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恩地日出夫監督 劇場版『地球へ…』を語る
第1回 「映画を撮りゃいいんだろう」と思った
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1980年に公開された劇場作品『地球へ…』は見るべきところの多い作品だ。監督は実写映画の恩地日出夫。まず、その映像が独創的だ。長回しの多用、驚くほどの枚数と秒数を使った歩きの描写、貝をモチーフにした宇宙船等。2時間もの映画でありながら、カット数は700程しかないそうだ。恩地監督のディレクションに対して、見事に応えた現場スタッフの頑張りにも注目したい。
長大な物語をまとめ切ったのも見事なら、青春映画を思わせる爽やかさが漂うところも興味深い。今回は『地球へ…』DVD化をきっかけに、恩地監督に話をうかがった。なお、記事中で何度か話題になっている「キネマ旬報」は1980年5月上旬号。恩地監督、原作者の竹宮恵子(現・惠子)へのインタビュー、メインスタッフの座談会等が掲載されていた。
●プロフィール
恩地日出夫
1933年1月23日生まれ。東京都出身。慶應義塾大学卒業後、東宝に入社し、夏木陽介主演の「若い狼」にて監督デビュー。東宝では青春映画「伊豆の踊子」「あこがれ」等を手がけ、フリーとなってからはTVにも活動の場を広げた。代表作としては「生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件」「四万十川」、TVドラマ「戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」等がある。TVドラマ「傷だらけの天使」には、メインディレクターとして参加しており、各話の演出だけでなく、オープニングも担当している。最新作は「わらびのこう・蕨野行」。
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●2007年4月18日
取材場所/東映ビデオ
取材・構成/小黒祐一郎
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―― 『地球へ…』については、あまり憶えてらっしゃらないとうかがいましたが。
恩地 そうなんだよ。あまり憶えてなくてね。だいたい何年前だったかなあと思ったら、27年前なんだね。この『地球へ…』と同じ日に、クロさん(黒澤明)の「影武者」が封切っているんだよね。銀座では『地球へ…』が丸の内東映で、クロさんのが日比谷映画で、(宣伝部が)どっちが客が入るかって競争してね。ちょっと『地球へ…』の方が多かったんだ(笑)。それで、岡田茂(当時の東映社長)が喜んだという事があった。
―― 恩地さんが『地球へ…』を監督するという話は、どこから来たんでしょうか。
恩地 これは、東映動画の田宮(武)君が持ってきたんだよね。それで、当時の東映動画の社長の今田(智憲)さんに会った。当時はまだ、プロデューサーが作家に頼むというかたちでの映画の作り方をしていた。最近のアニメは「コンテンツ」って言われているみたいだけど、俺はコンテンツと言われるのが嫌いでね。「コンテンツじゃないよ、これは作品だ」と言うんだけどさ、なんでああいう言い方をするようになったのかね。
一同 (笑)。
恩地 普通の映画でも、作品を商品として扱う傾向が強いんだけど、特にアニメの場合は、コンテンツとしての商品価値みたいな事が先行しちゃって、作家が作ってるという事が二の次にされてるような気がしているんだけどね。
思い出そうと思って「キネマ旬報」を引っぱり出して、インタビュー記事を読んできたんだけど、やっぱり田宮君達が、監督を誰でいくかを悩んで、結局僕のとこに来たらしい。
―― 『地球へ…』の前は、恩地さんはTVのお仕事が多いんですよね。
恩地 1980年公開という事は、僕は監督になって20年経っていたわけですよ。振り返ってみると、僕は60年に監督になって、60年代にはTVは一切やっていない。東宝という会社で、劇場用の映画だけを撮ってたわけね。それで、ちょっと詰まってきてた時に、1970年の大阪万博でドキュメンタリーを撮った。それで「ドキュメンタリーってのは凄いなあ」と思っちゃったんだよね。喩えるなら、缶詰しか食べた事なかったのが、初めて刺身を食って「何だこれは、美味いじゃないか!」と思ったような、そんな感じがあった。だから70年代には、TVばかりやっていた。最初はドキュメンタリーをやっていて、そのうちにドラマもやるようになっちゃった。その「万博」のドキュメンタリーを一緒にやったのが、萩元晴彦、今野勉、谷川俊太郎。彼らと一緒に仕事をしている最中にできたのが、テレビマンユニオンなんだよ。
―― そうなんですか。
恩地 僕がテレビマンユニオンで最初にやったのが「遠くへ行きたい」という番組だった。伊丹十三を引っ張り出して、リポーターをやらせたのが俺だったんです。それで79年に「吉展ちゃん事件(戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件)」というのを撮ったわけね。これはドラマを、ドキュメンタリーと同じように考えて、一切フィクションを使わないで撮った。ただし、役者を使ってやるわけだから、ドキュメンタリーではなく、作り物なわけだよね。それが評判よくて、色々と賞を戴いたりした。それで「次は何やろうかな」と思っている時に、アニメの話が出てきたんだよね。
―― アニメの監督の話がきたのは、ご自身にとって、かなり意外な事だったんですね。
恩地 そうなんだ。でも、俺は色んな事をやりたい人だから。振り返ってみると、80年代にはアニメだけでなく舞台もやっているんだよね。それから、TV番組の司会なんかもやっちゃったりしてね(笑)。色んな事をやったのが80年代で、90年からまた映画に戻った。それ以来、劇場用映画ばかり撮っている事になるんだ。でも、そんなふうに色々やった事が、今の映画の俺の撮り方につながってる事は確かなんだ。この間、時代劇を撮ったんだけど、「これはドキュメンタリーだと思って撮るぞ」と言って撮ったんだ。アニメを撮った事も、舞台をやった事も、ドキュメンタリーやった事も、作品を作るという意味では同じなんだ。そういった積み重ねの中で、今の俺の作り方があるというふうになってきたんじゃないかなあっていう気がしている。
―― なるほど。
恩地 あ、勝手に喋りすぎちゃったかな(苦笑)。
―― いえいえ。なんだか、いきなりまとめっぽくなっちゃいましたけど。
一同 (笑)。
―― アニメの作業を始めて、当惑されるような事はなかったんですか。
恩地 当惑はしなかったんだけど、全然知らなかったから、どうやっていいのかが分かんないんだよね。ただ、映画は20年やってきてたから「映画を撮りゃいいんだろう」とは思っていた。脚本作りは、まるで問題なかったんだよ。問題があったとすれば、原作の連載が始まったばかりだった事くらいで。
―― 始まったばかりという事はないんじゃないですか。ある程度は進んでいたんじゃないですか。
恩地 いや、脚本を作り始めた頃は、ほとんどなかったよ。だから、竹宮惠子さんと話をした時も、ラストシーンをどうしようかというところから始まったわけだ。勿論、彼女には、最終回までのプランはあったわけだから、それを聞いて進めていった。内容に関しては、全く揉めなかったんだよ。最初に会った時に、2人とも気があっちゃったのかな。
原作に対して批判して、脚本を作るっていう作り方もあるわけです。俺が3本目に撮った「素晴らしい悪女」(1963年)というのは、石原慎太郎の原作だったんだけどね。もうメチャメチャに原作を変えて作っちゃって。完成した後、石原さんが試写を観にきて、10分で怒って帰っちゃったという作品だった。
―― (笑)。
恩地 そういう場合もあるんだよね。だけど、この時は、俺は竹宮さんの考え方に対して、反発したり、批判的だったりという事はなかったね。
―― ストーリーとか、モチーフみたいなものに共感できたんですね。
恩地 できた。モチーフというか、テーマに共感できたというかね。『地球へ…』というのは、地球の最後の日についての話だけど、僕はそういう設定に対する共感があったんですね。いい例が、ジェームス三木というシナリオライターを知ってる? シナリオコンクールで入選したのがきっかけで、彼はこの業界に入ってきたんだけど、そのコンクールで入選したのが「アダムの星」というシナリオだった。それがどういう話かというと、地球が最後の日を迎えて、男と女を1人ずつロケットに乗せて地球から発射する。男と女がいれば子孫ができるから、人類は残るだろう。俺は、それを映画にしようとして、東宝で動いた事があるんだよ。
だから、地球が駄目になって人類が変わっちゃって、ミュウが生まれて……という発想は僕にとって、自然だったというか、ありそうな話だと思えた。それまで日常的なリアリズムで映画作ってきたから、僕の映画を観てきた人は、SFを異質の世界だと思うかも知れないんだけど、「アダムの星」をやりたいと思ったくらいだから。
―― 実際に、ジェームス三木さんのシナリオを映像化しようとしていたんですね。
恩地 やりたいと思って、東宝に企画を出したんだ。東宝も話に乗って、ハリウッドと合作しようという話になったんだけど、話が大きくなりすぎちゃって、その企画は実現しなかったんだ。そんな事があったくらいだから、この作品のテーマには、凄く賛成できた。ただ、「キネマ旬報」のインタビューで竹宮さんが話しているけど、俺は人間にこだわってるわけね。やっぱり人類がどうなってくかという事に興味があって、ミュウも人間のひとつのかたちなのではないかという意識があった。竹宮君は感覚的にミュウのほうがいいと思っていて、人間がミュウという別の存在になってもいいんじゃないの、という考えがあった。その辺はちょっとズレがあったね。だから、映画の後半はキース・アニアンの比重が大きくなっていると思う。
―― なるほど。
恩地 例えばミュウが正しくて、人類が悪だというふうにはしたくなかったわけね。勧善懲悪で、善が勝って、悪が負けるという話にだけはしたくなかったんで、その辺はちょっとこだわった。だから、敵対してるけどキース・アニアンも悪ではないと。キース・アニアンもジョミー・マーキス・シンも仲間同士じゃないかと考えた。キース・アニアンは撃ちたくないけれど、ジョミーを撃ったというふうにしたいというのはあった。
―― ラストシーンも、ミュウと人類が和解した事を示して終わりますよね。
恩地 そう、ミュウも人類も一緒だっていうね。大体の俺の映画って、どっちが良くてどっちが悪いって決まらないんだよね。例えば娼婦でも、どっかにキラッと光る美しいものを持ってんじゃないかとかね。善と悪がはっきりしていて、善が悪を征伐してめでたしめでたしという話だけは撮りたくない。他の映画でもそうは思っていたけれどね。
―― 物語の構成については、後でまたうかがわせてください。制作現場のほうはいかがでしたか。
恩地 まずね、人物の顔を撮すと、背景は壁になるはずなんだよね。だけど、必ずY(天井の縦横線と柱の線によってできるYの字)が入るんだよ。つまり、人の顔の後ろの背景に、天井の角が入ってくるわけね。なぜかっていうと、それで遠近感を出しているんだよ。だけどさ、普通映画撮る時にさあ、そんな天井入れてたり、上からのアングルで撮ったりはしないんだよね。だから、あらゆるアップのカットで、背景が天井だというのは、凄く不自然だったわけ。
それで「それは違うんじゃないか」というとこから始まったんだよね。そう言うと、アニメ現場のスタッフは「ええっ!」って驚くわけだよね。監督が持つアングルファインダーを、現場に持ってって、まず、笠井君(アニメーション演出の笠井由勝)に「お前、覗いてみろ」と言ったんです。それで「顔を撮ったら、後ろにYが入るか」と聞いた。そうしたら「なるほど、入んない」と。そんな事から始まりましたねえ。美術は『龍の子太郎』をやった土田(勇)君で、彼は日本画が好きで、こういったリアルな作品は嫌だと最初は言っていたらしいんだけど、話をしているうちに段々ノってきちゃった。結果としては凄くいい仕事をしてくれた。
それから、デザインの打ち合わせに、アニメと関係ない俺の友達を呼んだわけ。デザイナーの粟津潔と、建築家の竹山実、それと俺の映画で美術やってた薩谷和夫。その3人を、大泉学園の東映動画のスタジオに呼んで、スタッフと一緒に「宇宙船って、どういうかたちをしているんだ」とかって話をした。例えば竹山なんかは、スタッフに「申しわけありませんけど、角砂糖買ってきてください」って言うわけよ。で、スタッフが角砂糖買ってくると、角砂糖を積んだり、平らに並べたりして。「うーん」とか言って、それを見ているんだよ。粟津は粟津で、拡大鏡で活字を拡大して見たりとかね(笑)。そんな事ばっかりやってんだよ。薩谷は映画の美術やってるから、少しは分かるような感じで話をしていたけど。そんな事を、半日やっていて、宇宙船のデザインが生まれていった。
―― その方達が参加したディスカションの中で、あの独創的なデザインが生まれたんですね。
恩地 うん。粟津潔っていうのはね、俺の映画のタイトルバックやってたんだ。さっき言った石原慎太郎の「素晴らしい悪女」のタイトルバックは、手だけが写っている。親指の付け根だけのクローズアップとかね。それが凄くエロチックだったりするわけよ。「あこがれ」という青春物の時は、真上から凄いクローズアップで花を撮ったりとかね。そういう奴らに、突拍子もない意見をさんざん言わしたんだ。それで、色々と話しているうちに海底をイメージしようという事になって、土田君達が貝とか海底とか、そういったイメージを出してきた。あの宇宙船は貝なんだよね。
宇宙船だからといって、尖っていて羽根がついているようなものでなくてもいいだろう。SFで戦争ものだと必ずこうなる、という既成のイメージをどけて考えてみよう、というところから始めてみたんだ。そんなやり方で進めさせてくれた田宮は、いいプロデューサーだったんじゃないかという気がするね。
●恩地日出夫監督 劇場版『地球へ…』を語る 第2回に続く
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[DVD情報]
「竹宮惠子DVD−BOX」
DSTD02698/片面1層(一部 片面2層)カラー256分(本編)、4:3 (一部 16:9 LB)、封入特典、映像特典
収録作品:『地球へ…』、『夏への扉』、『アンドロメダ・ストーリーズ 』
価格:12,600円(税込)
発売日:2007年6月21日
販売元:東映アニメーション株式会社
[Amazon]
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「地球へ…」DVD
DSTD02696/片面2層カラー112分(本編)、16:9 LB、映像特典、ピクチャーレーベル
価格:4,725円(税込)
発売日:2007年6月21日
販売元:東映アニメーション株式会社
[Amazon]
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(07.06.18)
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