伊神さん、助監督の山崎さんらと駅前のお店「馬車道」で「本読み」の真っ最中だったとのこと。
幸いなことに僕の机周り、機材にはなんの問題もナシ。すぐさまインターネットで情報収集、パソコン外づけのラジオからNHKの放送を流し、家族あてにメールして安否確認。そこへまた大きな余震。制作プロデューサーらと共に一旦部屋から避難して、おさまったところでまた部屋へ。と、その時ラジオから聞こえてきた単語に耳を疑いました。「高さ10メートルの津波が……」え? そして後藤圭二さんの机のテレビの画面には、濁流に押し流されていく街の映像が……。

その翌日から数日の間、現場はそれでも細々と制作作業は続いておりましたが、「当分の間、できるだけ自宅で作業をお願いします」との制作プロデューサーからのお達しもあり、メインスタッフもそれぞれ自宅作業中心で、打ち合わせの時だけスタジオへ、という状況でした。僕も同様に自宅作業中心の日々。でも正直、実際には仕事など手につかず、毎日まさに洪水のように流される悲惨な災害の映像に気持ちの深いところまでスッカリやられてしまっておりました。あれは心底危険だと思いましたね。知らず知らず映像が心の深いところにすり込まれていき、気持ちを浸食していく。映像に携わる業界のその端くれに身を置く者として、こういう状況はいろんな意味で気をつけておかなければ! と、肝に銘じたものでした。
ともあれ、スッカリやられてしまった僕でありました。仕事しようとか、アニメ作ろうっていう気持ちが根こそぎ持っていかれてしまったのは事実。なんというか、ああいう現実の映像を突きつけられちゃうと、架空のお話、映像を作ることに疑いすら持ってしまい、それからずいぶんの間、映画を見たいとか一切思わなくなってしまったほど。でも、これじゃヤバイ! とにかく日常を、と。僕にできることは何かと問われれば、アニメ作ることだけなのだよね。とにかく今までどおりにひとつひとつ毎日仕事を続けていくこと。それしか僕にはできないし、そうすることがきっとイチバン世の中の役に立つことである、そう言い聞かせていたのであります。

多少落ち着いてからいろいろ思ったんですが、ああ、これが昔のように絵の具での作業だったら大変な状態になってたよな、と。たぶん絵の具瓶とか割れて散乱し、絵の具がそこら中に流れ出して……。考えるだけでゾッとします。で、思い出したのが、もう今から20年くらい昔のこと。TVシリーズの『北斗の拳』など東映動画の作品を多く請け負っていた鈴木動画企画という仕上げの会社が千葉にあったんですが、そこがちょっと大きめな地震にやられて絵の具の大瓶の保管棚が倒れ、大量のセル絵の具の大瓶が割れて大損害ということがあったのです。ただ現代は何をするにもすべて電気。電気ナシにはパソコンが使えず、電気ナシには画像1枚見られません。この電力問題がまた僕らに打撃を与えます。
そんなわけで、三鷹のスタジオへは打ち合わせやチェックがある時あわせでピンポイント的に通う感じでありましたが、そこへ今度は『計画停電』というさらなる試練が。自宅のある中野は停電回避の地区であったのですが、スタジオはシッカリ計画停電の対象地域に指定されておりました。なので否応なく日中は稼働時間が制限されるわけで、往々にして夜型の作業へと移行していくことに。でも実際のところ、計画停電地域ではあったものの結局一度もスタジオは停電にならなかったようで、その東電や政府の対応の悪さにもイライラするというそんな日々でありました。

それにしても、放送中の作品に関わっていなくってよかったと、さすがに思ってしまいました。聞けば、報道編成で放送自体延期休止になった挙げ句、作品によっては内容の手直しが必要になったりしたところもあったようで、なおかつこの計画停電。通勤にすら支障が出ていたスタッフもいたらしいですし、修正するにせよ新たに作るにせよ、かなり苦難な時期でありました。『輪るピングドラム』はスケジュールがないと言いつつも、まだまだ放送は4ヶ月先だったので、その頃にはだいぶいろんな意味で世の中も落ち着いているだろうし、と。ただ、3月の大きなアニメ関係イベントで、僕らの『輪るピングドラム』が最初に世に出るコトになっていたのですが、結局それらもすべて中止となって、何となくちょっとだけ先行き不安に感じてしまっていたのは事実でありました。
結局のところ3月11日以降の3月中は、美術ボードのチェックが2〜3回、キャラ色のチェックが1回、CG打ち合わせが1回、そして演出打ち合わせが2本分。それがすべてでありました。
そんな2011年の3月でありました。

第179回へつづく

(12.02.14)