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animator interview
大橋学(1)
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大橋学には、アーティスティックなクリエイターという印象がある。
『グリム童話 金の鳥』、『宝島』のオープニング、エンディング、『ロボットカーニバル』の「CLOUD」……。その画風は絵本的であり、イラスト的。また、「雲」のような自然物のアニメートを得意とするアニメーター。
だが、それは彼の一面に過ぎない。大橋学はモノクロアニメ時代から、最新作『METROPOLIS』まで、様々な作品に参加し、常に一線で活躍してきたベテランアニメーターだ。名作の誉れも高い、『元祖天才バカボン』の「天才バカボンの劇画なのだ」も彼の作品であるし、近年の合作劇場作品『チャイニーズ・ゴーストストーリー』では今風のリアルなアクションの作画を手がけている。『ガンバの冒険』や『家なき子』の頃のマッドハウスでは、作画の主力として活躍していた。
東映動画自体からマッドハウス時代の話を中心に、今までの仕事を振り返っていただく事にしよう。
2001年6月9日
取材場所/東京・スタジオ雄
取材/小黒祐一郎
構成/小川びい
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PROFILE
大橋学(Ohashi Manabu)
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1949年生。栃木県出身。アニメーター。中学卒業と同時にTVアニメ黎明期の東映動画に入社。以後マッドハウス等を経て、現在フリー。初原画は『レインボー戦隊ロビン』。以後、『ピュンピュン丸』から『ガンバの冒険』、『家なき子』、ゲーム『ポポロクロイス物語』に至るまで多数の作品で活躍。特に『元祖天才バカボン』の「天才バカボンの劇画なのだ」、『宝島』オープニング・エンディングは、彼らしい画風が全面に出た作品である。まとまった仕事としては、キャラクターデザイン・作画監督を務めた劇場『グリム童話 金の鳥』、マオラムドのペンネームで、監督・シナリオ・キャラクターデザイン・原画・美術を1人で手がけた『ロボットカーニバル』の「CLOUD」が代表作として挙げられよう。現在は、なかむらたかし監督の新作『パルムの樹』に参加中。
【仕事歴】
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小黒 大橋さんは、東映動画のTV制作が始まった頃から、現在の『METROPOLIS』に至るまで、ずっと一線で活躍されている方なので、今日は色々とうかがえればと思っているんです。特に、マッドハウス時代の事は、そもそもマッドハウス自体が、あまりアニメ雑誌でも取り上げられた事がないので、そのあたりを詳しくお訊きできれば、と思ってます。
大橋 どこから始めましょうか。
小黒 そもそも東映動画に入られたきっかけはなんだったんですか? と言うか、もともとアニメが好きだったんですか?
大橋 アニメも好きだったんだけど、もともと好きだったのは劇画です。ちょうど小学校から中学校に上がるぐらいの時に、貸本屋があるのを見つけて……。貸本屋って、秘密めいた雰囲気があって、それで夢中になって読んだ。俺が特に好きだったのは日の丸文庫の劇画。後の劇画制作集団のさいとうたかをであり、あるいは永島慎二であり……。まあ、好きな人は大勢いますけど。大阪の日の丸文庫にも、よくハガキのカットを投稿して、載せてもらっていたんです。で、当時、さいとうプロが新宿にある事を知り、よく遊びに行ったりもしました。余談だけど、後年、東映動画で再会するんだけど、欽ちゃん――鈴木欽一郎さんが、さいとうプロでアルバイトしてて、仲良くなったりしてました。
小黒 鈴木欽一郎さんと言うと、アニメーターの?
大橋 そうそう。だから、東映の長編も好きだったんだけど、そんな感じで、いずれは劇画家になりたいと思ってたんですよ。ところがね、中学3年の時に、新聞に東映動画の新人募集の広告が出ていたんですよ。それで、姉に履歴書を書いてもらって応募したんです。そうしたら、多分、向こうもこんな若いのは初めて採るという事で興味があったのでしょうか? 何しろ、他の人はどんなに若くても高校卒業ぐらいだから。今から思えば不思議な事に、面接もすんなり通って、中学3年の10月にはもう内定をもらったような感じでした。
小黒 それは凄い。
大橋 その頃、すでに虫プロの『鉄腕アトム』の放映は始まっていたんです。それでも、「俺は東映に入るんだ」って意気揚々としてた。当時、東映は憧れで、虫プロというのはまだよく分からなかったから。でも、もうちょっと後だったら、虫プロに入ってたと思う(笑)。
小黒 ははは。
大橋 で、中学3年を終えて3月27日に……つまり、卒業の次の日に行ったら、もう養成所は始まっていて、そこには30歳の人がいたり、若くても20歳ぐらいまで、10人ぐらいの人が養成を受けていた。そこに15歳で入って。熊川正雄先生(東映の前の日本動画からのアニメーター)に教わったんです。
養成期間は3ヶ月ぐらいあったんだけど、途中より始めたから、もう2ヶ月ぐらいで現場に行きなさい、という事になったんです。それで、「どの現場がいいか選びなさい」と言われてね。で、『風のフジ丸』の現場に行ったら、沢庵みたいに木を切るカットとか、凄く格好いい画をいっぱい見せられた。それで、いいなと思って、『風のフジ丸』の現場に入ったんです。同期の半分以上は、『風のフジ丸』に行きましたね。
『フジ丸』の現場には、楠部大吉郎さんと、小田部(羊一)さんがチーフとしていて、その他の方は、木村(圭市郎)さんや羽根(章悦)さんが原画としていました。そこでは、原画と動画が交互に机を並べて、座らされたんですよ。今じゃ考えられないけど、そうやって育てられました。
小黒 じゃあ、動画のあがりも、すぐその場で見てもらえるわけですね。
大橋 うん。必ずしも担当の原画がすぐ隣というわけじゃないんだけどね。
小黒 ああ、そうか。
大橋 自分としては授業の合間にノートにいたずら描きしている、遊びの延長のような感覚で。凄く楽しかった。それでお金をもらえるというのが、自分にとっては嘘みたいな話で。しかも、できあがったものは、1週間に1回、試写室で見られるし。だから、始めて1、2年は夢のような世界でしたよね、今から考えれば(笑)。
小黒 『フジ丸』はいかがでした?
大橋 動画の勉強になりましたね。ずいぶん中に枚数が入っていたから、フルに近い感じで。当時の原画は、今と違って、きちっと清書してない、ラフな線なんです。特に小田部さんの原画は、シュッシュッとシャープに線が引いてあって、2本の線が引いてあるような感じだった。それがまた微妙な曲線なんで、動画としてはどの線を拾っていいか分からない。そうなると、線の真ん中を採るわけ(笑)。そんなふうに、かなり動画に任されていた。今とは随分違ってね。今は寸分の狂いもない原画を描くっていう時代だから。
小黒 そうですね。
大橋 今は、「これ以上太い線を引いてくれるな」というぐらい細い線で原画を描くけど、当時は、力を入れないと引けないような太い線だったんだよ(笑)。アップの時は特にね。今のトレスマシンと違って、当時のゼロックスは強く引かないと、線が出ないんです。だから、10枚描くともう疲れちゃう世界。
でも楽しかった。描けば描くほどお金がもらえるっていうシステムだったから、今から思うと夢のような話だけど、15歳で15万円ももらった時もあるくらい。給料以外に、出来高払いが10日にいっぺんあったから、週給みたいなものだった。TVの草創期って、みんなが稼ぐ時代だったんです。まあ、その後、2、3年の間に賃金を安くする動きが起こって、大量にアニメーターが辞めていく事になるんだけど……。
次の『レインボー戦隊ロビン』の時に、俺を原画にしてくれたのが、作監の木村さんなんですよね。東映動画は、正式に「原画です」って任命されなければ、原画を描いてはいけないんだけど、木村さんが、何カットかコンテを持ってきて、「この原画を描いてみな」って言ってくれたんです。そういうところが、木村さんの特徴なんだけどね(笑)。それで、描いてしまったなら仕方がないという事で、原画の契約になったんです。
小黒 その後は?
大橋 その後が『サイボーグ009』の――この時は確か17歳だった――最初は劇場版だったかな。これは『ロビン』が終わった後に、旅館に缶詰になって、芹川(有吾)さんの絵コンテを木村さんと一緒に清書したんです。
小黒 そうなんですか。
大橋 でね、そのコンテが評判よかったから、というのでもないだろうけど、大塚康生さんが『009』のスタッフに興味持って、頻繁に遊びに来るようになったんだ。まあ、木村さんと大塚さんが非常に仲良かったんだよね。と言うのも、2人とも車好きだったんだよ(笑)。だから、実は、『009』のアニメーターを影ながら指導してくれたのは大塚さんなんだよね。あれは大塚さん達が『ホルス』の作業に入り始めた頃かもしれない。
小黒 大橋さんは、『009』ではメインだったんですね、もう。
大橋 うん、そうかも。原画マンが4、5人しかいないからね。
小黒 劇場が?
大橋 うん。TVもそう。
小黒 当時の話題としてよく話に上るのが、木村さんの激しいアクションですけど、大橋さんはどうだったんですか?
大橋 もう、木村さんのコピーでしたよ。
小黒 ああ、そうなんですか!
大橋 あのね、木村さんは『風のフジ丸』の時からアクションは派手でしたけど、大きく変わったのは……。実は、タツノコプロの『紅三四郎』を木村さんと一緒にやった頃じゃないかな……。
小黒 それはアルバイトで?
大橋 そう。正確には木村さんは東映にいて、俺は東映をやめてフリーだった。それで、タツノコプロの作品がいいんじゃないか、って。劇画調の画が好きだったから。それで、『マッハGoGoGo』や『紅三四郎』を何本かやったんですよ。
小黒 お2人で?
大橋 その後、村田四郎さんと3人でやるようになります。で、『紅三四郎』をやってから、『タイガーマスク』になるから、その影響はあると思いますね。例えば、伊達直人と三四郎ってちょっと面影がダブりますよね。
『紅三四郎』の仕事を当時、木村さんのところで一緒にやっていたんだけど、その時に、同時に木村さんは『タイガー』のキャラクターを作っていたんですよ。
小黒 ああ、なるほど。
大橋 木村さんは、形をとるのが巧かったですね。顔を描かずに、まずプロポーションだけで、先に動きを作ってしまうんですよ。顔なんか後から描けばいい、って。動かすのが楽しいんで、ひとつひとつ顔を描いていると先に進まないんですよね。早く先の動きを作りたいんで、そうやっていたんです。そういうのは、俺も影響受けているよね。結構、木村さんそっくりに描いていたと思う。
小黒 ちょっとお尋ねしたいんですけど、『ロビン』から『タイガー』の頃って、木村さんは、ある種スターだったわけですよね、社内で。
大橋 うん、そうですね。
小黒 『ロビン』の頃から頭角を現す、っていう感じだったんですか?
大橋 いや、多分、『フジ丸』で抜擢されたのがそもそもでしょう。その後、『ロビン』で作画監督だから、1年単位で上昇しているんじゃないですか。俺もその流れに乗っていったっていう感じなんですかねえ。それくらい木村さんが原画に抜擢してくれた事は大きかった。可愛がってもらったんだよね。だから、画も動きもそのまま影響受けちゃった。
小黒 『009』や『タイガー』のオープニングって、多分、木村さんの原画だと思うんですけど……。
大橋 そうそう。
小黒 今見ても、巧みですよね。
大橋 当時、動かすの大好きだったんですよね、木村さんは。俺は、一度、アニメーションに挫折して東映を辞めちゃうんだけど、対照的にその頃、木村さんはノリにノってたね。俺のアパートに、自分で描いた原画を「どうだー!」って見せにくるんです。俺はその頃、10代のシラケ世代だから、「はあ……」って、感心もしないんだけど(笑)。
小黒 なるほど。辞めてしまうあたりの話は、また後にうかがうとして、東映時代の話をもう少し続けさせてください。『009』の後が、『ピュンピュン丸』ですよね。あれもオープニングは木村さんですか。
大橋 そうです。『ピュンピュン丸』は面白かったですね。随分遊びましたから。この頃は、枚数制限がなかったんで、俺も原画枚数をふんだんに使って、1カット100枚以上というカットを随分作って、怒られました。
小黒 100枚というのは動画の枚数ですか?
大橋 うん。でも、原画も50枚以上あって。
小黒 なるほど、「やりまくり!」って感じですね。
大橋 ちょっと遊びが過ぎてましたけどね。『魔法使いサリー』でも、サリーちゃんを出っ歯にして、怒られたんですけど(笑)、『ピュンピュン丸』も、その延長線上で、キャラクターを変えてしまってね。木村さんが、ほぼノーチェックで通してくれるので、『ピュンピュン丸』では自分用のキャラ設定を作ってね。
小黒 個人用に?
大橋 ええ。自分の画が直されずに画面に出るのが快感でね。後の『元祖天才バカボン』でも、顔の下半分の出っ張りがない、丸に近いようなバカボンパパを描いていましたしね。そういうふうに、俺って、なんでも遊びにしちゃう傾向があるんですよ。
まあ、でもその間に会社に不満が溜まってきて……要するにお手伝いみたいな仕事が増えてしまったんですね。『ピュンピュン丸』はお手伝いではなかったんだけど、『サリー』とか『キングコング』とか。『サリー』もメインではなくて、1本だけ手伝うとか、木村さんの班が雑用班のような形になってしまったんです。しかも、『サイボーグ009』、『レインボー戦隊ロビン』では、ひとつだった班が、高橋信也さんの班と木村さんの班との2班に分けられてしまってお手伝い班になっちゃったんですね。
小黒 なるほど、会社として組織化が進んできた、という事なんですよね。当時の東映動画のTVの体制というのは、木村さんの班以外には……。
大橋 初期には、森(やすじ)さんが『宇宙パトロールホッパ』をやっていた班と、月岡(貞夫)さんが『狼少年ケン』をやっていた班とがありました。その作品が終了してから、多分、その2班がミックスされて、羽根さんの『魔法使いサリー』班と合作などをやる班に分かれたのだと思う。
小黒 その班っていうのは、別段、会社が決めたものじゃなくて、個々のアニメーターが自分の意志で集まったチームなんですよね?
大橋 そうですね。でも、だんだん馴染んできちゃうし、馴染まない人は班から出ていってしまうから、やっぱり、班で固まるところがあったね。
小黒 劇場のスタッフとはまた別なんですよね。
大橋 劇場はまた別ですね。だから、TV班の人は(劇場)長編の人達とは、交流を持てないんですよ、なかなか。ただ、その中でも大塚さんはよく、TVをやっている俺達のところに来てくれたって言うか、もう出しゃばるぐらいに動画の人に口出ししてきたなあ。
小黒 と言うと?
大橋 『009』の最初の劇場版で原爆が爆発する場面があるんだけど、あれ、大塚さんが描いたんですよ。
小黒 えっ、そうなんですか?
大橋 勿論、ちゃんと描いたわけじゃなくて、原画枚数にしたら、3、4枚なんだけど。俺が、その原爆のシーンのコンテを描いたんだけど、波紋のように煙が広がる光景を描いちゃったんですよ。そうしたら、大塚さんに「これは間違いだ」って言われてね。「原爆の閃光は内側に巻き込むんだ」って。そうやって理論で、簡単な原画を描いて原画の人に説明するんですよ。だから、その場面の原画の担当者は実は動画みたいなもので、原画の構成者は大塚さんなんです。
あのね、大塚さんは『風のフジ丸』でも原画を描いているんだけど、動画の人が凄く感心していたのは、原画の枚数は少ないんだけど、画面上の効果が最大限に発揮できるようになっている、って。
小黒 へえー。当時の宮崎さんはどうだったんですか?
大橋 当時はね、宮崎さんは、大塚さんに似ている、というのが周りの人の感想だったね。大塚さんは、2Bか3Bの鉛筆で、太く、ずっしりした線を描くんだけど、宮崎さんの原画は、それよりも細い線だったんだよね。俺が覚えてるのは、木材みたいなものが、爆風で手前に飛ばされてくるカットだったんだけど、「こういう爆破みたいなのが得意な人なんだなあ」と思った記憶がある。
宮崎さんと言えば、あのね、最初は『ホルス』のイメージボードはてっきり大塚さんが描いているとばかり思っていたんだよ。
小黒 あ、現場を御覧になってるんですか?
大橋 『ホルス』の制作時期は、『009』をやっている頃と時期が重なっているんです。建物も旧館と新館に分かれていたけど、廊下を挟んですぐ近くだったんだよ。夜になると、劇場のスタッフの人はみんな帰っちゃうんですね。でもTVのスタッフは、契約社員ということもあって気まぐれだから、夜中に仕事しているんですね。だから、夜に劇場班の建物に行くと見られるんですよ。ストーリーボードが毎日毎日増えていくから、楽しかったね。また、大塚さんが、口癖のように「この作品が、東映の最後になるだろう」と予言のように言ってて。その気持ちが凄く分かるから。
小黒 東映の長編の最後、という事ですね。
大橋 うん。だから、頑張ってほしいなって、素直にそう思ったね。俺なんか、TVのためのスタッフだから、余計にね。
小黒 なるほど、『009』は劇場公開しているけど、あくまでTVの延長だったわけですね。
大橋 「中編」って言ってたね。制作期間もTVの2倍ぐらいだったし……多分、2ヶ月ぐらいだったんじゃないかな。枚数もそれなりにしか使えないし。それに比べて四季を通してやっているでしょう、長編は。だから、イメージボードを見に行くと「いいなあ、いいなあ」って。そういう憧れと自分のやっている事のギャップもあって、当時、アニメーションをやるのが嫌になっていったという事もあったかもしれない。
小黒 ふーむ。
大橋 大塚さんは、しょっちゅう遊びに来てくれて、夢を語ってくれましたしね。ホルスのイメージボードを見に行くと、岩男やマンモスの画があるんですよ。最初は「大塚さんは凄いなあ」って思っていたんだけど、大塚さんから、「あれは宮さんだよ」という話を聞いて驚いたんだよね。後で知ったら、宮崎さんは俺より1年先輩ぐらいの人だったから、ほとんど新人に近いですよね。それを抜擢したわけですよ。だから、そういう意味では、大塚さんはある種プロデューサー的な事をしていたわけですよ。監督を誰にするか、という事でも会社側から相談を受けたというし。そういう意味では、木村さんが俺を拾ってくれたみたいに、大塚さんが宮さんを引っ張って、好きなようにやらせたんじゃないだろうか。話によると、宮崎さんも、『ホルス』の時に、ここが自分の腕の見せ所だと思ったらしいんだよね。そうやって、どんどん――言い方はよくないかもしれないけど――「出しゃばって」いくような精神がないとダメみたいですね。
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