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「アニメラマ三部作」を研究しよう!
 山本暎一インタビュー 第1回

 以前にも「編集長のヒトコト」で触れたが、虫プロダクションは『千夜一夜物語』(1969年)、『クレオパトラ』(1970年)、『哀しみのベラドンナ』(1973年)と、3本の「大人のための」劇場アニメーションを作っている。3作とも、非常に意欲的な内容であり、アニメ史においても重要な作品である。にもかかわらず、エロチックな部分が多いためか、ほとんど振り返られる機会がなかった。
 今回のDVD化のお手伝いをさせていただき、改めて資料をチェックし、また、スタッフに話を聞く事ができた。それは予想以上に興味深い内容だった。ここで、その成果を発表していく
。まずはこの3作で監督をつとめた山本暎一のインタビューから始めたいと思う。
 なお、インタビュー中で話題になっている「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」は、1989年に新潮社より発行された山本暎一の自著。虫プロダクションの第1回作品『ある街角の物語』から『哀しみのベラドンナ』までを、主人公・安仁明太の目を通して描いた自伝的な小説。「日本アニメーション映画史」は1977年に有文社から発行された研究書だ。すでに四半世紀以上前のものだが、草創期からの日本のアニメーション歴史をまとめた、現在でも唯一の書籍。アニメ研究家必読書籍のひとつだ。

2003年11月25日
取材場所/神奈川・関内
取材/小黒祐一郎、原口正宏
構成/小黒祐一郎
協力/コロムビアミュージックエンタテインメント、虫プロダクション

  PROFILE
山本暎一(YAMAMOTO EIICHI)

 1940年(昭和15年)11月22日生まれ。京都府出身。高校卒業後、横山隆一が主宰するおとぎプロに入社。1960年、手塚治虫のもとを訪ね、翌年の虫プロダクション創設に参加。同社の第1回作品『ある街角の物語』では坂本雄作と共同で演出をつとめ、続く『鉄腕アトム[第1作]』に演出・作画として参加。『ジャングル大帝[第1作]』ではチーフディレクターとプロデューサーを兼任した。『千夜一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』では、いずれも監督(『クレオパトラ』は手塚治虫と共同)。虫プロ倒産後は、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ等に関わり、牛山純一の下でTVドキュメンタリーの監督も手掛けている。最近は、また、『宇宙戦艦ヤマト』復活の話もあり、チーフディレクターとして活躍中。


── 山本さんは、著書の「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」の中で、御自身のおっしゃりたい事はほとんどおっしゃってると思うんですけど。
山本 ええ。当時の言いたい事はね。今はちょっと違うんですけど。
── あ、違うんですか(笑)。
山本 違うというか。別に言いたい事が、多少あります。
── で、今回の取材は、「虫プロ興亡記」はすでに読んでるものとして、その上で話をお聞きしたい、と思います。
山本 作品を作っている時の様子は、全くあの通りですよ。それはあの本に非常に詳しく描いてあると思う。
── ええ。特に『千夜一夜物語』での制作現場の大変さなど、この本で初めて知りました。先にちょっとこの本の事を伺ってよろしいですか。山本さんが「安仁明太」という名前になっていたり、登場する関係者や会社の名前を一部変えたりしてますよね。これは、なぜ変えたのでしょうか。
山本 現存する人がいますからねえ。まあ、そういう人に不利益にならないようにしたんです。何しろ、けなしてる人もいますから。
── そうですね。御自身の名前が「安仁明太」になってるのは、何かロマンチックな理由があるんでしょうか。
山本 (プライベートな部分に関して)事実と随分変えていますから、名前も変えたんですよ。
── 文中で、「メーさん」ていう愛称で呼ばれてるじゃないですか。実際の名前は暎一さんだから「エイさん」とか呼ばれてたんですか。
山本 「暎一さん」なんです。本当はね、この本のタイトルは「アニメーター 安仁明太の青春」だったんです。長いからって、その「アニメーター」を取られちゃったの(笑)。
── あ、そうなんですか(笑)。やっぱり「安仁明太」という名前は、ちょっと洒落みたいな。
山本 そうなんですよ。
── プライベートの部分は、ちょっとフィクションなんですね。
山本 その辺は、まあ、本当のところもありますけども、違うところもあるんです。
── 恋愛のエピソードも印象的ですよね。
山本 この本の中で、最後に僕は子供ができないまま、離婚するでしょ。
── はい。
山本 実際には子供は2人いるんですよ。
── ああ、そうなんですか! そのあたりはフィクションが……。
山本 だから、その辺は違うんです。
── じゃあ、あのルミちゃんは?
山本 バーの女の子? あれはフィクションです。
── えー。フィクションなんですか(笑)。
山本 あれは全くいないです。
── なんか、夢が崩れたような(苦笑)。僕ら、あのあたりは、いくつかの事件を一つにまとめたのかと。
山本 いや、もう、全くいないです。おとぎプロを辞めた後、アパートには弟がいたんですよ。そこへ、女の子を連れてくって事はありえないですよ(※編注:「虫プロ興亡記」の冒頭で初めて手塚治虫と出会った夜に、主人公の安仁明太は、ヒロインのルミを自分のアパートへ連れて行く)。
── (笑)。
山本 そこから始まって……(思わず吹き出す)北海道の話は全部、嘘です。
── あ、そうなのかー!(※編注:『哀しみのベラドンナ』制作中の、北海道でのルミとの再会が、「虫プロ興亡記」のクライマックスである)
山本 北海道へ初めて行ったのは、『哀しみのベラドンナ』が終わった後の、ドキュメンタリーの取材です。
── 『クレオパトラ』の後に、エジプトに旅行されたのは本当なんですよね。
山本 そうです。エジプトには一度行っています。
── なるほど。やっぱり聞いてみないと分かんないですね。僕ら側の事情をお話しますと、この「日本アニメーション映画史」という本があって、長年僕らはこの本の記述を信じていたんですね。その後、山本さんがお書きになった「虫プロ興亡記」が出て。「あれ? 随分違うぞ」と思ったんですよ。特に『哀しみのベラドンナ』の再制作のいきさつに関しては、「日本アニメーション映画史」だと、試写の段階でヘラルドからリテイクするように指示されて、3分の1を再制作したとありますが、「虫プロ興亡記」ではそれは計画的な事で、試写でかけられたのはダミー版だったとありますね。
山本 そうなんです。虫プロの資金繰りが非常に厳しい時期だったんで、まずダミー版を納品して、それで、まずいところは後でリテイクで直そうという事になったんですよ。だけど、虫プロの幹部が、納品した後に「直さない」と言ってきたんですよ。それで「話が違うじゃないか!」と揉めたわけです。それで、ヘラルドの原(正人)さんという人に泣きついて、直させてもらったんですよ。
── そのダミーのために描かれた分も、全部が止め画だったわけではなくて、一応、動いてはいたんですよね。
山本 いえ、止め画です。
── 全部、止め画だったんですか。
山本 ええ。
── そうなんですか。他の作品で言うと、線撮りの画のまま上がってしまったみたいなものだったんですね。
山本 そうです。
── とりあえず上がったダミー版に、後で画を差し変えていったわけですね。先にダミー版を見せるというのは、ヘラルド側には話は通ってたんですか。
山本 最初、ヘラルドは知らなかったと思う。後から言ったわけですよ。虫プロがリテイクをしないという話になったんで、これは大変だと思って「実は、あれはダミーだ」と言ったわけです。
── 「日本アニメーション映画史」ではヘラルドの社長さんが、最初のバージョンを観てわけがわからないと言って、それでリテイクされた事になっていますが。
山本 それは全く違いますね。
── 途中でリテイクするかどうかが問題になった事は別にして、ダミー版を一度納品して、後から画を差し替えて完全版にするというのは、当初の計画通りだったんですね。
山本 ええ。そもそも、虫プロが最初に作った『千夜一夜物語』と、ふたつ目に作った『クレオパトラ』が「アニメラマ」っていうんですよね。当時、シネラマという、バカでかい映画があったわけですよ。それを真似て「アニメラマ」にした。それとアニメーションにドラマを入れて、アニメーション・ドラマですね、アニメーション・ドラマを「アニメラマ」と呼ぼう。それで『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』の2本を作ったわけです。この2本は、まあ言ってみれば、一般向けなんですよね。その頃、日比谷の芸術座かな。あそこに『イエロー・サブマリン』が来たわけですよ。で、「次はあれみたいなやつを作ろう」と言って、やったのが『ベラドンナ』なんですよ。
── あっ、そうなんですか!
山本 アニメラマよりも、もうちょっと高級な内容の、だけど制作費は少ない路線を。2つの路線を作ろうという事になったんです。だから『ベラドンナ』というのは、『イエロー・サブマリン』の路線なんです。そこが「アニメラマ」とは、ちょっと違うんですね。
── アニメラマがワイドスクリーンだったのに対して、『ベラドンナ』はスタンダードですよね。そういう意味でも、『ベラドンナ』は小品みたいな感じで作ろうという企画だったんですね。
山本 うん。
── 上映する劇場も、全国区じゃなくて、ある程度絞って、みたいなかたちに。
山本 劇場そのものは全国区だったと思いますけどね。ただ、『千夜一夜物語』みたいな拡がりはなかったと思います。
── すいません、ちょっと脱線してしまうんですが。皆さん、当時『イエロー・サブマリン』をご覧になって、インパクトを受けたんですか。
山本 当時としては、非常に難しい映画だったから、『ベラドンナ』をやった人達がみんな観ているとは思えませんけれども。ただ、僕なんかは「ああ、いいな」と思いましたけどもね。
── 実際『ベラドンナ』にも、シーンによっては、かなり影響を受けてるところがあると思うんです。魔王とベラドンナが契った後の、色とかグラフィックなデザイン感覚などがそうですよね。山本さんとしては、『イエロー・サブマリン』のどんなところに感銘を受けたんですか。
山本 やっぱり全体に良かったですよね。『イエロー・サブマリン』は、『ベラドンナ』を作るきっかけにはなりましたけれど、作品としては全然影響を受けてないですよ。全く別のもの、ですからね。
── 『イエロー・サブマリン』は、こういったタイプのアニメーションが劇場で公開できる可能性があると、考えるきっかけになったという事ですね。
山本 そうです。今だと、そんなに珍しくないかも知れないけど、『ベラドンナ』は当時としては画期的に、実験精神の旺盛な作品なんですよ。
── いや、今観ても、とんでもない作品ですよ。この前もイベントで、若い人達に観せたんですけど、みんな驚いてました(笑)。
山本 (笑)。例えば、悪魔がベラドンナにせまるところなんかね、部分的に波ガラスがかかるとこがあるわけですよ(※編注:ベラドンナにのしかかる悪魔にだけ、波ガラスの揺らめきの効果がかかっている)。あるいはサバトのところで、延々とパンをするところがある。あれはセルを十何回も繰り返して撮影しているんですよ。
── 村人が繋がってるところですよね。
山本 そうです。「あれはどうやって撮影したんだろう」と思うようなところが、いっぱいあるわけですよ。
── いや、本当に素晴らしい作品だと思いますよ。『ベラドンナ』まで話が来ちゃいましたけど、『千夜一夜』まで話を戻しますね。
山本 はい。
── 企画のいきさつは大体「虫プロ興亡記」で大体分かるんです。実際の制作なんですけれども、クレジットでは『千夜一夜』は手塚さんが総指揮で、山本さんが監督になっていますよね。
山本 『千夜一夜』は一番最初は、手塚さんに注文が来たんですよ。手塚さんは、「ファウスト」をやりたいと言ったの。それで一度はOKになったんだけど、間もなくエリザベス・テイラーとリチャード・バートンの「ファウスタス博士」という洋画が来ちゃったわけですよ(※編注」“Dr.faustus”公開題「ファウスト悪のたのしみ」)。それで「これはダメだ」という事になって、急遽『千夜一夜物語』に変えたわけです。で、その頃に、僕に声がかかってきたのかな。
── その時には、山本さんには、どこまでの仕事を頼むという事だったんですか。
山本 それはあんまりはっきりしてないんですよね。それは最後まではっきりはしなかったですね。
── コンテは、最初から手塚さんが全部切ると明言されていたんでしょうか。
山本 明言したわけじゃないんですけど、結局そうなっちゃったからね(苦笑)。あの頃は、今みたいにきちっと(職分が)分けられてませんからね。誰が何をやるかハッキリしてなかった。それで僕は、手塚さんの絵コンテの台詞を直してるんですよね。手塚さんの絵コンテをの台詞を、消しゴムで消しちゃって、新しいのに書き直してるんですよ。
── 順を追って聞きますね。まず、ストーリーに関しては手塚さんのプロットがあるわけですよね。
山本 ええ。手塚さんのプロットがあって、それと別にシナリオライター(深沢一夫)と、熊井(宏之)さんという東京演劇アンサンブルの人と僕の3人で、プロットを作ったわけですよ。だから手塚プロットと、別プロットがあるわけです。その別プロットで、まずシナリオを作ったんです。で、このシナリオから、更に手塚さんが自分で絵コンテを描いて。コンテの段階で手塚さんが、かなり内容を直してるんです。で、その手塚さんの絵コンテがかなり枚数が多かったんです。それを僕が尺を詰めて、台詞も直して、かたちにしていったんですよ。
── 手塚さんのプロットと別に、3人でプロットを書いたんですか。
山本 うん、別に書いたんです。
── 別のプロットを書いているのは、手塚さんはご存知だったんですね。
山本 ええ。
── 最初の手塚さんのプロットは、完成した『千夜一夜物語』とは全然違うものだったんですか(※編注:「虫プロ興亡記」では制作スタッフが、手塚治虫の出した『千夜一夜物語』のプロットに文句をつけ、「だったら書いてみろ」と手塚に言われて、ストーリーを作る事になったと記されている)。
山本 アルディンとか、ミリアムとかね、名前は同じものが出てくるんだけど、ストーリーは全然違うんです。
── そうなんですか。それと、いまひとつその役割が分からないのが、ストーリーボードなんですけど。
山本 ああ、ストーリーボードを作りましたね。最近はストーリーボードって作りませんけども、あの頃は時間があったんで。1カット1カット作ったわけですよ。構図を凝ってね、色も塗って。並べて貼ったわけですよ。
── それはどの段階で描いたんですか。コンテに入る前?
山本 絵コンテができてからじゃないかな。
── できてからですか。
山本 コンテを参考にして描いてるから。
── ストーリーボードの段階で、シーンの色などを決め込んでるんですか。
山本 そうです。
── 例えば、アルディンが墓場から逃げ出して、ミリアムを捜すところで、大胆な画面分割をやっていますよね。手塚さんのコンテで、すでに画面分割になってるんですか。
山本 それは、ないはずですよ。あれは僕が描き加えたの。
── あの頃のアニメーションとしては、かなり斬新な表現ですよね。
山本 『千夜一夜物語』って、アニメーションと実写を、まぜこぜにしたものにしようとして作ったものだった。だから、そういうシーンがあるわけですよ(※編注:ここで言われているストーリーボードとは、演出的に内容を煮詰めるために、手塚治虫のコンテの後に彼が描いたもの。この映画では、それと別に絵コンテ以前に、場面作りのアイデアとして数名のスタッフが、イメージボードを描いていたようだ)。
── ミニチュアも使ってますよね。
山本 うん。最初の奴隷市場のシーンで、嵐が来ますよね。あの嵐っていうのは、電気洗濯機の回転している渦を撮ってるんですよ。そういう手作りのシーンが結構あるわけですよ。
── 洗濯機をどうやって撮ったんですか。
山本 上から撮ったんだと思うな。
── 上から? 横から見えるカットもありますよ。
山本 洗濯機の下から撮るわけにはいかないよね(笑)。上から撮ったんだと思いますよ。
── バグダッドのミニチュアって、かなり大きかったんですか。
山本 大きかったですよ。で、僕が撮影に立ち合いに行ったら、普通のライトを使っているんですよ。それで、「そのライト、駄目!」と言ってね。赤一色に変えたんだよ。
▲取材中で話題になっている画面分割とミニチュア
── ちょっと話戻しますけど、手塚さんのコンテを使って、そのまま作画してるわけじゃないんですね。
山本 違います。(作画は)あくまでもストーリーボードに基づいてやっています。コンテからストーリーボードに移ってるところに、結構手が加わってますよね。
── そうなんですか。絵コンテは手塚さんだけれど、それから具体的な原画作業に入る間の段階として、一度、山本さんがコンテをまとめ直しているという事ですね。
山本 そうです。例えばやなせ(たかし)さんの画をそのまま撮影して使うとか、画を縦型にするとか。要するに、いろいろと工夫して描いてるわけ。
── 手塚さんのコンテの段階で、どこを実写にするかという事は決められていなかったんですか。
山本 その段階で分かってる事はありますよ。例えば女護ヶ島の女王の部屋にカーテンがありましたよね(※編注:部屋の壁一面に金色のカーテンが張られており、それがキャラクターと一緒に動くカットもある)。あれはコンテで手塚さんが「ここは実写」と書いていたと思うんですけど。
── 全体として手塚さんのコンテを、いろんな意味でアレンジしていったわけですね。
山本 シナリオの段階でも、色んな人が入っていて。皆、(大作映画を作るのは)初めてだから、自分の主張を通したいわけですよ。それでみんな、ああだこうだと言って、手塚さんのアイデアを変えてしまったわけです。それを手塚さんにコンテの段階で、直してもらって、それをまた僕らが直していった。『千夜一夜物語』で、手塚さんの元々のアイデアをみんながいっぱい変えちゃったので、その次の『クレオパトラ』の時に、手塚さんに「好きなようにやってください! 今度は誰も何も言いませんから!」と言ったわけですよ。
── なるほど。
山本 それで『クレオパトラ』は手塚さんが監督になって、僕が共同監督をやる事になったんです。本当は手塚さんひとりが監督でもよかったんだけど、多分、(手塚さんが)ひとりじゃマズイと思って、そうしたんだと思うんですけどね。2作目で突然、手塚さんが監督をやったのには、そういういきさつがあるんです。
── 『千夜一夜』で、具体的に手塚さんのアイデアから逸脱したところは、あるんですか。
山本 まあ、違っているのは、構図ですよね。台詞と構図がね。手塚さんという人は、自分で漫画を描くと、非常にリズムがあって動きがいいわけですよ。それなのに絵コンテを描くと、リズムというか動きが止まっちゃうんです。だからそこを動くように直してるんですよ。
── 『千夜一夜』で手塚さんが描かれた絵コンテを見て、そう思われたんですか。
山本 それもあるし、その前の『鉄腕アトム』の時にも、そう思ったんですよ。マンガを描くと凄くリズムがいいのに、アニメーションの絵コンテを描くとそれが消えちゃうんですよね。不思議な人ですね。
── 山本さんとしては、本来の手塚マンガにあったダイナミズムのようなものを、ご自分なりに復活させたいという意図もあったんですか。
山本 いや、それはないです。
── あくまで山本さん流に手直しした?
山本 うん。
── キャラクターデザインとして、やなせたかしさんを起用していますよね。このアイデアは、手塚さんの方から出てきたんですか。
山本 いや、「アニメーションのデザイナーを誰にしようか」というのを、手塚さんが僕と杉井ギサブローに聞いたんですよ。で、その時に杉井ギサブローがすぐに「やなせさんがいい」って。
── そうなんですか! なぜそう思ったんですかね。
山本 分かんない。とにかくすぐにそう言っていた。それで、考えてみると、やなせさんはなかなかいいから、それで彼に頼んだと。
── 当時、やなせさんは、皆さんにとってどういうイメージの方だったんでしょうか。
山本 難しいマンガを描く、あんまり有名じゃない作家かなあ。
── まだ「アンパンマン」も描いていなければ、「詩とメルヘン」も始まってない頃ですものね。
山本 (やなせさんが)映画の批評をやってたのね。だから、映画を見る目はあると思いましたよ。
── 漫画家としては、ちょっと通好みな感じですか。
山本 うん、そうそう。
── 肩書きだとやなせさんは、美術になってるんですけど、実際におやりになったのはキャラクターデザインなんですか。
山本 キャラクターデザインと、背景のデザイン。それを「美術」と言ったわけですよね。
── 背景もやってるんですね。やなせさんは、いわゆる美術ボードみたいなものもお描きになってる?
山本 いわゆる美術ボードと言っていいか、ちょっと分からないですけどね。こんな大きい紙に、20点ぐらい描いたんじゃないかな。
── 色彩に関しては、やなせさんの範疇ではなかったんですか?
山本 色彩に関しては……。やなせさんが、キャラクターによってね、色を分けようと言ってたわけ。「こいつは赤だ」とか、「こいつは紫だ」とかっていうふうに分けて、色を見たらすぐに分かるようにしようって。それ、いいアイデアだから、キャラクターを色で分けるという手法は、いまだに僕も使ってるんだよね。
── やなせさんは、キャラクターを全部デザインしているんですか。
山本 主なものはみんなそうですね。末端のどうでもいいようなキャラクターはちょっと違うかも知れないけども、主なのはみんな、やなせさんが描きましたよ。
── 「虫プロ興亡記」に載ってる、やなせさんのデザイン画を拝見すると、キャラクターの顔は実際の映像と同じですが、頭身とか、ちょっと違いますよね。
山本 アニメーションにしやすいように、少し変えてはいます。
── それは、作画監督の宮本貞雄さんがおやりになったんですか。
山本 うん。宮本さんだとか、主だったスタッフがやったんだと思いますよ。
── 宮本さん達が、やなせさんの元の画を描き直して、別のキャラクター設定を描いたというわけでは……。
山本 違います、それは。
── じゃあ、作画で少し感じが変わっていますけれど、基本的にはやなせさんの絵をそのまま使っていたんですね。
山本 そう。そのまま使ったと考えていいと思います。その頃のマンガ家さんは、キャラクターデザインっていうのがどういうものか分からなかったから、僕たちが他の作品のものを持ってきて、見せるわけですよ。それを見て、やなせさんは描いてました。かなり一所懸命にやってくれました。
── 作画と言えば『千夜一夜物語』は、キャラクターごとに担当アニメーターを立てていたそうですね。
山本 ええ。今のやり方とは違うわけですよ。原画家がそれぞれキャラクターを持っていて。
── 宮本さんは、誰が担当だったんですか。
山本 アルディンかなあ。でも、アルディン描いた人は他にもいますからね。
── 中村和子さんだったらミリアムとか。
山本 そうですね。中村和子さんは、女の人を描いてる。

●「山本暎一インタビュー 第2回」へ続く
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