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東映長編研究 第10回
 白川大作インタビュー(2) 
 手塚治虫と『西遊記』

── 次の『西遊記』は企画から関わっていらっしゃるんですよね。
白川 ええ。渾大坊さんとお茶飲みながら「白川くん、次は何かね?」みたいな話になったわけですよ。最初は中国の『白蛇伝』で、次が日本の『猿飛』だから「3作目はまた中国に戻ればいいじゃないですか」と僕は言ったんです。
── 西洋に行くという発想はなかったんですか(笑)。
白川 ああ、なかったですねえ。なぜかというと、ディズニーが圧倒的に強かった時代なんですよ。下手に自分達が西洋物をやったって、上手くいくはずがないと思われるわけでね。それで「中国のものと言えば、何たって『西遊記』でしょう」と言ったら、「うん、そりゃそうだろうな。何かいいアイデアはないかね」と言われて。「手塚治虫という漫画家がいます。彼が『ぼくのそんごくう』という『西遊記』を元にした漫画を描いてる。手塚さんの原作を使った『西遊記』はどうだろう」という話をしたわけ。そしたら渾大坊さんが「おう、それは面白いかも知れないな。君、ちょっと手塚くんに連絡を取ってくれんか」という話になって、それで、僕は手塚さんとこへ電話したんですよ。その時に、どうやって手塚さんの電話番号を調べたのか、ちょっと記憶がないんですが、多分、どこかの出版社に聞いたんだと思うのね。当時、代々木初台に手塚さんは住んでたんですよ。それで電話したら、すぐに会ってくれる事になった。それで渾大坊さんと一緒に手塚さん家に行ったんです。その時は『少年猿飛佐助』の作業中ですから、藪下さんはそっちにかかりっきりなわけですよ。ですから、準備は渾大坊さんと僕とでやらなきゃならないわけです。
 手塚さんに会った話は、今までもあちこちでも話しているんですが、とにかく寒い日だったんですよね。昭和33年の暮れに近くなった頃なのか、次の年の早春なのか、ちょっと記憶がないんですが、息が白くなるような日だった。霜柱もあったから、次の年の2月くらいだったかも知れないね。で、手塚さんの家へ訪ねていったら、前でアシスタント連中がキャッチボールなんかしてて。そのキャッチボールしてたのが誰だったのかは、あまりはっきりしないんですが、井上英沖だったり、月岡貞夫だったりなんだろうと思う。で、手塚さんは徹夜明けで寝ていたらしくて、しばらく待たされて。布団部屋みたいなとこへ通されて、そこで渾大坊さんと僕は待っていた。そこへ手塚さんがきて「実は、こういう事を考えてるんだけど、ご協力頂けないか」と言ったら、ふたつ返事で「やりましょうやりましょう」って、非常に調子よく決まったんですな。その時、手塚さんが「富士見台に今家建ててるから、そうしたら大泉まですぐ近いから、ちょうどいい話だ」という話をしていました。
 手塚さんは、アニメーションをやりたくてやりたくてしょうがなかった。それで、ディズニーについても、非常によく研究していたし、知識もいっぱいあった。それで「ストーリーボードから入りたい」と言い出したわけですよ。ストーリーボードを全部描くと言い出したわけ。こっちにしてみれば願ってもない話だった。ところがそれは手塚さんの、いつもの安請け合いだったんです(苦笑)。
 とにかく、その時は手塚さんはアニメーションをやるという事で意気込んだわけですよ。そうすると当然、雑誌の仕事にしわ寄せが行くわけだ。その時、すでに大売れっ子でしょ。本当は漫画の連載だけで目一杯のはずなのに、アニメーションの方にウエイトを置いちゃったから、雑誌の方が全部押せ押せになっちゃうわけですよ。あの人は、連載の仕事にしても話がくるとほとんど断らんわけですよ。それだけの量がこなせる超能力者ではあったんだけどね、人間だからいつも上手くはいかない。どっかで穴が開いたり、編集が待たされたりするわけなんだけど。
── この場合の「ストーリーボード」というのは、いわゆる絵コンテの事ですか?
白川 絵コンテとストーリーボードというのは、同じと言えば同じなんですよね。非常に微妙なんですけど、シナリオが最初にあって、それをカット割りして画にするのを絵コンテと称してるんですよ。ストーリーボードというのは、シナリオの前に、アニメーター達が自分のイメージで「こんなような画がいい」とか、「こういうレイアウトになったら面白い」とかって言いながら、作っていくわけ。
── ストーリーボードは1枚1枚、バラバラに作りますよね。
白川 バラバラです。
── いわゆる絵コンテだと、1枚の紙にコマが並んでるわけですが、この場合の手塚さんもバラバラのものを描く事を提案したんですか。
白川 そうです。自分のイメージを描いたものをボードに貼っていって、それで、それを入れ替えたり。ここに1枚入れたい、と言って足したり。
── 実際にそれをやったんですね。
白川 やりました。
── 『西遊記』の資料は随分残っていて、書籍にも載っているんですが、それは全然見た事がないです。色も塗ってあったんですか。
白川 いや、ほとんど塗ってないですね。
── ストーリーボードという言葉と、イメージボードという言葉があるみたいなんですけど、それはどちらかと言うとイメージボード?
白川 いや、イメージボードというのは多分、そのシークエンスのイメージを作り上げるための画であって。色つけたりなんかして、きれいに仕上げてるもんじゃないかって気が僕はするのね。
── なるほど。じゃあ、この場合はストーリーボードで話を進めましょう。
白川 ディズニーなんかでも、ストーリーボードという言い方をしてるんですよ。脚本家のイメージじゃなくて、絵描きのイメージから入るのが、ストーリーボードのやり方なんですね。手塚さんはそっちの方をやろうとした。
── その時のものは、ひとつのシーンの中のカットを細かく描いていたんでしょうか。それとも、ひとつの情景をひとつの画ですましていたんでしょうか。
白川 どっちかというと大きな形を描いて、それを段々ブレイクダウンして、細分化していく方法だったんですよ。ところがね、実を言うと、それはあんまり上手く行かなかったの。
── あ、そうなんですか(苦笑)。
白川 なぜかと言うと、手塚さんのスケジュールがどうにもならなくなったからです。それで、当時の手塚さんのマネージャーが、編集に責め立てられて、どうにもならない事になっちゃったわけ。それで、手塚さんが僕に「ちょっと東映動画まで行ってられない状況になった。それで、やり方を変えたい。自分のギャラから金を払うから、助手を雇って作業してもいいか」と言い出したんですよ。それで、連れてきたのが石森(石ノ森)章太郎と月岡貞夫なんです。当時の石森は、、「漫画少年」に「二級天使」などを描いて、そこそこ売れ出してたわけだけど、まだ大スターではなかった。で、月岡君は手塚さんのアシスタントだった。この2人を東映動画へ連れてきたんですよ。それで、手塚さんは東映動画へはあまり来られなくなった。
── 石森さんと月岡さんの仕事は、どういったものだったんですか。
白川 手塚さんが描いたラフなストーリーボードを清書する仕事です。『西遊記』の準備室で、月岡君達がストーリーボードを描いて貼っていました。『少年猿飛佐助』の作業中だった藪下さんも、時々見にきていた。それで、藪下さんが「ここにアップはあった方がいいんじゃないかな?」と言うと、石森がアップを描いて貼り込んだりね。手塚さんも時々、仕事の合間を縫って見にきて、内容について討議していました。
── 手塚さんは『西遊記』では絵コンテは描かれてないんですか。以前、展覧会(「日本アニメの飛翔期を探る」)の時に、これが手塚さんが描いたコンテとして展示されていたんですが。
白川 (資料を見て)ああ、ここに載っているのは月岡君の画だね。今言ったように、手塚さんを中心にしてストーリーボードを描いたんだけど、ストーリーボードは1セットしかない。それぞれが持って帰って、内容を検討できるように、携帯用のストーリーボードを作ったんですよ。バラバラの紙に描いていたボードを、このように月岡君と石森が、絵コンテ用紙にまとめて、印刷したんです。
── これは厳密に言うと、絵コンテではないんですね。
白川 手塚さんのストーリーボードを元にディスカッションして、次に植草圭之助さんに脚本を書いてもらう事になった。初期の黒澤作品も何本か書かれている大ベテランですよね。植草さんが脚本を書いて、その脚本を元に藪下さんがカット割りをして。で、月岡君が絵コンテを清書するみたいな事になったのかな。
── え? その段階の絵コンテにも月岡さんは参加してるんですか。
白川 月岡くんと石森は、最初は手塚さんが連れてきた助手なんだけど、やってるうちに2人とも「このままアニメーションをやりたい。東映動画へ入りたい」と言い出したわけ。その時、僕はまだまだ入って2年目ぐらいのペーペーだけど、僕が保証人の1人になって、月岡君を東映動画に入れたんですよ。石森は個性が強すぎて、上手いんだけどアニメーターには向かないと思ったんです。
── 石森さんの後の活躍を考えると、正しい判断でしょうね。
白川 「やめろ。あんたは、ちゃんと漫画をやれ」と言ったんですよ。「もうちょっと漫画を描いて、漫画が売れるようになったら、その頃は、俺ももうちょっと偉くなってるだろう。その時はお前の原作買いに行くから」って。それが後の『サイボーグ(009)』になるんですよ。その後ですよね、石森が段々売れ出したのはね。もし、その時に彼が東映動画へ入ったって、途中で辞めたと思うけどね。あの東映のアニメーションの制作システムの中で、石森章太郎が、大工さんや森さんの下についてアニメーターになれたかって言ったら、多分、なれないですよ。だけど、月岡君は天性のアニメーターだったから。
 で、『西遊記』の話に戻ると、キャラクターも手塚さんが全部作ったんですよ。ところが、これが東映のアニメーターから総スカンだったんです。要するに「デッサンがなっちゃない」とか「前と後ろが違う」とか、画としてしっかりしてないと描けないというのが、アニメーターの意見だった。
── このパンフレットに掲載されているのが、その時の手塚さんのデザインなんですか? これが総スカンを食ったものと考えていいんでしょうか。
白川 そうそう。これが総スカンを食ったものですよ。それでね、清水崑さんの画をみんなが直したのと同じように、みんながそれぞれ修正を始めたわけです。だけど、そこに月岡君がいたから。彼は東映動画の中では全くの新参の若者だったわけだけど、才能もあったし、鼻っ柱も強かったからね。キャラクターデザインのかなりの部分を月岡君が担ったんです。
── そうなんですか。
白川 それと東映動画の制作(作画)のやり方というのはね、シークエンスごとに描き手を決める場合と、キャラクターごとに分ける場合――ディズニーなんかもそういうところありますけど――、例えば牛魔王は古沢さんだとか、羅刹女は中村さんだみたいな事があったわけです。キャラクター分けとシークエンス分けがミックスしていたわけですね。それが一番上手く行った例が、ずっと後の『わんぱく王子(の大蛇退治)』とか『ホルス』になると思うんです。
 最初のうちは、どうしてもやっぱり(手が)早い人が沢山描くっていうようなシステムだった。だから、どうしても早い大工さんが多くなる、逆に森さんは少なくなる。『西遊記』の時は、割とシークエンスで分けていた。原画家それぞれの持ち味を活かして、火焔山の噴火口の上での孫悟空の闘いは、全体は大塚さんの班で、部分的に月岡君が描くとか、そういうやり方になっていたわけ。魔物達の饗宴のとこは杉井ギサブローがやるとか、悟空と燐々のラブシーンは森さんとか、そういうように分けていったんだ。それで分けていったところで、大体自分が担当するシーンのキャラクターを作った。自分が持ったシーンのキャラクターなら、なるべく描きやすい方がいいわけだから。
―― 手塚さんが現場にいなくなってから後、キャラクターに関して月岡さんが、まとめ直したという事なんですね。さらにそれをアニメーターが直していった?
白川 うん、そうだね。手塚さんの画がまずあって、それを月岡君が全部もう1回ビーブローして、それで一応決定するわけですよ。それから今度はシークエンスごとに、原画家が少しずつ修正する。で、最終的に決まるわけ。
── このパンフレットを見ると、『西遊記』では同じキャラクターについて、何人もの人がキャラクタースケッチを描いていますよね。コンペ式に各アニメーターに描いてもらってオーディションをしたようにも思えますが。
白川 若干そういう気分もあったかも知れないね。
── それは、どの段階でやられた事になるんですか?
白川 月岡君が描いたのと、他のアニメーターが描いたのがどっちが先だったかな。
── 何段階もあったんですね。
白川 そう。何段階もあった。悟空なんかは大体、手塚さんの原案に近いわけですよ。一方、三蔵法師や牛魔王はかなり変わってるわけです。最終的には、それぞれのアニメーターの持ち味とか、アイデアとがミックスされている。手塚さんの元のイメージも残っているけれど、少しキャラクターがアニメーター寄りになっていったわけだ
── 物語の話に戻りますが、手塚さん自身が、自分が描いたものが東映の人達によって直された結果、全く別のものに再構成されたと、何度かコメントしていますよね。
白川 うん。そういう風に手塚さんが受け取るのも当然だと思いますよ。でも、最初に言ったあるひとつの事が、見る角度によって違って見えるというのが、その事なんです。東映動画のアニメーターの中には、ずっと手塚さんの原作あるいはキャラクターが、ある種の縛りとしてあったと考えている人もいるでしょうし。手塚さん側からすると自分が「こういう風に作りたい」と思ってたものと似ても似つかないものになってしまったという気持ちもあるだろう。例えば、手塚さんが、どうしてもこうやりたいのに、東映動画の現場に反対されてできなかったのが……。
── 燐々の事ですか?
白川 燐々を殺すべきでないと、一番強く主張したのは、僕なわけです。
── あ、そうなんですか!
白川 手塚さんは、そうすれば悲劇で終わる世界最初のアニメーションができた、と言うんですよ。だけど、僕は絶対にそれは嫌だと言い張ったんです。せっかく映画を楽しみに来た子供達を、悲しませて帰すような事はしたくないと思ったんですよ。第一、お釈迦さまや観音さまが付いていてそれはないだろうって。藪下さんも同じ意見でした。で、手塚さんも、最後は承服した。もちろんしぶしぶでしたけどね。それが、良かったか悪かったかは別として、アニメーションというのが――特に当時の東映動画の作品が、色んな人が色んな立場でいろんな物事を言って、それが最終的に集約されていくシステムで作られていた事は事実だから。誰が言ったから悪いとかさ、誰が間違ってるとか、そういう事は必ずしも言えないと思うね。
── 手塚さんのストーリーボードの段階で、燐々は死んでるんですか。
白川 死んでいました。手塚さんが東映動画へあんまりこられなくなってから、ラフで描いてきたストーリーボードに、燐々のお墓に、悟空がぬかずく画があったのを覚えています。準備室でストーリーボードを元に内容について討議している段階で、僕は「これは絶対反対だ」と言ったんです。
── そういったドラマ面での問題もあって「やっぱり脚本家を入れよう」という事になったわけではない?
白川 そうではなかったと思う。脚本を入れるという理由として、もうひとつは手塚さんの場合は、吹きだしがわりに簡単な台詞みたいなのは書いてあったけど、それはドラマとしての台詞ではなかったわけですよ。台詞をきっちりしたものにしなくてはいけない、というのも脚本家を入れる理由ではあったよね。
── 脚本家の方は、その手塚さんのストーリーボードを見ながら書いた?
白川 そう。印刷した携帯用の方を持ち帰ってね。
── 絵コンテの話に戻りますが、脚本から絵コンテを起す段階でも、月岡さんは参加してるんですか。
白川 そうですね。月岡君はずっといたからね。手塚さんが連れてきてからずーっと東映動画にいた。彼がいちばん手塚さんの画を知ってるわけだし、非常に似てるし。それから、なんたって手が早い。だから、彼が絵コンテを全部……でもないな。シークエンスごとにみんなで描いたから。
── ああ、なるほど。月岡さんが描いたところもあるわけですね。もう1度このパンフを見てください。こちらが東映サイドで描き直されたものだと言われているんですが。
白川 ちょっと記憶があまり定かではないんですが……。これ(パンフレットでアニメーターが描いたとされているもの)は月岡君が描いたものだ。

●白川大作インタビュー(3)へ続く

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