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■東映長編研究 第14回
白川大作インタビュー(6)
『風のフジ丸』と「東映まんがまつり」の始まり
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── 『わんわん忠臣蔵』以降の事も、少しうかがわせてください。白川さんは『わんわん』が終わられてから、プロデューサーの方に回られたんですか。
白川 いや、その前に『フジ丸』をやってるね。『わんわん忠臣蔵』が終わる前に、手塚さんが『鉄腕アトム』を世に出すわけです。そうすると、アニメの世界が一変した。まあ言ってみれば、そこで第1次アニメブームがくるわけだ。国産のTVアニメを中心にしたね。それまでは、TVアニメーションというのは、アメリカからの輸入したものだったわけです。それが『鉄腕アトム』の成功で一変した。特にお菓子屋と民放各局が、TVアニメーションのシリーズが欲しいという事で血眼になるわけだ。当時、アニメーションの制作能力を持っているところと言ったら、虫プロ以外では、東映動画くらいしかないわけだよね。明治製菓スポンサーの『鉄腕アトム』が大当たりしたもんだから、次にグリコがスポンサーの『鉄人28号』。それで出遅れた森永が、東映商事(現・東映エージェンシー)に話を持ちかけた。東映商事から東映動画に相談がきて、「企画を何にするか」という事になった。そこで、月岡君が「『ジャングル・ブック』を元にしてやろう」と言い出して、それで『狼少年ケン』ができるわけだよね。だから、あれはほとんど月岡貞夫の企画・原案・原画みたいな作品ですよ。
── 『フジ丸』は、東映のTVシリーズ第2作ですが、この企画はどのように決まったかご存じですか。
白川 そもそもは大阪電通からの話なんだよね。大阪電通から、藤沢薬品(工業)がアニメーションをやりたい、時代劇でやりたいという話がきた。
── 最初から、時代劇と決まっていたんですか。
白川 そう。それで忍者ものをやりたい、と。
── え? そこまで決まってたんですか?
白川 うん。それで、とにかく僕の方でそれをやれ、という事になって。僕は白土三平さんと組もうと思ったんですよ。
── 「忍者ものをやる」までは決まっていたけれど、原作を何にするかは決まっていなかったんですね。
白川 そうです。だから、僕は結果的には白土さんには非常に悪い事したという思いがあるんです。白土さんに「忍者ものをやるので協力してくれ」とお願いして、白土さんもそれをOKしたわけですよ。ところが、東映動画は『狼少年ケン』でキャクタービジネスが儲かる事を知ったんですよ。ところが白土さんの原作を使うと、権利を分けなくてはいけない。それで、途中で白土さんの原作を使うのを辞めようという事になった。
── 確かクレジットでは、28話まで原作として白土さんの名前が出ていますね。それで途中から、これは斎藤侑さんのペンネームだと思うんですが、原作が木谷梨男名義になるんです。
白川 その辺で、白土さんに降りてもらう事になったんだろうね。実際に白土さんの原作を使わなくなる時に、どういうやりとりが東映と白土さんの間にあったのかは、僕は全然知らないんだけれど。
── 最初は白土さんの『風の石丸』を原作にして、途中から『忍者旋風』を使っていたんですよね。それで、スポンサーが藤沢薬品だから、タイトルと主人公の名前を『フジ丸』にして。
白川 そうです。
── 現場の方も、白土さんの漫画をアニメにしているんだという意識でやっていたんですね。
白川 僕はそういう意識でやっていました。ただ、後に他社で白土さんの原作をアニメ化したものとは全く違って、『フジ丸』のキャラクターは白土さんの画ではなくて、楠部大吉郎のキャラクターであったりするわけです。これは『西遊記』等での手塚さんの場合と同じですね。前にも言ったように、アニメーターが自分の描きやすいキャラで描くというのが、当時の東映動画のやり方だった。だから、誰の原作を持ってこようと、東映動画流になっちゃうところはあったね。タイトルも白土さんの原作をそのまま使っているわけではないし、そういう意味だと、最初から原作通りのアニメ化だったとは言い難いかもしれないな。
── 『フジ丸』には番組の最後に「忍術千一夜」という実写のコーナーがついていたんでしたよね。
白川 そう。実写を入れれば、その分だけ作画が少なくていいから。
── え? それが理由なんですか?
白川 そうだよ。
── そんな消極的な理由だったんですか! 女優の本間千代子さんを聞き手にしてやっていて、豪華な印象があるんですけど(笑)。
白川 当時としては、30分ものを週に1本作るというのは、相当大変な事だったわけですよ。しかも、同時に『狼少年ケン』や長編もやりながらやっていた。あのコーナーをつければ、それだけの時間、作画をしなくて済む。
── 途中から「忍術千一夜」はなくなるようなんですが。
白川 やってる間に制作体制もできてきたし、アニメーターも馴れてきたという事でしょう。そうなれば、実写でやっていた部分をアニメにした方が制作費が安く済みますから。
── 『フジ丸』もTVシリーズの総集編を劇場にかけているわけですが、そもそもTVアニメを劇場にかける事を最初に提案したのも、白川さんだったとか。
白川 そうなんです。その頃の東映は、アニメの長編と実写の時代劇の2本立てで興行をしていて、『わんわん忠臣蔵』も併映が『柳生武芸帖』だったんですよ。『わんわん忠臣蔵』の時だったか、『西遊記』のリバイバルの時だったかは記憶が定かではないんですが、僕は時代劇を併映するのに反対したんです。「絶対にマンガと一緒に組ませるべきだ。『狼少年ケン』があるんだから、これを上映しよう」と言ったんです。
── ちょっと調べてきたんですが、「日本アニメーション映画史」を読むと『わんわん忠臣蔵』の劇場公開の時に、テスト・ケースとしてTVシリーズの第2、3話を編集して劇場公開した、とありますね。東京地区限定のようですが。
白川 じゃあ、その時の事なんでしょうね。『狼少年ケン』を劇場でやろうと言ったんですが、東映本社の方は「TVで観たものを誰が劇場で観るんだ」という意見だった。それでも僕がワンワン言い続けたら、「試しにやる」という事になって。最初は渋谷東映だけでかけたんですよ。他の新宿東映とか、丸の内東映は、京撮の時代劇と組ませた。そうしたら初日で結果が出た。『狼少年ケン』と組ませた方が入りがよかったんです。それで、急遽プリントを焼いて、3日目か4日目に全部差し替えたわけ。
── 『わんわん忠臣蔵』と「柳生武芸帖」に、さらに『狼少年ケン』もくっつけたんですか。
白川 いや、確か「柳生武芸帖」は外したんじゃないかな。その辺はよく覚えてない。とにかく、TVアニメを劇場でかけようと主張して、それが成功した。
── 翌年まで、東映は何度も『狼少年ケン』を上映しますよね。
白川 その時に「TVアニメでお客が入るんだ」という認識ができたわけ。後に、TVアニメをビデオにした時と同じですよ。最初は「TVでやったものを売り物にして誰が買うんだ」と言われていたけど、やってみれば売れたわけでしょう。
── この成功が後の「東映まんがまつり」につながっていくという事ですね。白川さんは、その後、企画の仕事が主になっていくんですか。
白川 『フジ丸』の終わりぐらいに「企画課長をやれ」という話がきたんですよ。東映の本社からきた平沢明さんという方が部長になって、その下で課長をやってくれという話だったんです。僕は管理職になるなんて思ってもなかったけど、その話を受けて、現場から離れて企画の仕事に専念するようになったわけね。さっきも話したように、それまで僕は企画課員として演出をやっていた。同僚だった飯島も、有賀さんも、横山賢二くんも、私が課長になった事で部下になってしまった。それで企画課長になっての、初仕事が『サイボーグ009』になるんです。
── そうなんですか。
白川 東映動画は、それまで東映本社から受注を受けて、年に1本長編を作るというスタイルだったけれど、それだと収入が上がらないわけですよ。勿論、TVのアニメの仕事は増えたし、そのTVのアニメが劇場にかかって、興行の分け前もある程度もらえるようにはなってきたけれど、そんなに儲かっていたわけではない。だから、仕事を増やさなきゃならないと考えて、企画書を書いて、東映本社にプレゼンテーションした。
つまり、年に1本長編を作る。その基本路線は世界名作である。それをA作と呼ぶと。で、もう1本作る。TVアニメをやってきた事によって制作の能力も向上したし、フルアニメじゃない作り方も身についた。だから、それまでやってきた長編とTVアニメの中間に位置する、B作を作るという計画だったです。A作が世界名作を基本にするのに対して、B作は原作に人気漫画などの知名度のあるものを持ってきて作る。それをプレゼンテーションして、通ったわけですよ。B作の第1作として、『西遊記』の時に約束をしてた、石森章太郎の『サイボーグ009』をやった。で、次に、NHKで非常に人気が高かった『ひょっこりひょうたん島』をアニメーションでやる事にしたわけね。
── 「A作」「B作」という呼び方は、白川さんの命名なんですね。
白川 命名というか、企画書にそういった事を書いたんです。
── その後、『サイボーグ009』の第2作の『怪獣戦争』で脚本を確かお書きですよね。これは、どうしてそういう事に?
白川 どうして、そうなったんですかねえ(笑)。
── 芹川さんがコラムで、その時の事を「白川氏の豊富な発想力に啓発されるところ大であった」と書かれていますが。
白川 どんな風に関わったか、あまり憶えてないんですよ。
── クレジットでは、飯島さんと芹川さんと白川さんの3人の名前になってるんですが。
白川 書いたのは、飯島敬と僕だったような気がするけどね。芹さんが書いていた記憶はあまりないんだ。『サイボーグ009』で覚えているのは、石森章太郎の原作でやると決めた後に、東映本社から「タイトルを変えろ」という話がきた事ですね。今となっては嘘みたいな話だけど、「サイボーグなんて言葉は、誰にも分かんない」と言うんだ。「ロボットとか、もっと分かりやすいタイトルにしろ」と言われたわけ。
── それを白川さんが説得したんですか。
白川 うん。僕は「サイボーグじゃなきゃダメだ」と言ったんです。最後は納得してくれたんだけど、東映本社は相当に強硬でしたよ。
── ちょっと話は前後しますが、TVアニメで、白川さんが演出をやられたのは『フジ丸』だけなんですか。
白川 東映動画ではね。裏ではちょこちょこやってたけれどね。
── それではアルバイトでやられたお仕事についても、少しうかがわせてください。『アトム』の「赤い猫」(34話)というエピソードでコンテを切られていますが、これは『フジ丸』をやる前なんですか。時期的には微妙なんですが。
白川 前後関係は分からないなあ。
── 『アトム』の「赤い猫」でコンテを切られたのは間違いないんですね。
白川 それは間違いない。
── このエピソードで、白川建設の大作少年というキャラクターが出てくるんですけど。
白川 僕は、そんなコンテは切ってないね(笑)。
── そんなあ(笑)。
白川 それは虫プロの方で入れたんじゃないかな。余談だけど、僕の名前をインターネットで検索すると、石森章太郎の原作の魔法もので「白川大作」という役名が出てくる。『透明ドリちゃん』だったかな。その名前を石森がつけたのかどうかは分からないけど。
── 石森さんが遊びでやった可能性はありますね。白川さんが『アトム』でやられたのは、その1本だけですか。
白川 1本だけだと思いますね。
── コンテだけやったんですか。
白川 コンテだけです。処理はやらない。他社のものは皆そうです。『オバQ』もそうだった。『狼少年ケン』で、パクさん(高畑勲)が演出したやつで、1本、脚本を書いているんですけどね。
── それはどういうお名前で描かれてるんですか。
白川 あれ、名前は「白川大作」でじゃなかったかなあ。『サリー』も1本ぐらい脚本を書いたな。タイトルは「おじいちゃまの誕生日」だったかな(25話)。
── 高橋潤一というペンネームをお使いですよね。これにはどんな由来が?
白川 高橋というのは、うちのカミさんの実家の姓です。潤一は、長男の名前の淳からとった。字は違うんだけどさ。
── ピープロの『ハリスの旋風』では、チーフディレクターをおやりだったそうですけど。その時、東映での役職は何なんですか。
白川 企画課長だった。
── じゃあ、『ハリスの旋風』をおやりの時は、東映の方にはあんまり出勤しないで……。
白川 いやいや、昼間は東映に出勤して、帰ってから夜なべ仕事でコンテを描いて。
── 他の方のコンテチェックはしていたんですか。
白川 いや、打ち合わせをして、絵コンテを切って、それを渡すだけだった。現場の作業はしていないです。チーフディレクターといっても、いい加減な関わり方だったかもしれない。
── どれくらいのペースでコンテ切ってたんですか。
白川 ……どれくらいだったかなあ。最初の方は結構やっているよ。『風のフジ丸』で大阪電通の担当だった藤島さんと知り合って、ピープロで『ハリスの旋風』をやる時に、藤島さんが僕のところへ声をかけてきたんですよ。「大さん、やってくれよ、頼むよ」って。
── そうなったのは、ピープロにチーフディレクターとして立てる人がいなかったという事なんですか。
白川 そうなんですかね。そのあたりの事は分からない。
── 企画課長として関わられた長編として、『ひょっこりひょうたん島』や『アンデルセン物語』等があるわけですね。
白川 元々、『ひょっこりひょうたん島』はNHKの番組ではあるけれども、権利は劇団ひとみ座が持っていたわけですよ。だから、ひとみ座と話をしてアニメ化を進めたんです。
── 監修として、片岡昌という方の名前が出ていますが、これはひとみ座の方なんですよね。
白川 確かそうだったと思います。『ひょうたん島』のプロデューサーは、有賀さんでしょ?
── いや、有賀さんは名前は出ていません。企画として出ているのは、関政次郎さん、浦田郁也さん、籏野義文さんです。
白川 ああ、そうか。これは籏野くんだ。で、次の『アンデルセン物語』が有賀さんだね。『ひょうたん島』で、井上ひさしと山元譲久に脚本を頼んだのだけど、次の『アンデルセン』の時に有賀君が「あの2人をもう1回使いたい」と言い出したんだ。
── そういったかたちで、『長靴をはいた猫』まで井上さんと山元さんコンビの脚本が続くんですね。
白川 そうです。それで、これは東映動画の歴史の中に全く残っていない事だけど、実は、有賀さんが最初に持ってきた企画は『ムーミン』だったんですよ。
── えっ? そうなんですか。
白川 今でこそ『ムーミン』を知らない人はいないわけだけど、当時は有名ではなかったし、それを膨大な予算がかかる劇場作品としてやるという事に関しては、ちょっと賛成できなかったわけ。だから、有賀さんに聞いたら「自分が『ムーミン』のアニメ化を言い出したのに、白川が蹴った」と言うかも知れないけど(笑)。実は、そういう事があった。それがあったので、後に僕が博報堂行ってから、ズイヨーの高橋(茂人)さんが『ムーミン』の企画を持ってきた時に、「ああ、あれか」とすぐ分かったんです。それから『アンデルセン』についてだけど、企画書の原案を作ったのは、矢吹(公郎)君のカミさんなんだよ。
── 矢吹さんの奥さんって、何をやられていた方なんですか。
白川 奥さんは、東映動画で仕上げをやっていました。もう結婚して辞めたんだけど。そもそもは奥さんのアイデアなんだよ(笑)。つまり、アンデルセンの伝記に、アンデルセンの童話を挿入していくというプランは。
── クレジットに、奥さんの名前が出てないじゃないですか(苦笑)。
白川 うん。勿論、出ない(笑)。『アンデルセン』の頃から、作品が落ち着いてきたよね。
── そうですね。
白川 ひとつの作品の中に色んな個性が存在して、ガチャガチャするんじゃなくて、その作品のトーンができてきたような気がする。『太陽の王子ホルス』みたいにシチュエーションごとにトーンがきっちりとまとまっている作品もあるけれど。
── 『ホルス』も企画課長時代の作品ですよね。
白川 ええ。『ホルス』では、僕は、パクさん達が持ってきた企画を通す側でした。
── 『長靴をはいた猫』には関わらずに、東映をお辞めになっているんですか。
白川 いや、『長靴をはいた猫』の企画を言い出したのは僕なんだ。具体的な作業は有賀さん達がやってるわけだけど、一番最初に「次は『長靴をはいた猫』はどうですか?」と言ったのは僕なの。それから、TVでは『魔法使いサリー』から『ひみつのアッコちゃん』までをやっている。
── 『サリー』から『アッコちゃん』までの時期の作品は、企画課長という立場から、ひと通り関わっているんですね。
白川 ひと通り関わっています。『西遊記』で石森章太郎との縁ができて、それでトキワ荘と縁ができて、次はスタジオゼロと付き合いが始まった。スタジオゼロのビルに遊びに行ったりしていたから、赤塚(不二夫)の昔の少女漫画を結構読んでるわけです。赤塚の作品に「ミータンとおはよう」というのがあるんです。『天才バカボン』のハジメちゃんみたいな赤ちゃんと、ミータンという猫の話で、僕は非常に好きな漫画なんです。僕はTVアニメでそれをやろうと思ったの。
── それは『サリー』の後として考えていたんですか。
白川 いや、それとは全然関係なく考えていた。だけど、『サリー』の後に何を作るか考えなくてはいけない時に、「『ひみつのアッコちゃん』があるな」と思い出したわけ。それで赤塚のところへ行って、「『ひみつのアッコちゃん』をやらせろ」と言ったわけ。そうしたら、赤塚はビックリしちゃって「そんな作品は自分も忘れてた。なんで白川さん、そんなの覚えてんの?」って。
── (笑)。その時点で、すでに過去の作品だったんですね。
白川 「『魔法使いサリー』の後を『ひみつのアッコちゃん』にする」というところまでは、僕が決めたんです。『あかねちゃん』の企画も似たところがあるんです。『ハリスの旋風』で、ちばてつやさんと関係があったから、「『あかねちゃん』をやろう」という話が生まれたりさ。
●白川大作インタビュー(7)へ続く
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