第10回 『未来少年コナン』
今では『未来少年コナン』は名作として評価されている。勿論、それについて異論はない。宮崎駿の実質的な初監督作品であり、代表作。僕を含めて、宮崎駿の最高傑作だと信じているオールドファンは多いはずだ。放送が始まったのは1978年4月4日。NHKが初めて放送した30分枠のセルアニメシリーズである(それまでも『みんなのうた』や、実写とアニメを合成した『宇宙人ピピ』はあった)。放映開始前は「NHKがアニメを放送!」という理由で話題になった。今でこそNHKがアニメの放送をするなんて当たり前だが、この時は、お堅いNHKがアニメ放送に乗り出した事が、ちょっとした事件だったのだ。アニメブームだけが、NHKがアニメの放送を始めた理由ではないのだろうが、アニメブームがNHKまで動かしたのだと思い、誇らしく感じた。同じように思ったアニメファンは多かったのではないか。
最初に『未来少年コナン』のビジュアルを観たのは、新聞の新番組紹介記事だったと思う。ロボノイドに乗ったダイスが、コナンを追いかけているスチールだった。アニメと言っても、NHKが作るものだけあってちょっと子供っぽいなあと思ったのを覚えている。しばらく経ってから本編を観た時には「タイトルは『未来少年』だけど、まるで『原始少年』みたいだ」と思った。
『未来少年コナン』が放映されていたのは火曜の19時半。火曜はその前の19時から別チャンネルで『宇宙海賊キャプテンハーロック』が放映されており、火曜はちょっとしたお祭りだった。ただ、僕は1話から観たわけではない。火曜は学習塾に通う日だったのだ。『ハーロック』は毎週観ていたから、19時半頃に家を出ていたのだろう。たまたま塾が休みの日があり、普段は観られない『未来少年コナン』を観た。これが格別に面白かった。シリーズ中盤のインダストリアから脱出する話だった。あんまり面白かったので、次回も絶対に観たいと思った。それで親に「塾に行かなくても、自分で勉強をするから」と言って、塾を辞めてしまった。実際には、塾を辞めた分、自分で勉強する事はなかったので、あまりよくなかった成績は、あまりよくないままだった。
『未来少年コナン』は面白かった。だが、僕には葛藤があった。「これはアニメなのか?」という葛藤だ。前にもコラムに書いたが(「アニメ様の七転八倒」第67回参照)、『未来少年コナン』は、アニメブームの主流だった作品とあまりにも違っていた。当時の流行と言えば『宇宙戦艦ヤマト』であり、『宇宙海賊キャプテンハーロック』である。今の若い人は「『ヤマト』も『コナン』もアニメじゃないか」と思うだろうが、その微妙な違いが大事だった。雑誌マンガ的な、あるいは劇画的なキャラクター、ディテールの細かいメカ、大人びたドラマ、少々大げさで感動的な展開等が、アニメブーム時の「アニメ」だった。アニメブームで、子供向けの「テレビまんが」が、若者の娯楽である「アニメ」になった。「テレビまんが」や「まんが映画」ではなく、「アニメ」だから素晴らしいのだ。そう思っていたのに『未来少年コナン』はあまりにもまんが映画的だったのだ。健康的で明朗なキャラクターも、シンプルで丸っこいメカも、まんが映画的。当時、そのような道筋で考えられたわけではないが、『未来少年コナン』を見始めた時に感じた違和感を整理するとそうなる。インダストリアにあるメカの計器類が、松本零士作品のリアルなメーターを見慣れた目には、笑っちゃうくらいシンプルだったのが印象的だ(20年近く経って自分がコンピュータを使うようになって、メーターが一杯ついた松本零士メカよりも、シンプルな表示の宮崎メカがリアルに思えるようになるのだが)。まんが映画的だった事だけが理由ではないのだろうが、『未来少年コナン』は本放送当時には、今ひとつ人気がふるわなかった。当時から高く評価している人はいたし、影響を受けたクリエイターも多いのだが、アニメブームでは傍流の作品だった。
放送が進むにつれて、僕はのめりこんでいき、最初に感じた違和感はなくなっていった。コナンの肉体を使った軽業的なアクションにワクワクし、コナンとラナのピュアな関係を好ましく感じた。ダイス、ジムシィといった人間味ある脇役達も魅力的だった。巨人機ギガント発進に始まるクライマックスから最終回の大団円までは、本当に目が離せない展開だった。敵側のキャラクターとして登場したモンスリーが、コナン達との触れあいの中で浄化されていくのがよかった。モンスリーがダイスに「バカね」と言うのが、実に照れくさかった。最終回でも一番好きなのは、結婚式でのダイスとモンスリーのやりとりだ。身悶えするほど照れくさくてよかった。このシーンの発展形が『ルパン三世 カリオストロの城』ラストの、ルパンとクラリスの別れなのだろう。キャラクターは基本的に明朗で、ドラマの基本に性善説的なものがあるのだが、決して薄っぺらくない。それが素晴らしい。
『未来少年コナン』は動きの魅力を存分に感じさせてくれる作品だった。まんが映画的であるが、抜群の演出力でリアリティも保持している点に注目したい。コナンがラナを抱いて三角塔から飛び降りる有名な場面。あんな高いところから飛び降りて無事なはずがないのだが、コナンの痛みを大げさに描く事で、説得力のある描写になっている。他のアクションについても同様で、視聴者が「そんなバカな!」と思うような活躍も、ギリギリ「ありそうなもの」として描いている。だから、ハラハラとワクワクして観たのだ。高いところから落ちたキャラクターがペチャンコになったり、地面に人型の穴を開けたりするような、古典的なテレビまんがではないのだ。キャラクター造形も含めて『太陽の王子ホルスの大冒険』や『アルプスの少女ハイジ』を経たスタッフの手による「まんが」なのである点が重要だ。
スタッフ論的には、宮崎駿のアイデアと緻密な画面設計、大塚康生のダイナミックかつリアリティある作画が結びついた作品と言えよう。とはいえ、これも前にコラムに書いた事(「アニメ様の七転八倒」第68回参照)だが、僕は、本放送当時は「宮崎駿の作品」だと意識はしてなかった。東映長編時代から彼らの仕事を追いかけてきた人は別かもしれないが、少なくとも僕と同年輩のファンはそうだっただろう。何しろ『未来少年コナン』における彼の役職は「演出」なのだ。しかも、9話以降は、高畑勲か早川啓二と連名でのクレジットだった。
最近になって思うのは、『未来少年コナン』を作った時の宮崎駿の年齢についてだ。『未来少年コナン』は彼のアイデア、技術、熱意によって作られた作品という言い方もできる。特にキャラクターへのストレートな思い入れには驚かされる。特に、コナンとラナが水中キスをする第8話「逃亡」は凄まじい。迸っている。『未来少年コナン』を手がけた時、宮崎駿は30代後半。その年齢で、まるで青年のような熱さだ。
第11回へつづく
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(08.11.17)