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■東映長編研究 第13回
白川大作インタビュー(5)
メイキング・オブ『わんわん忠臣蔵』
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── 次は『わんわん忠臣蔵』についてうかがいたんですが。
白川 あれは、動画スタジオ所長の高橋勇さんの一言から始まったんですよ。
── 高橋さんが、企画に関わられる事もあったんですね。
白川 そうです。高橋さんは、割と時代劇的な発想が強かったんです。『安寿と厨子王』も高橋さんが「山椒大夫をやろう」と言い出して始まった企画だった。それで『わんわん忠臣蔵』の時には「犬の忠臣蔵は、どや!」と言い出して。
── 「どや」って(笑)。高橋さんは関西の人なんですか。
白川 確か、広島の出身でしたかね。高橋さんのイメージでは『わんわん忠臣蔵』は「のらくろ」スタイルだったんです。つまり、二本脚で立った犬が出てくるようなものだった。それこそ忠臣蔵の衣装を着た犬が、二本脚で立ってチャンバラやるみたいなイメージだったんですよ。だけど、僕は犬を主人公にしたものをやるんだったら、ディズニーの『わんわん物語』みたいなスタイルにしたいと思った。それで「これはやっぱり手塚さんだ」と思って、手塚さんところに協力を求めたわけです。
── 高橋さんが「犬の忠臣蔵だ」と言った段階で、白川さんが監督というのは決まっていたんですね。
白川 決まっていました。話をしているうちに段々と思い出してきたけれど、その準備段階に、非常に時間がかかったんです。手塚さんのラフな絵コンテが出来上がるまでに時間がかかって、それで、僕はずっと富士見台の手塚邸に入り浸っていたのよ。そこには編集の待合室あって、出版社の編集者と一緒に手塚さんの原稿を待つわけです。どうしても週刊誌の方が締切が早いから、先行せざるを得ないわけね。で、雑誌の原稿と原稿の間に1枚ぐらい、絵コンテがくるんですよ。
── (笑)。
白川 だけど、雑誌の編集者にしてみれば、「あいつがいなかったら、もっと原稿が早くもらえるのに」という感じで、僕は目障りでしょうがないわけ。編集連中では、桑田(裕)さん(編注:当時の光文社の手塚担当。後に虫プロダクションの常務になる)あたりが、アンチ白川の急先鋒でさ、「あんにゃろー、ブン殴って簀巻きにして石神井川へ叩き込む!」みたいに言ってました(笑)。まあ、これは冗談半分だけど。一方、東映の方では「白川は全然出勤してこない。朝から手塚のところへ行って帰ってこない」と言われていて(笑)。そんな状況だったんです。
── この時もシナリオなしで、絵コンテを進めたんですか。
白川 そうです。手塚さんは構成をシノプシスで描くんじゃなくて、鉛筆でコマ割りした画で描くわけです。それを他の漫画原稿と並行して描いていた。だから、1日待っても絵コンテがそんなに沢山はもらえない。そういったわけで、絵コンテというか、ラフコンテの段階でえらい時間がかかった。
── 『わんわん忠臣蔵』は昭和38年の12月に公開されているわけですが、最初から年末公開を目指していたんでしょうか。
白川 そうですよ。『忠臣蔵』と言ったら、やっぱり年末ですよね。僕は『ねずみのよめいり』が終わった後から、かなり長い間、『わんわん忠臣蔵』の準備をやってたわけです。『ねずみのよめいり』が完成したのが昭和36年の秋だから、おそらくその直後から『わんわん忠臣蔵』の準備を始めていたんでしょうね。
── 手塚さんが描かれたラフコンテというのは、どのぐらいの内容だったんですか。ストーリーが全部分かるぐらいのものですか。
白川 そうです。主人公のロックとか、恋人のカルーとか、キラーとかいうのも、手塚さんがつけた名前だった。手塚さんに描いてもらった中で、展開や尺の問題でカットした部分もあるんです。例えば手塚さんの原案では、ロックは、カルーと町のペットショップで会うはずだった。カルーはペットショップにいて、そのウィンドウ越しに出逢うんです。今井正さんの「また逢う日まで」で有名なガラス越しのキスのシーンがあったじゃない。ああいった感じですよ。ガラス越しに仲良くなるんだけど、カルーが、お金持ちの奥さんに買われていってしまう。で、「カルー、どこへ行くんだ?」と言ったら、歌舞伎の「わたしゃ、売られていくわいな」なんて台詞を言ったり。そういう遊びも結構あったんだけど、結局、野良犬の仲間のお嬢さんみたいなかたちにしてしまった。だから、手塚さんが作った構成を必ずしもそのまま利用したわけではない。
── そもそも、徹底して「忠臣蔵」のパロディをやろうとしていたわけではないんですね。
白川 うん。「忠臣蔵」の主君の仇が、『わんわん』では親の仇になっていて……。
── キラーは、ロックにとっては親の仇ですけど、街の犬達にとっては別に……。
白川 主君でも何でもない。
── 手塚さんのコンテの段階では、もうちょっと忠臣蔵寄りだったりしたのではないんですか。
白川 いや、そういった事はない。例えば野良犬たちが元々山にいたとか、そういう事はなかった。「忠臣蔵」のストーリーを忠実にやろうとしていたわけではなくて、むしろ、手塚さんのイメージとしては「忠臣蔵」よりも、巌谷小波(さざなみ)の『こがね丸』からの影響が大きいと思いますね。
── それは白川さんの方から提案したわけではなく、手塚さんのアイデアなんですか。
白川 「こがね丸」を取り入れる事については2人で話しました。ご承知かどうか知らないけど、「こがね丸」という物語は、子犬の親の仇が虎なんです。だから、「忠臣蔵」と「こがね丸」をミックスして、それを無国籍的にしたという事です。
── キラー達が動物園に行ってしまって、最後に遊園地で戦いがある、というのも手塚さんのコンテにあるんですか。
白川 それは手塚さんのアイデアです。
── じゃあ、大筋としては手塚さんのアイデアに沿って?
白川 うん。ほとんど手塚さんのものですよ。
── キャラクターデザインについても、白川さんが雑誌編集者のように手塚さんのところに通って、少しずつもらったわけですね。
白川 そうでした。
── 手塚さんは、この作品に関しては一度も東映動画には足を運ばなかったんでしょうか。
白川 責任持って「一度も来てない」と断言はできないけれど、多分、来てないと思います。
── そういう意味では『西遊記』の時とは違う。
白川 違います。その前の『シンドバッド』の時は、最初の頃にちょっと来ていたような気がしますね。
── 話を戻しますが、『わんわん忠臣蔵』で手塚さんが描かれた絵コンテというのは、いわゆるストーリーボードの形で1枚にワンカットが描かれたものではなくて、コマ割りになってるものだったんですね。
白川 うん。マンガ原稿のコマ割りみたいなものを、東映動画のコンテ用紙に描いた。
── 『西遊記』の時には手塚さんのものが再構成されて、随分と違ったものになったと言われていますが。この場合はどうだったんですか。
白川 そういった事は、あまりなかったね。手塚さんのコンテを元にして脚本を書いて、それから絵コンテにした。
── 『わんわん忠臣蔵』の脚本は、飯島(敬)さんと白川さんの連名になってるじゃないですか。これはどういうやり方で書かれたんですか。
白川 どういうやり方をしたんだったかな。手塚さんの作ったラフコンテを元にして、2人で書いたんだと思う。シークエンスごとに手分けしたかなあ。それで、お互いに読み比べて意見を言い合って、また直して、みたいな事をやったんじゃないかな。
── クレジットでは、「犬の忠臣蔵を」と言い出した高橋さんの名前は、企画としては入っていなくて、吉田信さんと渾大坊五郎さんと飯島さんの3人が出ているんですよ。
白川 と言うことは、制作の途中で高橋さんが本社へ戻ったんじゃないですか。それで、吉田信さんが所長になったんだ。
── なるほど。企画の1人目に名前が出ているのは、その時の東映動画スタジオの管理者の名前なんですね。渾大坊さんの名前も出ていますが。
白川 渾大坊さんは、ブロデューサーですよ。ずっと東映動画にいらしたわけですから。
── 『西遊記』の時からずっといらしたんですか。
白川 そうです。
── 企画の3人目に飯島さんの名前が出ているんですけど、飯島さんは『わんわん忠臣蔵』だと、制作プロデューサーですか。
白川 ……どういう風になってたかなあ。多分、企画の段階だけの参加じゃないかな。
── この時、白川さん自身の所属は何になるんでしょうか。制作部に在籍していたんですか。
白川 企画部に所属して、演出をやっていたんだと思う。その辺は自分でもあんまり自信ないんだけどね。
── 白川さんにとっては、独り立ちして監督した初めての長編になるわけですが、どのような意気込みで臨まれたのでしょうか。
白川 意気込みは、最初はあったんだけどね。正直言うと、いざ取り掛かってから、かなりビビッたんですよ。というのは『西遊記』では、後半、自分がまあ演出みたいな形でまとめたわけだけど、すでにレールは全部敷かれてた。ところが『わんわん忠臣蔵』の場合、自分に内容に関する決定権があって、全責任をとるわけじゃないですか。しかも、1年間、スタジオ全部がその作品のために動いて、数千万の予算を遣うわけです。それを成功させなきゃならないという事になると、相当な責任があるわけですよ。正直言うと相当にビビッたね。もう投げ出したくなるぐらい(苦笑)。
── (笑)。
白川 まあ、ノイローゼになるほどではなかったけれども、正直、絵コンテを切ったりする時には随分悩んだ。例えば藪下(泰司)さんだったら、日動時代から色々な作品やりながら経験を身に付けてるし、芹さん(芹川有吾)は新東宝でずっと助監督をやってきて、中川信夫といった巨匠についてきた経験がある。僕自身はただ漫画が好き、アニメーションが好き、映画が好きだ、というだけであって演出家としての経験を積んでいないんですよ。絵コンテでひとつのカットを決めるにしても、ロングにするかアップにするかといった事について、言ってみれば無限の選択肢があって、それを決めなきゃならないわけですよ。これは、悩み出したらきりがない。だから、意気込みはあったんだけど、いざやってみると、その責任の重圧で挫けそうになったのは事実ね。
── 具体的な内容についてうかがいたいんですが。『わんわん忠臣蔵』のファーストシーンって、かなり大胆な背景動画から始まるじゃないですか。あの導入は、白川さんの発想なんですか。
白川 いや、それは手塚さんのアイデアです。手塚さんの頭の中には、今までに観た膨大な映画の知識が入ってるわけ。あれは『バンビ』の冒頭を手塚さんはイメージしたわけだし。
── なるほど。
白川 そんな風に作ったところが、いくつもあるんです。『西遊記』でも、悟空が仙人のところを目指して山を登っていくと、鷲のような鳥の影が見える。驚いて振り返ったら、鷲に見えたのは鳳凰で、それが飛んで行くというところがあるんです。あまりその効果は出なかったんだけど「戦場にかける橋」を狙ったんですよ。
── そうなんですか。
白川 「戦場にかける橋」で日本軍の捕虜になっていたウィリアム・ホールデンが、脱走するわけですよ。ジャングルの中を逃れて、精根尽きて倒れると、禿鷲の群れみたいなのが回っていて、それが突然襲ってくる。ハッと見上げると、鳥だと思ったのは凧だった。人家があるところまできていて、子供達が上げている凧だったというシーンなんです。そういう風に、手塚さんは感銘を受けたシーンとかを入れるのが好きなわけ。確か『わんわん忠臣蔵』でロックが町へ出て来て、愚連隊と出逢うところは「ウエストサイド物語」のはずだよ。
── それはちょっと雰囲気が出てますよね。それでは『わんわん忠臣蔵』のカメラワークなどを決め込んだ正式な絵コンテは。白川さんが通しでお描きになったんですね。
白川 ええ。
── コンテの清書はどなたがやられたんですか。
白川 清書は誰だっけなあ(苦笑)。手分けをしたような気がするな。前の作品が終わった人から描いてもらったんだと思う。大工さんもある程度描いているはずです。
── キャラクターは手塚さんの原案があったとして、デザインはどなたがやったんですか。
白川 デザインは大工さんがやっている。キラーは楠部さんだったかな。ひょっとして、小田部くんや奥山さんがデザインしたものもあったかもしれないけれど。それは本人達に確認してもらった方がいいな。キャラクターデザインは大工さんが中心になって作ったけれど、原画を担当したアニメーターの持ち味が、キャラクターに出ている。ロックの子供時代と、お母さんは森さんにやってもらった。
── 狸もそうですか。
白川 狸の主だったところは彦根くんがやった。カルーが奥山さん。灯台のシークエンスは全部、小田部くんがやった。
── 灯台で少女がロックを助けるシーンが、小田部さんの作画だと聞いています。別のシーンを挟んで、また灯台に戻って、ロックと少女の別れになりますよね。そこも小田部さんですか。
白川 うん、全部、あそこは小田部くんだった。
── それは、凄い。
白川 凄いというのは、どういう意味?
── あの場面は、かなり芝居が緻密ですよね。
白川 うん。彼は、ほとんどあそこしかやってない。かなり時間をかけて描いていた。
── 別れの方は、ひょっとして森さんかと思いました。
白川 森さんは、最初の森のシーンだけだったと思うな。
── 森のシーンと言っても、最初のキツネと子鹿の追っかけは違いますよね。
白川 うん、あそこは大工さんなんだ。母親のところにロックが駆け寄るところは、森さんだよ。
── 子守歌のイメージシーンも?
白川 そうそう。あれが森さん。森さんは、あそこだけやって『ガリバー』へ行っちゃったかな。
── じゃあ、森さんが担当した量は少ないんですね。
白川 量は少ない。
── その前にロックが、他の小動物とかくれんぼするところがありますけど、あそこも森さんじゃないんですか。
白川 森さんだったかもしれない。
── 遊園地のクライマックスは楠部さんですか。
白川 遊園地のクライマックスは、大工さんと楠部さんだったね。
── 冒頭の狐のオーバーなアクションとかは、大工さんなんですね。
白川 大工さんです。
── ロックが町に来た時に、車がいっぱい走っていて、ロックが驚くところがありますね。ちょっと奇抜な感じの。
白川 それも大工さんだね。
── ああー、なるほど(笑)。じゃ、ああいった派手なおどけたようなところは。
白川 割と大工さんが描く事が多かった。
── 大工さんは、オーバーな芝居がお得意だったんですね。
白川 得意というか、大工さんの持ち味だよね。
── 些末な事なんですけど、ロックが少女に別れを告げて去っていくシーンで、寝ている女の子の掛け布団が蝶々の柄なんです。女の子は布団から顔だけ出してて身体は見えないんですけど、寝返り打った時に、蝶々の羽根がちょうど少女の脚と同じ形になって、まるで布団の下の脚が透けて見えるかのようになるんです。それがちょっとエロチックなんですが(笑)。
白川 それは僕は覚えてない(笑)。
── 作画をした小田部さんのアドリブですかね。
白川 (演出的に)そういう意図はなかったと思うけれどねえ。
── 児玉(喬夫)さんが、タイトル・デザインとしてクレジットされているんですが、オープニングは作画も児玉さんなんでしょうか。
白川 そうです。
── 役職はタイトル・デザインだけど、画面のレイアウト構成を含めて、作画まで全部やったという事ですか。
白川 そうです。玉ちゃんが作画を全部やりました。あれは長セルでね。繰り返しだから、枚数はそんなに多くはないんだけど、犬をいっぱい描かなければいけないわけですよ。誰も仕上げのやり手がないものだから、あれは家へ持って帰って、うちのカミさんにやらせたの。
── あ、そうなんですか(笑)。
白川 この前、話したようにカミさんは、当時はもう虫プロに移籍していたんだけど。
── 当時の児玉さんは、社内でどういう位置づけの方だったわけですか。『ガリバー』でもミュージカルシーンをおやりのようですけど。アート的なシーンがお得意だったんですか。
白川 彼はそういうものが好きだったし、長けていた。『わんわん忠臣蔵』のオープニングも、玉ちゃんが「やらせてよ」と言ってきたような記憶がある。彦根くん、児玉くん、それから小田部くんは、大体同じ年に入ってきて、それぞれ評価されていましたよ。
── 『わんわん忠臣蔵』であるシーンの原画を誰にやらせるかという事は、大工原さんが中心になって決めてたんでしょうか。
白川 相談しながら決めました。大工さんと私とが、シークエンス毎に割り振りをしていって。「ここは誰、ここは誰」みたいな感じで分けていったと思うけど。
── お話の事に戻るんですけど。ロックが都会に行ったり、動物園や遊園地が舞台になったりしますよね。「忠臣蔵」というタイトルからすると、かなりモダンな舞台だと思うんですけど。
白川 「忠臣蔵」だからと言って、手塚さんも僕も、時代劇を作る気は全くなかった。どちらかと言うと、やりたかったのはディズニー的なものだよね。だから、舞台設定もそういったものではない。背景に描かれている看板の文字も、日本語でもなければ英語でもないよね。
── 無国籍性な感じにしたのは、海外への輸出を考えていたから、というわけではないんですか。
白川 いや、そういった意識はあったよ。
── この作品でも美術でお2人の名前が出ているんです。鳥居塚誠一さんと沼井肇さんなんです。鳥居塚さんは、実写で美術をおやりだった方ですよね。実際に美術の作業をやられたんでしょうか。
白川 やっていますよ。レイアウトは、主に鳥居塚さんにやってもらった。
── そうなんですか。色彩設計で浦田(又治)さんの名前が出ているんですけど、この場合の浦田さんのお仕事というのは。
白川 それはキャラクターの色彩設計です。
── 浦田さんはキャラクターの色彩に関与してるだけなんですか。背景の方は?
白川 背景も描いていたよ。横井(三郎)くん、浦田くんは描いてましたよ。沼井さんも描いてました。さっきも言ったように、レイアウトのメインは鳥居塚さんにやってもらっていました。沼井さんは日本画の出だから、あまり画に奥行きがないんですよ。鳥居塚さんは劇映画をやっていて、建築パースとかの専門家なんです。
── 『わんわん忠臣蔵』でも、レイアウトは美術先行だったんですね。
白川 この時も、美術がレイアウトを描いて、原画マンが組み合わせ線などを決めて、1回それを少し修正して、背景に戻すとかという形だったと思う。ただ、狭いスタジオの中で作画も美術も全部やっていたわけだから、割とお互い行き来して、相談しながらやってたからね。そこら辺は割と融通無碍にやっていたような気がするなあ。
── 追い込みの時期は、かなり大変だったんじゃないですか。
白川 僕は、この時に月230時間の残業をしてるんですよ。で、それが本社で問題になった。「こんなことは不可能だ」って(笑)。で、実を言うと、その月はボーナスより残業手当が多かった。
── (笑)。
白川 でも、事実そうなんですよ。ずーっとスタジオに泊まり込みで、寝られなかった。とにかくちょっと寝たら、その瞬間に起こされるんですよ。だって、原画が呼びにくる、動画が呼びにくる、背景が呼びにくる、でしょ。作画が終わっても、撮影がある、録音がある、だからね。やっているうちに記憶喪失に近い状態になるんですよ。
── スケジュールがなくて、思ったように作れなかった部分はないんですか。
白川 それはなかったと思うね。少なくとも、最初に作った絵コンテに基づいたものは作ってるわけだから。「時間がないから、ここのシークエンスは手を抜こう」というような事はなかったよね。
── 『わんわん忠臣蔵』は東映の2本体制の最初の作品ですよね。社員の人数が2倍になってるわけじゃないから、極端に言うと、半分の戦力で長編1本を作らなくてはいけない体制だったと思うんです。『西遊記』から『わんぱく王子』までの作品と比べて、スケジュールや予算、作画枚数に関して、『わんわん忠臣蔵』から変化した部分はあったんでしょうか。
白川 それはないと思いますよ。少なくとも大きな変化はなかった。
── 音楽は渡辺浦人さんで、主題歌の「わんわんマーチ」が中村八大さんですね。中村八大さんの起用は、白川さんが決めたんですか?
白川 そうです。八大さんは、やっぱり当時の一番の売れっ子でしたから(編注:「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「明日があるさ」等のヒット曲を手がけている)。それと「わんぱく戦争」というフランス映画があって、その主題曲、テーマ音楽に近いイメージの曲が作りたかったんですよ。中村八大さんなら、そういった曲が作れるだろうと思って頼みました。ただ、そういった部分は、全てを監督が決めるというスタイルでもなかったんです。例えば高橋さんや吉田信さんからの意見が入っていた。御存知かどうか知らないけれど、吉田信さんは、音楽の世界では大変に力のある人だったから。
── そうなんですか(編注:吉田信は作曲家としても活躍。ヒット曲も残している。また、NHK芸能部長等を務めた経験もあるようだ)。
白川 例えば渡辺浦人さんや作詞の西沢爽さんの名前は、僕の知識や好みではなくて、吉田さん達から出てきたものだよね。
── 『わんわん忠臣蔵』の仕上がりについて、手塚先生はどう仰ってましたか。今、うかがったお話だと、それまで手塚さんが関わられた2作よりは、多分、本人の思った通りのものに近いわけですよね。
白川 あんまり、誉められたり貶されたりした記憶がないんだよ。確か、試写が終わった時に「うんうん」と頷いたような気がするな。それがどういう意味なのか。「まあ、こんなもんかな」と納得してくれたと解釈もできるけれど、それは分からないよ。
── 『西遊記』に関する手塚さんのコメントは沢山残っているんですが、『わんわん忠臣蔵』については目にした記憶がないんですよ。『西遊記』については「思った通りにならなかった」と。
白川 だからね、今考えると、非常に不思議だよね。思うようにならなかった東映動画から話がきて、また引き受けてしまうところがね。
── 不思議ですよね。普通ならやらないですよ。しかも、『わんわん』の頃は、もうTVの『アトム』が始まっているわけですし。
白川 『わんわん忠臣蔵』に関しては、僕が1本立ちで監督になるなら、という事でやってくれたのだろうと思うんだけどね。
●白川大作インタビュー(5)へ続く
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