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東映長編研究 第5回
 永沢詢インタビュー(3)

 ▲安寿のモデルとなった佐久間良子を囲むアニメーター達。
  左から2人目が永沢
●『安寿と厨子王丸』
── 『わんぱく』の話はあとでまた詳しくうかがいたいので、後回しにして。『西遊記』の時はずっと動画だったんですか。
永沢 そうです。大塚班の動画をやりながら、追い込みに入ってセカンド、あるいは原画の仕事を始めてやるようになりました。
── 「作画汗まみれ」によれば、ラスト近くで妖怪がいっぱい出てくる宴のシーンを、みんなで描かれたとか。
永沢 その時はもう最後の追い込みでね。
── 「魔物達が饗宴を繰り広げる怪奇なシーンは、楠部大吉郎・杉井儀三郎・永沢詢・月岡貞夫、それに私の5人で、それぞれ思い思いのキャラクターを作って動かしました」とあります。
永沢 それは記憶あります。
── じゃ、かなりイレギュラーな事を、そこのシーンだけはやってるわけですか。
永沢 追い込みになって、何やっても大丈夫っていう感じになって、みんな「やりたい事やっちゃえ」っていうんで、やれたんですね。
── 杉井ギサブローさんも以前、そこのシーンの事をおっしゃっていました。コンテの指定も特になくて、画作りがかなり自由にできたと。
永沢 そうですね。
── 1人2カットとか3カットとか、そんな感じなんですね。
永沢 そうですね。ええ。適当に化け物を作って。
── 何もないところからの原画というのは、事実上それが初経験になるんですか。
永沢 そうだと思いますね。
── 確かに妙に猥雑な、いい感じのシーンになってますよね。
永沢 そうですか。それ以後、見てないですけどね。
── その次が『安寿と厨子王丸』ですが、『安寿と厨子王丸』のタイトル上では原画は、大工原さん、森さん、大塚さん、古沢さん、熊川さん、楠部さんになってますね。楠部さんは正式に原画になっていたわけですか。
永沢 原画になってますね。
── 先ほども言われたとおり、永沢さんは『安寿』から正式にセカンドになられたわけですね。
永沢 そうです。『安寿』から大工原さんの隣になったと思います。
── 『西遊記』で新しい空気を感じたとおっしゃいましたが、『安寿』はその正反対というか、内容も暗いし、アニメーション的な飛躍もなく、あまり見せ場が多くない、リアルな動きを追求してるじゃないですか。そんなところで欲求不満が溜まって辞めて、虫プロに行っちゃう人がでてきたのも、この作品がきっかけになってた、みたいな事が言われていますね。
永沢 ええ。
── 当時の社内の雰囲気、また永沢さん的には『安寿』という作品をどのように捉えられていたのでしょうか。
永沢 『安寿』は、企画の時にみんな嫌がったんですよね。『西遊記』をやった後でしたし、昔話で、リアルな画で、つまんない、っていうね。だけど東映の意向が凄く強かったんじゃないんですか、『白蛇』『佐助』以来の東映調に戻すべきだという。客観的には、あの頃のアニメと言うとやっぱりディズニー全盛でしょ。だけど、東映が日本でアニメをやっていく上では日本の伝統的な物語をやるというのは、ひとつの選択であり、一理あるとは思ってましたね。
── なるほど。
永沢 当時は東映映画が全盛ですからね。時代劇も(萬屋)錦之介とか、片岡(千恵蔵)、市川(右太衛門)両御大も全盛でしょ。映画界でも時代劇っていうのは、日本映画の重要なジャンルでしたから。『安寿と厨子王丸』ってあんまりアクションがないもので、どうかとは思ったけれど。でも、時代物をやるっていうのは、反対するほどの事はなかったですね。会社にも、スタッフにも他にアイディアがなかったのですから。
── 『安寿』でおやりになったシーンで、ご記憶のあるところというのはあります?
永沢 『安寿』はね、あんまり記憶に……ないですね。僕は次郎が多かったですね。次郎って、敵役っぽい若い武士です。三郎と次郎っていうのがいたのかな。次郎の方がわりと動きのあるシーンがあったんで、そっちをやらせてもらうようにしたんです。だけど、あんまり面白かった記憶はないですね。
── 『安寿』の時って和服が出てくるから、例えば、美術の鳥居塚誠一さんとか東映の方を呼んできたりして、和服がどう折れるのかっていう、シワのより方などを相当綿密に調べたとうかがったんですけど、その点、作画も大変だったんじゃないですか。
永沢 ええ。特に森さんの方が大変だったと思いますよ。ヒラッとなる、女性の袂の動きが一番大変だったですよね。大工さんも森さんも『安寿』の間中「つまんない」「つまんない」って言ってましたよね。
── 森さんが言うぐらいだから、相当ですね。
永沢 大工原さんはわりと動きのあるところだったから、まだね。結構面白さを見つけてやっちゃう方だったから。私としては気分的には助かったんですよね。ただ、日本の着物を描くっていう点では勉強になったので、よかったですよ。
── 永沢さんご自身としても。
永沢 ええ。あんなにたくさん着物やちょんまげを描いた事はないですからね。大工さんによく教えていただきましたよ。
── 永沢さん自身の話から、ちょっと外れてしまいますが、『安寿』ではコンテはどなたが描かれたか覚えていらっしゃいますか。
永沢 コンテは大工原さんと森さんでやったんじゃないかなあ。あるいは大塚さんや楠部さんも関わってたかもしれないですね。
── 芹川(有吾)さんが「コンテを描け」と言われて描いたと、回顧録で書かれているんですよ(「マイアニメ」1981年6月号「演出家ノート―VOL.3― 私のテレビ・アニメ考 懐かしき日のアニメ生活雑談」)。
永沢 芹川さん?
── 『安寿』は藪下さんが病気で倒れてから、芹川さんが入ったんですよ。
永沢 ああ、そうか。
── 長編のこの時期って分かりづらいんです。例えば藪下さんはコンテをどこまで具体的に描いたのかが分からないんです。現在はアニメーターの誰かが清書したコンテしか残ってないし、人によっては「藪下さんは、全然やってないよ」みたいな事を言う人もいるんですよね。実際のところ、どうだったんですかね。
永沢 詳しい事は分かりませんが、『安寿』のカット割りには、それ以前になかった劇映画的な方法が全体に入ってきましたから、芹川さんがかなりやっていたというのは、間違いないでしょう。
── それともうひとつ気になっていたのが、『西遊記』『安寿』ぐらいの時期に山本早苗さんが動画監修とクレジットされるんですけども。先ほどのお話だと山本さんは管理職だったわけですが、実際には何をされてたんですか? 動画チェックという意味の動画監修ではないですよね。
永沢 動画チェックなんかやってないですよ。管理職でしたよ。
── それはなんかクレジットとして、それらしい名前をつけたという事ですか。
永沢 そうですね、ええ。朝、「おはよう」って現場を回ってくるっていうくらいでした(笑)。

 ▲第2次東映動画労働組合の初代執行委員達。
  上段左から5人目が永沢
●『もぐらのモトロ』と組合活動
── その次が『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』(1962)なんですけど、『シンドバッド』はタイトルに永沢さんのお名前がないですね。
永沢 僕は、『シンドバッド』やってないですね。
── 僕達が把握している流れでは、その次の『わんぱく王子』までは社内は全部、1班体制で動いてきていて、それでその後になって2班体制になったという事ですが。
永沢 そうですね。その間、僕は『もぐらのモトロ』(1962)というのをやってたんです。
── でも、『モトロ』は短編じゃないですか。長編1作分参加できないぐらい、かかっちゃったんですか。
永沢 そうですね。それにあの時は僕は労働組合の方が忙しかったので。
── 永沢さんは、第2次労働組合初代委員長という事ですよね。
永沢 そうですね。
── 「第2次」というのは……?
永沢 「1次」っていうのは僕が入ってすぐの頃にできて、すぐ潰されちゃったんです。2回目は潰されないのを作ろうって事で、1年前から準備して、1年後に旗挙げしたんです。そっちの地下活動の方が、僕は忙しかったんです(笑)。
── 地下活動ですか(笑)。普段のお仕事の時間が割かれちゃうぐらい、組合の方が大変だったんですか。
永沢 そうです。年中、組合ニュース作りや団体交渉やらやってましたからね。『モトロ』の方が片手間という感じでした(笑)。
── もともと『モトロ』の話は、どういう形で永沢さんにきたものなんでしょう。
永沢 東映も何か短編も作らなきゃならないってんで、『モトロ』と……。
── 『ねずみのよめいり』(1961)と『モトロ』が同時期ですね。
永沢 そうですね。『モトロ』は池田(宏)さんが演出で。企画はどういうところからきたんだか分からないですけど。もぐらもので、キャラクターは僕に、という話だったんです。
── このキャラクターは永沢さんが作ったんですか。作画監修として森さんのお名前が出てますけど。キャラクターが森さんというわけではないんですね。
永沢 キャラクターは僕がやったんですね。
── では、森さんは何をやられたんですか。実際に作画で参加されたんでしょうか。
永沢 僕は初めてだったので、名目上、森さんが監修で立ったみたいな感じですね。
── 実際は永沢さんがキャラクターも作られたんですね。
永沢 そうです。
── コンテは?
永沢 池田さんがラフコンテを書いて、僕がアニメーション用のコンテに清書しました。
── そうなんですか。原画は全部永沢さんが描かれたんですか? 先ほど彦根さんのお名前も出ましたが。
永沢 途中から彦根君にちょっとやってもらったかなあ。基本的には僕がやりました。『モトロ』は、最初は声までやったんですよね。
── えっ、声?
永沢 実際のフィルムでは替わってますけどね。当初は僕がキツネをやって、彦根君がタヌキをやったんですよ。
── 実際にはその声は使われていないんですか?
永沢 使われなかったです。
── そうなんですか。それは最初のプレスコの段階で、タイミングを取るためにやられたんですね。
永沢 そうそう、そうです。プレスコは全部二人の声で(笑)。
── そうなんですか。人形の女の子の声なんかも。
永沢 女の子の声は、誰か他の人がやったと思います。
── モトロの声自体は?
永沢 モトロは……声優がやったんじゃないかな。
── 企画は島田太一という人ですよね。島田さんってどんな方だったんですか。
永沢 島田太一さんは、『佐助』の頃にきた動画課長です。
── 原作者というわけではないんですね。
永沢 違います。
── これは何か元になる作品があったんですか。
永沢 なんかあったのかなあ。記憶ないですね。
── 原徹さんが脚本になってるんですけど。
永沢 ああ、そうかも知れないな。原ちゃんが噛んでましたね。ちょっと記憶が定かではないです(苦笑)。
── これは私が勝手に推測していたんですが、『白蛇伝』の初期の頃、『夢見童子』や『こねこ』が作られていた時代って、日動のメンバーとか、絵本作家を呼んできて短編を作らせましたよね。同じような感じで、その当時の若手で有望な人材に「1本作らせてみよう」という感じで月岡さんと永沢さんが選ばれたのかと思ってました。
永沢 そういうところはあるかもしれないね。
── こうした短編は、教育施設で上映する作品だったわけですよね。
永沢 ええ。
── 先ほどのお話でキャラクターもすべて永沢さんがご担当されたという事ですが、永沢さんとしては『モトロ』がほとんど一本立ちのデビュー作といったものにあたると思います。UPAの作品群といったリミテッド手法の新しい潮流を取り入れて、デザイン的にもグラフィックに整理しているようにお見受けします。
永沢 そうですか。
── 当時これを作られた時に採用された、作画での試みといった事で、何かしら覚えてらっしゃる事があったらうかがいたいんですけど。
永沢 あんまり記憶ないですねえ。何もやってなかったですよ。
── 結構自由にできた作品なのかなと思ってたんですけど、そうでもなかったんですか。
永沢 うーん……もうね、組合の方が忙しかったので。
── そっちの方で、気もそぞろ(笑)。
永沢 (データ関連の資料を見ながら)あ、ホントだ、「原徹」って書いてありますね。実は僕はできあがりも見てないんですよ。
── そうなんですか。
永沢 でも、池田さんって凄く細かい演出をする人でね。コンテも細かく描いてたんで、後はもう動きで遊んじゃえっていうところはありましたね。
── 池田さんにしても映画の演出は初めてですよね。
永沢 そうですね。動きに関しては任せてくれたので、リミテッドな動きは、モグラなんかが振り向くんでも、中割しないでやったり、という事は色々やりました。
── それは永沢さんご自身もそういう事を率先してやられてるって事ですか。
永沢 はい。
── 池田さんもちょっとリミテッド風にやろうという意向があったんですか。
永沢 ええ、それはありましたね。
── この作品は昭和37(1962)年に作られてますが、その時期には、片や「アニメーション三人の会」などの動きもありましたよね。
永沢 ありましたね。
── アメリカのUPAが一世を風靡したのって、時代的にいうとそれより10年ぐらい前だと思うんですけど、日本でのUPAブームってちょうど50年代の終わりから60年代の初頭ぐらいにきてるような印象があります。実際にアニメーターの中で「新しい物」として、凄い魅力が感じられた時期だったんでしょうか。
永沢 そうです。あとソ連の『雪の女王』(1957)とか、トルンカとか。
── はいはい。
永沢 ポール・グリモーとか。そういうのがずいぶん入ってきたでしょう。
── ノーマン・マクラーレンとか。
永沢 ええ。マクラーレンなんかもね。ちょっとしたアニメブームみたいなものがあったんですね。
── アートアニメーションブームですね。
永沢 だからアニメーターの中でも新しい事が好きな人は、まあ、今はつまんないけど、ちょっと頑張ってれば新しい事ができる、面白い事ができるかもしれないっていう、そういう刺激にはなったんですね。
── 例えば永沢さんは、そうしたアニメーションをご覧になって、1人で作るアニメーションという方向に憧れは感じなかったんですか。マクラーレンがやったフィルムにダイレクトに描くアニメも含めて、個人でどこまで作品を完成させられるかといった部分に反応した人達も多くいたと思うんですよ。
永沢 いや、それもあったんですけどね。それよりもアニメーションとか、要するに映像の形、フィルムの形には「もう沢山」という感じがあったんですね。
── ああ、そうなんですか。
永沢 もう1枚ものを描きたかったんです。フィルムでやるとしたらね、やっぱり個人作品しかないと思ったけれど、フィルムでやる以上、どういう風にやっても1人でできないんですよ。まあ、マクラーレンみたいに、引っ掻き(シネカリグラフ)でやるならいいけど。
── まあ、そうですよね。
永沢 それを東映で経験してきたんでね。やっぱり自分を表現するには、自分1人でやるべきだという欲求が凄い強くなったんですね。もう映像じゃないなあ、というイメージがあったんですね。と同時に、組合活動を経験して、東映動画という会社の限界も僕なりに見えてしまったので。
── でも、だからといって、その時に永沢さんが独り立ちをされて、アニメーターから離れられたっていう事ではないですよね。その後何年かは続けられてる。
永沢 それはもう、食ってかなきゃなんないですからね。20代の後半に入って、家族もいるしね。
── 労働組合で委員長に就任されて、組合運動に専念されていた時期も、アニメーションの作業現場の賃金を含めた労働水準といった環境を改善しようという思いが大きかったんでしょうね。
永沢 ええ。
── それってアニメーターとしてずっとやっていこうっていう決意があって、自分達の場を守るという発想があるような気がしてしまうんですけど、実際のところは、永沢さんの中にはそれをやりつつも、なんかやっぱり自分で画が描けていけたらなあ、みたいなのがあったという事ですね。
永沢 そうです。だから当時、僕が委員長になった時のスローガンは「人間宣言」なんですよ。当時は民青(日本民主青年同盟)も強かったし、新左翼の影響も大きかったんです。作品の内容よりも、それ以前の、生き方を含めた個人が問われたわけです。政治的な環境が強かったんですよね。
── ええ。
永沢 アニメの現場っていうと外から見ると面白そうだけど実際関わると何と言うのかな、いわば「一将功なりて万骨枯る」んですよ。
── (笑)。
永沢 だから、心ある人は1年もやったら、それが分かるんですよ。世界中のアニメーションがそうだと思うんですけど、演出をやるとか、キャラクターをやるというように分業で、後は全部、人の画を動かしたり撮影したりするでしょ。だから創造的な志がある人には耐えられるはずがないんですよ。何か目標を置かないとね。
── はい。
永沢 だから良い作品を作ろうっていうスローガンを労働組合的に掲げたとしても、「いい作品って誰にとっての?」という事になるわけですよ。それをつき詰めていくと個人的な問題になるんですよ。抽象的ですけど「人間宣言」しかないんです。
── なるほど。
永沢 個人が常に問われ続けるという問題を、アニメっていうのは抱えてるんですよ。アニメだけじゃなくて映像のような共同作品全般がそうですけどね。私は、この世界はやっぱり共同作業で、個人的な表現はできないなあ、という諦めみたいなものを感じていたんですよ。今みたいにフリーでやるというチャンスはなかった時代ですからね。絶望的になるんですよね。私以外にもアニメ界を去って他の職業に就いた人も沢山いるでしょ。ずっと続けてる人の何倍も挫折した人がいる。私なんかは、そっちの方の1人ですよね。
── スローガンで「人間宣言」って掲げたというのは「人間らしく生きるぞ」という事だったんですよね。
永沢 そうです。アニメのスタッフである以前にひとりの人間なのだという事。凄くバカバカしいスローガンなんですけどね。でも、僕にはいちばん実感があったんですよ。別にアニメの会社じゃなくても、同じ事だったと思うんですよ。学校出て、就職して、それでそれなりの収入を得るようになって気がついたら自分の志というか、なんかどこかですれ違っているように感じるけど、よく分かんない。具体的には給料とか労働条件なんだけど、本当はもっと深いものですよね。だけど、労働組合をやった経験では、「人間宣言」っていうのが一番、アニメーターから、演出、撮影から、仕上げの人まで、いろんな人に共通して理解できるスローガンだと感じたんですよ。「いい作品を作ろう!」というスローガンは私は嫌いでしたね。
── 労働組合の委員長は、作品的には『シンドバッド』が長編で作られてる間、ずっとやられてたんですか。
永沢 労働組合ができたのは何年でしたっけ。
── 『シンドバッド』の頭ぐらい、昭和36年とか、その辺だったのでは。
永沢 その時期、ほとんど作品も中断してましたよね。ストやったりロックアウトされたりして。
── ええ。
永沢 副委員長だったのが撮影の人で、東(喬明)さんですよ。書記長が生野(徹太)さん。教宣部長が小山礼司さんで。あと執行委員が梅田(英俊)、それから吉田茂承さん、奥山玲子さん、渡辺忠美さん。他にシマちゃん──島村(達雄)がいたな。
── 現在は白組の島村さんですね。
永沢 そうです。労働組合結成宣言した途端に、東映のスタジオをロックアウトされたんですよ。
── そうなんですか。
永沢 ええ。閉鎖して。組合の作業で徹夜していた僕と小山さんと生野さんの3人が監禁されたんですよ。翌朝起きたら、会社側の雇ったガードマンが門を閉めてて、通勤してきたアニメーター達が門の外で騒いでたんですよ。それからロックアウトが何日間か続いてね。僕らに弁当を差し入れるために月岡君達が塀を乗り越えてきてくれたりしましたよ。新聞沙汰になる騒ぎでしたよね。最終的に僕と三役が大川博社長に会って、会社が組合を認め、7項目あった要求を基本的にのみ、ロックアウトを解いて、再開したんですよ。あれは『シンドバッド』の時じゃないですかね。僕は『モトロ』でしたが。
── 『シンドバッド』の途中でロックアウトが起きたというふうに伺ってます。

●永沢詢インタビュー(4)へ続く

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