インタビューの一部を抜粋
本文抜粋 その5 第18回 細田守
—— アニメ界に入ったきっかけが『少年ケニヤ』だそうですが。
細田 そうなんですよ。当時、アニメ雑誌を見ていたら、『少年ケニヤ』でアニメーター公募というのがありまして。
—— (笑)ヘンな企画だね。
細田 今から思えば妙な企画なんですけど、当時は「これだ!」と思ったんですよ。
—— これに応募すればアニメーターになれるんだって。
細田 僕も業界の仲間入りかも、みたいなね(笑)。しかも、劇場作品で原画をやらしてもらえる。これは凄いって。
—— その時、細田さんは幾つだったの?
細田 高1ですね。で、その応募要項をみると、自分の作ったアニメのフィルムを送れって書いてある。
—— とてつもない企画だなあ(笑)。その時に、細田さんはアニメを作ってたんですか。
細田 中学生の時に、NHK教育の「YOU」っていう番組で自主アニメ特集というのがありまして、それに影響されて作りました。それまでは、アニメって単に観るものだと思っていたんですよ。あくまで観るモノで、作るためには、組織とシステムがいるみたいな。とても個人では作れそうにないと思っていたんだけど、その番組を観るとメチャクチャ楽しそうに作ってるんですよね、あれ。
—— 学生さんとかが。
細田 それで衝撃的だったのは、自分と同じ中学生がアニメを作ってたんですよ。あ、作ろうと思えば作れるんだ、しかも、楽しそうじゃないかと思って。それじゃあ、作ってみようかなと思って作ったんですよ。
この後に色々あって、細田さんは東映動画(現・東映アニメーション)に入ります。具体的な話は単行本でどうぞ。美大時代のエピソードも語られています。この取材は、彼の代表作となった『デジモン アドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』制作中に行われました。『ウォーゲーム!』についての話題も出ていますよ。
本文抜粋 その6 第24回 吉松孝博
—— 吉松さんは、実は今までオリジナルのキャラクターデザインは、ほとんどやってないんじゃない?
吉松 ハハハハハハハッ(パンと手を打つ)。そうなんですよ。
—— 今思ったけど、『ダンクーガ』ぐらい?
吉松 そうそう。そろそろ自分のオリジナルキャラで作品を作らなければいけない時期にさしかかってきてるのかなあと思っているところに、運良くそういう話がきまして。現在、その作品に関わっています。
—— タイトルは、もう公表できるの?
吉松 タイトルは『学園戦記ムリョウ』。今の段階で言える事は来年の4月放送開始予定で、マッドハウスが制作、監督が佐藤竜雄。それから、作監・キャラデザが吉松だっていう事くらいかな。
—— 今までは、他の人の原作やキャラクター原案のある作品に参加してきて、ストレスが溜まっていたとか。
吉松 うーん。ストレスって言うほどでもないですけどね。やっぱり、基があった方が、楽っちゃ楽ですしね。ただ、オリジナルでやりたいという気持ちもなかったわけじゃないんです。
—— 今までオリジナルキャラは、小出しにしてたわけだよね。『サイバー』のブリード加賀とかさ。次の作品のキャラクターも、シャピロのような、ブリード加賀のようなラインなの。
吉松 いや、それが実は……質素な(苦笑)。質素というと言葉が変だけど、あんまり濃い系のキャラという感じではないんだよね。それは佐藤さんのオーダーもあるんですけど。非常に普通な感じの少年少女の活躍するアニメになると思いますけど。
「サムシング吉松の死んぢゃえばいいのに!」でお馴染みの吉松孝博さんの取材記事。吉松さんの記事は、原画マンに成り立ての頃の「若気の至り」の話も面白いですよ。
本文抜粋 その7 第26回 黄瀬和哉
—— 高校卒業後はアニメ関連の専門学校に?
黄瀬 えーと、入学だけしました。4日で辞めちゃいましたけど(苦笑)。
—— そうなんですか(苦笑)。
黄瀬 そこは、あまりアニメーションの事を教えてくれなかったんですよ。その頃にアニメアールが大阪にあるという事を雑誌で知って、それでアニメージュ編集部に手紙を出したら、編集長だった尾形(英夫)さんがアールの住所を書いたハガキを下さったんです。
—— 「アニメアールの場所を知りたいです」という手紙を「アニメージュ」に出したんですか。
黄瀬 ええ、そうです。それでアニメアールの場所が分かって、入る事ができたんです。アールは谷口(守泰)さんと村中(博美)さんの二人が主宰していたスタジオで、僕は村中さんに師事したんです。沖浦(啓之)や逢坂浩司君も、ほぼ同時期で入ったんですよ。
—— うわあ、濃いメンバーですね。
黄瀬 今、考えると、かなり濃かったですね(苦笑)。沖浦は歳下だったんですが、彼は最初から巧かったもので、仕事しながら触発され続けました。
—— 初原画は何になるんですか。
黄瀬 『キャプテン翼』かな?
—— 意外なタイトルですね。初作監は?
黄瀬 初作監は『(赤い光弾)ジリオン』です。アイジーの石川(光久)社長とは、その頃からの付き合いですよ。
—— アールには、いつまでいらっしゃったんですか。
黄瀬 アニメアールは、アールとスタジオ・ムーというふたつの組織に分離したんです。その時に僕はムーの方に入って、それで大阪でやっていたのが23歳までですね。18歳から5年間、大阪でやっていました。『(機動警察)パトレイバー』の最初のビデオシリーズまでは大阪でやって、その後『パトレイバー』の劇場をやる事になって、東京に呼び出されて。押井(守)さんとよく仕事をする事になって……それで現在に至る、ですね(笑)。劇場『パトレイバー』以降は、ずっと石川さんのところでお世話になっています。
黄瀬さんの記事は、相当に作画マニア向けのマニアックなものになりました。「どうして劇場作品を3コマでやろうと言ったんですか?」「劇場『パトレイバー』の時って、制作現場では高田明美さんのキャラクター設定を使っていたんですか?」なんて質問もありますよ。レイアウトやアニメのリアルについても話題になっています。