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東映長編研究 第9回
 白川大作インタビュー(1) 
 東映入社と『白蛇伝』

 「東映長編研究」第3弾は、東映動画から生まれた最初期の演出家であり、後に企画課長として様々な作品を手がけた、白川大作さんに登場していただく。
 演出家として彼が手がけた東映長編は、『西遊記』と『わんわん忠臣蔵』。『西遊記』の時には、まだ20代半ばであったが、演出であった薮下泰司さんが病で現場から外れた後、演出の仕事を引き継ぎ、作品を完成に導いたのだそうだ。
 また、手塚治虫とも親交が深く、手塚が東映動画作品に関わる橋渡し役もしている。間接的ではあるが、虫プロダクションの『鉄腕アトム』のTV放映決定にも関わっているのだそうだ。

●2004年9月22日、10月1日
取材場所/東京・東久留米
取材/原口正宏、小黒祐一郎
構成/小黒祐一郎、小川びい
PROFILE
白川大作(SHIRAKAWA DAISAKU)

 1935年2月22日、香川県生まれ。血液型B型。1958年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、東映株式会社に入社。動画部企画課所属になり、『白蛇伝』で進行助手として参加。『西遊記』には演出助手として参加していたが、薮下泰司が病で現場から外れたため、制作の後半は演出代行を務める。1960年に正式に東映動画への出向となり、『ねずみのよめいり』『わんわん忠臣蔵』『少年忍者風のフジ丸』で脚本と演出を担当。当時、他社のアルバイトもしており『鉄腕アトム』『オバケのQ太郎』で絵コンテを描き、『ハリスの旋風』では高橋潤一名義でチーフ・ディレクターを務めた。1965年に企画部に異動し、『レインボー戦隊ロビン』『魔法使いサリー』『サイボーグ009』等の企画に関わる。1968年に東映動画を退社し、博報堂に移る。博報堂で手がけたアニメ作品は『装甲騎兵ボトムズ』『巨神ゴーグ』『コアラボーイ コッキィ』等。博報堂時代のアニメ以外の仕事に、プロ野球のジュニアオールスターなどがある。また、『風の谷のナウシカ』のアニメ企画成立にも一役買っている。1995年に博報堂を定年退職。定年の数年前から本格的に画を描き始め、個展「白川大作はがき絵百花展」を開催するなど精力的に活動。現在はNHK文化センターなど、6校のカルチャーセンターでスケッチを教えている。著書に「はがき絵スケッチ入門〜ペン水彩で楽しむ世界の旅」(日貿出版社)がある。

── この記事は東映長編のお話を色んな方にうかがっていくシリーズなんです。『西遊記』や『わんわん忠臣蔵』の話を中心にうかがえればと思います。それと手塚さんのお話などもうかがえると嬉しいです。
白川 わかりました。ただ、先に言っておきたいんだけど、事実というのは、本当はひとつなんでしょうけど、見る角度によって見え方が違うわけですよ。たとえば僕がひとつの事について「これは自分がやった」と言っても、他の人が「いや、俺がやった」と言うかもしれない。あるいは逆に「あいつは何にもやってない」と言われるかもしれない(笑)。
── そうですね。
白川 そんな事があるからね。僕は僕が知っている事実を話すけれど、それは他の人の記憶とは違うかもしれないよね。それは分かって聞いてもらいたい。だから、あなた達が、色んな人に話を聞こうとしているのは、よい事だと思うんですよ。それぞれの証言を聞いて、それなりの結論を出してもらえばいい。
── 分かりました。よろしくお願いします。
白川 どこから話をしようかね。僕は昭和33年(1958)に大学を出たんですけど。東映に就職したのは、かなりいい加減な理由でね。どこに勤めようか、ぼちぼちと考え始めた頃に、映画好きだったから、映画会社も悪くないなと思ったんです。「悪くないな」というのは、その頃は日本の映画のピークの時期だったわけですよ。渋谷の本屋で就職試験問題集をパラパラとめくっていたら、松竹の芸術職の試験があってね。それが、ほとんど常識問題みたいなものだったから「ああ、これなら100点取れる」と思ったんですよ。それで受けようと思ったら、その年、松竹は正式の募集をしてなかった。だけど、東映は新人を採っていたんです。当時東映は時代劇のおかげで非常に好調だったもんですからね、初任給も結構良かったんですよ。「じゃ、東映を受けてみようか」と思って受けてみたら、合格したんです。実は建築にも関心があって、竹中工務店も受けていて、そちらも受かって、両方の合格通知が同じ日に来ましてね。さあ、どっちにしようかと思ったんだけど、元々、自分は怠け者でヤクザっぽいから、「東映の方が楽そうだし、面白そうだ」と思って。
── (笑)。
白川 それで、竹中を断って東映に入ったんですよ。で、東映に入りましたら、今度は何をやるか自分の希望を出さなきゃいけないわけ。どうせ入ったんなら映画を作る仕事したいからといって、それを希望したら、「お前はダメだ」と言うんですよ。なぜかというと、東映の試験には芸術職と事務職の試験があって、そのふたつを分けて募集してたわけね。僕が入ったのは事務職だったわけ。
── あ、そうなんですか。受けてる時は、はっきり考えずに受けてしまった?
白川 というか、慶應の経済に来てた募集に、芸術職はなかったような気がするね。で、入ってみたら撮影所に行けないって事になってしまった。それで、映画会社へ入って事務をやるなんてそんなバカな話あるかと思ったわけ。事務職でも入れるセクションで、面白そうなところは宣伝部だったので、宣伝部を希望したら「宣伝部は今年は満杯で採らない」というわけ。そして、見ていたら動画部というのがあったんですよ。で、動画部は希望したら入れる。これは、記事には書かない方がいいかもしれないけど、100人ぐらい東映に入った人間の中で、僕は2番目の成績で入ってるんですよ。だから極めて優秀な新人だったわけ。で、東映動画という子会社は、その前の年にでき上がって、まだ海の物とも山の物とも分かんないわけです。で、上の方から「そんなところに優秀な奴を配属するわけにはいかん! お前は、文書課か経理だ!」と言われたんだけど、「いやだ!」と断ってね。
── (笑)。
白川 で、無理矢理、動画に入ったんですよ。
── 希望は通ったわけですか。
白川 通ったんですな。だから、ちょっと変わり者の新人だったわけだけど(笑)。で、その時に動画に入ったのが、僕と飯島敬なんですよ。
── 飯島さんは同期なんですか?
白川 同期なんです。で、その時の東映と東映動画の関係というのは、勿論、東映動画というのは東映の100%子会社で。それで、何を作るかに関しては本社が決めて、それを東映動画に発注する。東映動画はそれを作って本社に納入するというシステムだったわけ。ですから、興行成績の具合とかは全く関係なしに、必要な――あるいは必要最小限の――予算を東映が渡して、それで作る。それを東映が興行するというシステムだった。ですから、本社の動画部というのは(動画が作る作品の)企画のセクションだったわけですよ。東映動画には企画のセクションはなかったわけ。
── 本社の中に動画部があって、それと別に動画スタジオがあったんですね。その場所は離れてるんですね。
白川 離れてるわけです。で、当時東映の本社は京橋にあったんですよ。東映の教育映画がしばらく京橋にありましたよね。管轄としては元々、教育映画部だったんですよ。
── そこから動画部が独立したんですよね。
白川 もっと遡って僕が入る前の事を言うと、これは100%正確かどうかは分かりませんが、動画をやろうと言い出した人、あるいは言い出した何人かの内の1人が、教育部長の赤川(孝一)さんだったわけです。それで、赤川さんが動画を管轄してたわけですよ。ずーっと後で知ったんですが、赤川さんのご子息が、作家の赤川次郎さんだったんですね。
── じゃあ、入った時の白川さんの上司は、赤川さんだったんですか。
白川 赤川さんは直接の上司じゃなくて、僕の上に丸茂さんっていう課長がいたんですよ。そこに入ってしばらくは教育映画部と同居してたわけです。それでね、僕が入った時に、すでに東映動画はでき上がっていた。昭和32年(1957)に、日動(映画)の人達をメインにしてね。それで、32年にアニメーターを募集して、その時入ったのが大塚康生、喜多真佐武、坂本雄作、紺野修司、中村和子。そういった人達が入ってたわけですね。楠部(大吉郎)さんも同じ時期かなあ。
── ちょっと後ですね。同じ年の秋です。
白川 そうか。永沢詢も一緒に入っていましたね。ですから、すでにもう東映動画には人がいて、『白蛇伝』の制作を始めてたわけね。で、その前に花野原芳明さんの『かっぱのぱあ太郎』とか、蕗谷虹児さんの『夢見童子』を作ってたわけです。森(康二)さんの『こねこのらくがき』もその頃ですね。元々日動というのは短編アニメーションを作っていた。『白蛇伝』以前にも日本には『桃太郎の海鷲』とかありますけど、日動は短編映画をやっていた。文部省から依頼されて『黒いきこりと白いきこり』とか、教育映画としてのアニメーションを作っていたわけですね。東映動画へ吸収されて最初に作ったのも、そういった短編だったんです。で、それから長編を作る事になって――ま、その時は僕はまだ入ってませんけど――呼び集められたのが、岡部一彦さんとか、橋本潔さんとかですよね。岡部一彦さんというのは、ご承知のように漫画家の岡部冬彦さんのお兄さん。
 それで、企画の一員になったところで、当然、現場見学に行くわけです。僕は、それまでディズニーのアニメやなんかに関しては大ファンであったけど、アニメの作り方に関してはほとんど無知だった。やっぱりアニメの企画をやるとすれば、現場を知らなきゃダメだと思って、「東映動画へ出向させろ」と言い出したわけ。それで出向を……あ、そうじゃなくて、最初は出向じゃなくて、現場を勉強したいからと言って、東映の本社の所属のまま向こうに勤務したんですよ。
── それは出向とは違うんですか。
白川 出向ではないです。出向というのは身分がそっちへ移る事なんですよ。で、しばらく現場にいたわけです。4月に入社して研修期間があって、(本社の動画部に)配属されるのが5月だか6月ですよね。夏ぐらいには大泉学園の動画スタジオに行ってたと思いますね。ただ、身分は東映の本社だから、両方に行ったり来たりはしてたんです。で、『白蛇伝』が完成して公開されるのが、その年の秋ぐらいでしたかね。僕は現場へ行って何をしたかというと、最初は見学して、森(康二)さんと話したり、いろんな人と仲良くなったり、みたいなね。で、最初に正式に就いた仕事が「進行助手」という仕事だったんですよ。
── その時、『白蛇伝』はもう上がってたも同然?
白川 もう、画はほとんど上がってたんです。
── 画は上がってた? まだ作業は残ってたんですね。
白川 作業は残ってます。で、稲田伸生さんが進行で、僕はその助手になったわけです。画はほとんどできていて、今度はそれを編集して、音入れして、完成させなきゃならないという時期だったんですよ。『白蛇伝』はプレスコでやったんですよ。プレスコでやったはずだけど、進行中になんだかんだと内容を変更していくもんだから、プレスコの音と画が合わなくなった。それで結局、プレスコの音を全部捨てたんですよ。
── そんな事があったんですか。
白川 で、全部アフレコになったんです。
── じゃあ、一部録り足しじゃなくて、全部入れ直しなんですね。
白川 断言はできませんが、僕の記憶では100%録り直しています。
── 最初の録音でも、森繁久彌さんと宮城まり子さんが演じているんですね。
白川 違う。プレスコの時は、森繁も宮城まり子もいなかったのよ。
── あっ! そうなんですか。プレスコもちゃんとした役者さんだったんですね?
白川 だったんだと思いますけど、それが誰だったのかは僕は知りません。
── ああー。これは大スクープだ(笑)。
白川 その辺の話を知っているのは、亡くなった藪下(泰司)さんとか山本善次郎さんとか、限られた人だけだと思いますよ。僕は会議の時に端っこの方にいて、聞いていたんです。で、やっぱり全部やり直そうという事になって、台詞を矢代静一さんに頼んだわけ。要するに、台詞台本を作り直したわけです。それで、音楽も木下忠司さんにしたわけです。僕の知る限り、『白蛇伝』という作品の画以外の部分が作られたのは、その時から後なんですよ。
── キャストを2人で演じさせる事も、その時に決められたんですね。
白川 その時なんです。その時の会議の中で、誰が言い出したのかは定かじゃないんだけど……。藪下さんが言ったのかな? 矢代さんだったかも知れない。誰だったのかは、責任を持って言えませんけど、2人とも、本当に大トップスターだったわけ、それで「森繁と宮城で行こう」という事になったわけですよ。それで、「この2人だったら全部やらせた方がいい」という事になったわけです。そこから先の詳細は僕は知りませんけど、交渉が成立したわけです。それで、いざ台詞の録音という事になって、僕が「森繁久彌お迎え係」になったんです。
── なるほど。
白川 で、飯島敬が「宮城まり子お迎え係」になった。
── ちょっと待ってください、飯島さんも一緒に?
白川 その時(彼も東映動画に)来てたんですよ。
── 進行助手なんですか? やっぱり。
白川 そうです。それでとにかく「白川は森繁先生を迎えに行け」と「飯島は宮城さんだ」という事になって、僕は毎朝、ハイヤーに乗って、千歳船橋の森繁邸まで迎えに行くわけですよ。それで森繁さんを乗っけて、また大泉まで来るという仕事をやってたわけ。行くと森繁さんの奥さんが出てきて、「実は主人、夕べ遅かったんで、あと20分ぐらい寝かせてやりたいんですけど、いいでしょうか」みたいに言われて「いや、いいですよ。待ちますよ」なんて話をして。
── 録音は1回で録りきらないで、何日間もかけたっていう事ですか。
白川 何日もやりましたね。当代売れっ子の2人ですからねえ、スケジュールを合わせてやるのは相当大変だったと思いますよ。全部2人の掛け合いだったのか、別録りもしたのかについては、また記憶がちょっと定かでない。多分別録りもあったと思います。ですから、僕は映画界へ入って最初の仕事らしい仕事っていうのは、森繁久彌のお迎えだった。千歳船橋から大泉までは、そこそこ時間かかるからね。その間、森繁さんは「疲れてるから寝る」とか言って寝たり、あるいは目が覚めると、昔の満映時代の話とかいろんな話をしてくれた。こっちは胸ときめかせて、色々聞かせてもらったりなんかして。結構楽しい仕事でしたねえ。
── その録音はどこでやったんですか。東京撮影所の中?
白川 東撮の中です。
── まだ動画の中に録音場所はなかった?
白川 いや、なかった。今でもないんじゃない?
── 『狼少年ケン』の頃は、動画の中にアフレコスタジオがあったんですよね。
白川 ああ、ごめん。あったあった。東撮でやった記憶もあります。少なくとも音楽は東撮で録ったなあ。……そう、台詞の録音は、動画のスタジオでした!
── 音楽ですが、木下さん以外に池田正義さんと鏑木創さんの名前があって、3人連名で出るんですよ。これは今のいきさつだと、他の2人は、その前に音楽をやってた人なんでしょうかね。
白川 かも知れませんね。僕もそれは知らなかった。
── 白川さんの御存知の範囲だと、木下さんもその時になって決めたわけですか。
白川 そうでした。ですから、僕にとっては『白蛇伝』という作品は、いわゆるアニメーションの制作工程を、くっついて見てこられたという非常にいい機会だったんですね。それで『白蛇伝』が完成して、大ヒットした。それで、『白蛇伝』の最終的な作業をやる頃には、次の2作目が『少年猿飛佐助』に決まってたわけですよ。これは壇一雄さんの原作だったかなあ。
── そうですね。
白川 長編アニメーションの第1作としては『白蛇伝』という中国物をやったわけ。2作目はやっぱり東映だからチャンバラだ、と。で、漫画だったら(忍術でも怪物でも)何でもできるから、というので『猿飛佐助』になる。と、こういう順序ですわね。それで『白蛇伝』が終わった頃に、東映の本社の企画にいた渾大坊五郎さんが東映動画へ来て、プロデュースをやるという事になったわけです。
 で、渾大坊五郎さんというのは御存知かと思うけど、映画界では非常に名前の通った、大先輩だったわけです。当時、あの人はいくつだったんだろう? こっちからするとすごいお爺さんでね。ところが、これがまた話好きで、やたら可愛がってくれたんです。『少年猿飛佐助』から、僕は進行助手から企画助手になったんですよ。でね、多分その頃には、もう(東映動画に)出向させてくれと言っていたんだと思う。いつ出向したかは、東映の記録を見なきゃ分かんないんだけど。
── えーっと、昭和35年(1960)2月です。
白川 じゃあまだ出向してないわ。……あなた、詳しいねえ(笑)。それで、渾(大坊)さんの助手で……。
── 渾大坊さんは『猿飛佐助』では、お名前がクレジットに出てませんけど?
白川 出てないか。……正式に出たのは『西遊記』からか。
── 『西遊記』は、もちろん渾大坊さんです。高橋秀行さんというのは、どこの方なんですか? 『白蛇伝』『猿飛』『西遊記』に企画で名前が出ているんですが。
白川 あっ! 分かりました。それを説明しましょう。高橋秀行さんというのはですね、本名は高橋勇と言いまして……。
── あ、勇さんと同じ方ですか。そうなんだ。初めて知りました(笑)。
白川 ペンネームが高橋秀行なんですよ。当時は東映動画の所長でしたから、企画は全部、高橋秀行になるわけですよ。製作は東映の社長の大川博で、企画は東映動画の所長の高橋秀行。こうなるわけです。実際に誰が企画したとかという事とあまり関係なしに、責任者がクレジットされるわけです。それは例えば、アブ・アイワークスがやってもディズニーになっちゃうのと同じ事ですね。(編注:厳密には高橋勇が東映動画スタジオ所長となるのは『白蛇伝』が公開後の昭和34年6月。それまでは本社の企画本部で東映動画作品に関わっていたようだ。『白蛇伝』完成時には、山崎真一郎が、東京撮影所所長と動画スタジオ所長を兼任していた)
 で、分かりました。渾大坊さんについては僕の記憶をちょっと訂正しましょう。なぜ僕が『少年猿飛佐助』が渾さんの仕事だと思っていたかというと、実は渾さんは、その時、すでに東映動画にいましてですね。僕は渾さんのお供をして、鎌倉へ行って清水崑さんに(『猿飛佐助』の)キャラクターデザインを頼んでいるんです。ここで、あえて東映動画の悪口を言いますとね。
── (笑)。
白川 後に虫プロは、手塚治虫の画をアニメーター達が描いたわけですよ。ディズニーも最初はディズニーの画をアニメーター達が描いたわけですよ。ところが東映動画は全然違ったんですよ。どっちの結果がよかったかは別として。『白蛇伝』も最初は岡部一彦のデザインで、それは後になって大工さん(大工原章)や森さんが描いたものは、かなり違うんです。
── そうですね。
白川 あの頃、日本のアニメーターは、人の画に合わせて描こうという意識があまりなかったんですよ。それがひとつ。それから、要するに東映というひとつの映画制作工場のスケジュールと予算があるわけだから、誰か1人が全部の画を描くなんて事はできなかった。後の宮さん(宮崎駿)がやるような、1本の映画の全ての画に手を入れるような事は、やってられなかったわけ。またそれだけの図抜けた人もいなかったわけですよ。
── なるほど。
白川 キャラクターデザインというのは、あくまでも原案であって、それを現場のチーフアニメーター――大工さんであったり森さんであったりが、自分なりにキャラクターデザインをして、要するにキャラクター設計図を作るわけ。で、それが元になるわけですね。大工原さんの画は清水崑さんの画にやや似てますから、『少年猿飛佐助』の場合はそんなに違っていないですけどね。
── アニメーターの手に委ねられた結果、現在の形になったというだけで、原案が破棄されたわけでもないわけですよね。それを活かした形でああいうふうになってるわけですね。
白川 そうです。岡部一彦さんが描いた法海とか、白娘とかですね、やっぱり同じような衣装なんですよ。衣装は、そのまま引き継がれてるんです。でも、顔やなんかが若干違うわけですよね。
── でも、『猿飛佐助』で清水さんはクレジットされてませんよね。
白川 それも不思議だねえ。
── この資料(展覧会「日本アニメの飛翔期を探る」の図録。以下の資料も同様)を見ると、『猿飛佐助』で花野原さんが描かれたデザインが載っているんですが。
白川 ああ、本当? それは知らない。花野原さんのデザインは僕は記憶にない。これは、僕が参加する前にできてたんだなあ。清水崑さんが描いたものも、大体こういう感じだったんですけどね。でも、花野原さんのは、キャラクターデザインというより、衣装考証みたいな気もするなあ。
── 『少年猿飛』って、眼の描き方が物凄い独特なんですけど。という事は、例えばこういったちょっとエキゾチックな感じというのは、清水さんの絵柄だったりするんでしょうか。
白川 ちょっとその辺になると、僕も正確に言えないですねえ。
── どうして清水さんにデザインを頼む事になったんですか。
白川 多分、渾大坊さんあたりが「清水崑さん知ってるから、頼もう」と言ったのかなあ。
── 当時は、河童の画で、一世を風靡してた時期ですか?
白川 そうでした。清水崑さんは、近藤日出造さんと並んで、いわゆる似顔漫画、風刺漫画の二大双璧でしたよね。今で言えば、山藤章二さんみたいなもんです。どういういきさつで清水さんに頼む事になったのかは、つまびらかじゃないんですけど、僕は渾大坊さんと一緒に鎌倉へ行って、清水崑さんにお目にかかって、清水崑さんから原画を頂いて帰ってきたんです。それを参考にして、大工さんが中心になってキャラクターを作った。それで、結構みんなで面白がってね、それぞれのアニメーターや管理職の……。
── 似顔絵ですか。
白川 ええ。(『少年猿飛佐助』のキャラクターは)似顔絵になっているんですよ。どれが誰の似顔かは記事に書かない方がいいですね。後で僕が怒られるから(笑)。そういう風にみんな、それぞれが面白がりながら、色々キャラクターを作っていったわけね。この花野原さんの画は(仕上がったキャラクターとは)ほとんど似ても似つかないですよね。だから、これ(花野原デザイン)とこれ(アニメデザイン)の間に清水崑さんの画があったわけでしょうね。
── 『少年猿飛佐助』って、先行して同じタイトルの実写映画が3本作られてるんです。現場の方としてはそれのアニメ版だという意識はあったんでしょうか。
白川 あんまりなかったと思いますね。僕はその3本を観たという記憶もないんですよ。
── キャストも重複しているんです。この時の真田幸村の役者さんが、実写の時の猿飛の役者さんなんですよ。
白川 ……誰?
── 中村嘉津雄さん。
白川 萬屋錦之介の弟さんだよね。ああ、そうですか。
── 多分、『少年猿飛佐助』の実写に出てた縁で呼んだという事だと思うんですけど。
白川 それは関係ないと思う。中村嘉津雄も桜町弘子も、京都撮影所の第一線の役者さんですよね。吉田義夫なんてのはもう東映時代劇の大悪役じゃないですか。薄田研二もそうだし、松島トモ子は、大アイドルだったわけだしさ。このキャスティングは完全に東映京都撮影所の、現役役者を網羅したキャスティングなんですよ。今の話は、あなた達の読み過ぎだと思う。
── この時もプレスコなんですか。
白川 これはアフレコだったと思いますね。
── できるだけプレスコでやろう、という方針だったわけではないんですね。
白川 『夢見童子』や『こねこのらくがき』はプレスコでやってたわけですよ。「アニメーションっていうのはプレスコでやるもんだ」という考えがあったんでしょう。ところが『白蛇伝』でやっていくうちに、「もっとこうした方がドラマが面白くなる」と言いながら、つまりその場その場で変えていった部分があったために、プレスコが合わなくなった。で、『少年猿飛佐助』も、次の『西遊記』も、僕の演出した『わんわん忠臣蔵』も、歌の部分はプレスコですけど、いわゆるドラマとか台詞の部分は全部アフレコです。

●白川大作インタビュー(2)へ続く

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