色彩設計おぼえがき[辻田邦夫]

第68回 昔々……(45) 『DRAGON BALL Z 極限バトル!!三大超サイヤ人』と、母との最期の日々

最近うちの奥さんが悪夢に悩まされてる、とのこと。訊けば、僕が何かの新興宗教にはまって帰ってこなくなった、という夢らしいのです。

「で、僕は教祖様かなにかなの?」

「いや、たんなる下っ端」

あ、そうですか(苦笑)。

「で、なんだか白衣みたいの着てなんか作ってる」

ううむ……(苦笑)。

それってさあ、アニメ作ってるのかなあ? 確かに最近朝帰り続いてるしなあ(汗)。

謎です。

さてさて。

1992年。自分の仕事年表を見てみると、この年僕は実に3本の劇場用作品に関わり(うち2本がこの年公開)、1本のビデオ作品を完成させ(『Cryingフリーマン 戦場の鬼子母神』、どういうわけだったかTVシリーズの色指定を1話分だけ担当し(『DRAGON QUEST ダイの大冒険』)、ちょっぴりバイトでNHKの『みんなのうた』の何本かを頼まれてやって……と、実にいろんな仕事をさせてもらった年でありました。

たぶんね、この前年、そしてこの年あたりからですね、参加させてもらえる作品が増え、ドンドン仕事量も増えていき、そしてほぼ同じテンションで今日に至ってる。そんな流れの始まりの年だったように思います。

そんな1992年、2本目の劇場版『DRAGON BALL Z』は、夏休み公開の『DRAGON BALL Z 極限バトル!!三大超サイヤ人』でありました。監督/菊池一仁、作画監督/前田実、美術監督/長崎斉、60分の作品であります。

この頃は毎年、春休みと夏休みの時期に合わせて「東映アニメフェア」として3本ほどの劇場用作品をまとめて上映しておりまして、この『DRAGON BALL Z』もそんな中の1本でありました。ちなみにその時の同時上映作品は、『DRAGON QUEST ダイの大冒険 ぶちやぶれ!!新生6大将軍』と『ろくでなしBLUES』……憶えてないなあ(苦笑)。

春の劇場版の公開から夏までは4ヶ月。正直あんまりスケジュールに余裕はありませんが、もうこの頃には、こういう短いスケジュールでの劇場用作品の作り方に、スタッフもだんだん慣れてきてしまっておりました。今回も仕上げ作業は、余裕のあるうちはマニラのスタジオに発注し、後半はやはり韓国のプロダクションに動画+仕上げで作業をお願いする、という流れです。

まあご多分に漏れず制作スケジュールは順調に遅れて(苦笑)、やはり韓国のプロダクションにお願いしていく分量がドンドンと増えていくことに。前回にも書きましたが、韓国のプロダクションにお願いする=太陽色彩絵の具、であります。春の『DRAGON BALL Z』の反省も踏まえて、少しずつ準備をすすめて行きましたが、考えれば考えるほど、絵の具の置き換えをして換算色指定を作れば作るほど、太陽色彩の色とSTAC絵の具との溝が大きく開いていきます。「いっそ、全部太陽色彩色で作れればどんなに楽か!」と。僕の頭の中にはそんな葛藤が常に渦巻いていたのでした。

そんな時機であったのですが、その頃、僕の家族にひとつの大きな出来事ありました。僕の母の死、であります。春先にガンで入院していた母が、この劇場作品の制作の佳境である6月初めに亡くなったのでした。

連日、まず午前中に母の病床に顔を出し、昼にスタジオに入って仕事。夜の面会時刻終了までにもう一度病院に赴き、そのあとまたスタジオに戻って朝方まで。そんな日々が続いていたのでした。

結局6月初めのある日の未明、母は帰らぬ人となりました。通夜葬儀の2日間だけお休みをもらい、あとはずっとこの劇場版の色指定と検査。良くも悪くも、この劇場版の制作の中では僕の代わりはいないのであります。それがこの仕事であります。そんなこともあって、実に淡々と仕事をしていった、という記憶が残っております。

どんな作品にもその制作にまつわる思い出っていうのはあるものですが、この『DRAGON BALL Z 極限バトル!!三大超サイヤ人』の思い出は、そんな母との最期の日々の思い出と重なって、なんとも切ないものとなりました。

もうひとつ、悲しいことがありました。母の葬儀を終えたその夜、ひとつの連絡が僕の元に届きました。美術の椋尾篁氏の訃報でありました。

椋尾氏も長く入院されていたのは聞いて知っていたのですが、この同じ時期に逝ってしまわれたのでした。翌日営まれた通夜に僕も参列させていただきました。しとしとと降りしきる梅雨の雨が、その通夜の情景をにじませて、なんとも印象的でありました。

こんな1992年の上半期、僕が29歳の時のことでありました。そんな僕を待っていたのは、さらに大きな劇場作品、実に2時間ものの長編であったのでした。

■第69回へ続く

(08.10.22)