第75回 昔々……(46) 自分史上初の劇場用長編作品、始まる!
先日、ジーンズを1本買いまして……。
いつもはユニクロの3000円くらいのストーンウォッシュっぽいの履いてるんですが、結構くたびれてきちゃいまして。そしたら奥さんに「もうちょっと年相応なの履きなさい!」と。
で、まあ、ジーンズ専門店に行きまして某有名メーカーの「503」とかいうのをですね、買ったわけですよ。ちなみに8500円(税込み)。いままで履いてたヤツの3倍近いお値段ですね。ま、高けりゃいいのかっていうと、確かに違うんですけどね。ま、もっとも、さらにこの倍くらいするジーンズなんていっぱいあるわけで、一応僕なりに「年相応」ってとこでこの「503」に落ち着いたわけですな。
僕は、“ほぼ”日本人標準体型の45歳でありますから、当然のごとく、詰めるワケですよ、裾の丈、脚の長さを。
そりゃあもう、悲しいくらいですよ(泣)。切り落とした分、値引きして欲しいくらい(泣)。
先日も自宅のベランダで、奥さんのジーンズと並んで干されてる自分のジーンズみましてね、もうね、明らかに短いんですよ、脚が(泣)。なんかね、悔しい、よりも哀しかったですね。
で、ひとつ今回は「長めに」なるように、ちょっと手心加えて丈詰めお願いしたんですね。そしたらですね、どうもお店の丈詰め担当の方も「手心」を加えてくれちゃったのか、長い!
死ぬほど長いのかって言えば、まあそんなこともないのかも、ですが、ほら、よく若い人たちが長めの履いてるでしょ? あんな感じ。でも、そういう長いの履いたことないし、そういう履き方するには脚短めなので、足首のまわりにジーンズが溜まる感じがどうも気持ち悪いんですよ。
ああ、哀しいかな中年(泣)。哀しいかな日本人45歳(号泣)。
そんなジーンズ履いて、この原稿書いてるところでございます。
さてさて。
また少し、昔のお話を書いていきます。
『宇宙皇子 天上編』の制作が続いていた1990年の夏の終わり頃の話です。
東映動画の大泉スタジオの隣に「オズ」というショッピングセンターがありまして、その4Fの書店の脇にちいさなカフェみたいな店がありました。現在はもうなくなっちゃってるんですが、当時そこは東映動画のスタッフがよく利用する店でした。僕も週に1〜2回はそこで食事をしていたものです。
ある日、昼休みに僕が食事をしにその店に行くと、『宇宙皇子 天上編』の監督の今沢さんが食事をされていました。挨拶しつつ、ちょっと離れた席に座った僕は注文を終えると持ってきてた文庫本を読んでいました。すると食事を終えられた今沢監督が僕の隣にやってきたのです。
「実はね、キミにさ、お願いしたい仕事があるんだけどさ」
「はい」僕は文庫本閉じて今沢監督の言葉に集中していました。
「劇場作品をね、やることになってさ。それで、キミに色をお願いしたいんだよ」
「はいッ!」
「『遠い海から来たCOO』っていうの、知ってる?」
それが劇場用長編『Coo 遠い海から来たクー』の話を聞いた最初でありました。
「遠い海から来たCOO」。景山民夫氏の小説で、直木賞受賞作品であります。
海洋生物学者である徹郎とその息子・洋介は、徹郎の研究のため南太平洋のフィジー諸島に移り住んでいた。ある日、洋介が水上バイクで本島の学校へ向かう途中、砂浜に打ち上げられたアザラシに似た不思議な生き物の赤ん坊と出会う。自宅に連れ帰り父に見せる洋介。なんとそれは、太古の昔に絶滅したはずの恐竜プレシオサウルスの子供だった。そして「COO」と名づけられたその赤ん坊との生活が始まるのだが、そのCOOを狙って、洋介親子に危険がせまっていた……。
もう知ってるもなにも、実は僕はその著者である景山民夫氏の大ファンで、氏の著書はほとんど全部読んでいました。とりわけこの「遠い海から来たCOO」は僕の大好きな1冊で、ちゃんと初版本を持っていたのです。
『宇宙皇子 天上編』と同じ角川書店からのお話であること、予定では90分超の長編の劇場用作品になること、キャラクターは大倉雅彦氏、美術監督はまだ決まっていないこと(その後に山本二三氏に決定)、制作のスタートは『宇宙皇子 天上編』が終わってすぐになること、などなど、その時の僕は、静かに優しくゆっくり話される今沢監督の言葉を、内心メチャクチャ興奮して聞いていたのを憶えています。
僕自身、それまで長編の劇場用作品なんてほんのお手伝い以外やったことがなかったのですが、あの『999』や『ヤマト』みたいな「映画」にメインスタッフの一員として参加できることは、もうそれだけで嬉しいし、そしてそれが「COO」であるということ。もう、興奮せずにはいられません。
「はいっ!是非やりたいですっ!」
この2年間『宇宙皇子 天上編』をずっと頑張ってきて、そんな僕を今沢監督は評価してくれて、こうして声かけてくれたんだ、と。どんな仕事でもそうだけど、いい仕事をやり続けようとがんばっていれば、そして結果を残していけば、必ずちゃんと見ていてくれる人はいる。ずっと僕はそう思い続けてきて現在に至ってますが、これもそんなひとつだったんだな、と思います。
そして『宇宙皇子 天上編』が終わったところで、いよいよスタッフルームの立ち上げとなりました。1991年の年末のことです。
その頃の僕は『DRAGON BALL Z』の劇場版の仕事が入っていて(『DRAGON BALL Z 激突!!100億パワーの戦士たち』監督/西尾大介)、その作業の最後の追い込みとオーバーラップするように『Coo』に参加していきました。
で、最初の仕事。作品のイメージのスチール画を作るという仕事です。小説冒頭のあたりの名場面から2〜3点のスチール画を作って、どこかへのプレゼンか何かで使うというのです。
スタジオの一室で、まずは今沢監督と大倉氏と僕の三人で打ち合わせ。僕らの前には大倉氏の描いた原画がありました。主人公の少年がウォーターバイクで波を蹴立てて海上を走る躍動感あふれる絵柄であります。
ところが、そこに描かれていたのは日本人の少年・洋介ではなく、外国人、見るからに白人の少年の姿だったのです。
■第76回へ続く
(09.01.13)