アニメ様365日[小黒祐一郎]

第56回 紀子の問いと朴念仁

 『あしたのジョー2』において、矢吹丈に次いで膨らんだキャラクターが、林紀子だろうと思う。紀子は林食料品店の娘で、ジョーに想いを寄せていた。「あしたのジョー」のヒロインはあくまで白木葉子であり、紀子はサブヒロインでしかない。ジョー自身も、最後まで彼女を恋愛の対象として見る事はなかったのだが、スタッフはそんな彼女を掘り下げている。
 気になったのは「第13話 丹下ジムは…不滅です」のある場面だ。西の引退披露パーティの模様を描いた、しみじみとしたいい話なのだが、今回触れるのはその部分ではない。同じ話の前半部分だ。時は正月。カーロス戦直後であり、ジョーはまだ身体を休めている。西と紀子は、2人で浅草に映画を観に行く。2人にとっては初のデートなのだろう。浅草に向かう電車の中で、紀子は「矢吹君の誕生日って、いつかしら?」と西に問う。西は考え込んでしまう。その質問への回答は「誕生日はわからない」だった。ジョーは物心ついた時には孤児院にいた。だから、彼にも自分の誕生日は分からないのだ。映画を観た後に立ち寄った喫茶店で、西はそれに気づいて笑う。だが、ジョーが自分の生い立ちを知らないのは、紀子も分かっていたはずだ。「紀ちゃん、その事は知っとったはずや。なんで改めてそないな事を……」と西は問う。だが、紀子はそれには答えず、コーヒーを飲む。そして「美味しいわ、ここのコーヒー。ありがとう、西君。今日の映画、とっても楽しかったわ」と言うのだった。
 何気ない描写だが、何度か観直しているうちに気になった。紀子がどうしてそんな事を聞いたのかは、その後の場面でも語られていないのだ。紀子の「美味しいわ……」のセリフは、明らかに西をはぐらかすためのものであり、紀子が意味もなくその質問をしたわけではない事は明らかだ。後に西と結婚しているくらいだから、彼とのデートが嫌だったわけでもないだろう。作り手は「どうして紀子はそんな事を言ったんだろうか?」と視聴者に疑問を持ってもらおうとして、この描写を入れたに違いない。
 僕が、なんとなくだが「こうかな?」と思うようになったのは最近の事だ。恐らくは紀子は、西を試したのだろう。自分と西の距離を測ったのだ。西の事は嫌いではないが、本当に好きなのはジョーだ。西とつきあっていいのか分からない。それで、デートの最初に、ジョーの話題を振ってみた。西も本当に紀子が好きだったら「何を言ってるんや、紀ちゃん。ジョーの事なんかええやないか」と言って、別の話題に切り替えるべきだった。だが、人のいい彼は、紀子の質問に対して考え込んでしまった。その結果、紀子と西の間に、ジョーという存在がある事が分かってしまった。
 続くエピソードが「第14話 どこにある…ジョーの青春」であり、この話で、紀子はジョーとデートをする事になる。そのデートの最後で、ジョーに青春があるのかと紀子が問い、前々回(第54回改訂版 「あしたのジョー」に関する2つの解釈)、前回(第55回 矢吹丈とは何者なのか)でも話題にした、「真っ白な灰」についての話になる。その結果、紀子は、ボクシングに全て燃やそうとしているジョーに対して、自分は女としてついていけないと悟る。13話の西とのデートはアニメオリジナルであり、14話のジョーとのデートは原作にあるものだ。おそらくは14話でジョーに彼の生き方を問い、失望する紀子をしっかりと描くために、13話で彼女が真剣にジョーや西との関係について考えている事を示す描写を入れたのだろう。
 紀子が西と結婚するのが分かるのが「第40話 燃えろジョー…標的が近い」で、結婚式が「第41話 ホセ来日…闘いの日はせまった!」だ。結婚式の展開は、ほぼ原作どおりだ(余談だが、式場に入場する紀子は、素晴らしく麗しいものとして作画されている。流石のジョーが唖然としたくらいだ)。披露宴でジョーがスピーチをした際、紀子の顔は決して明るくはない。これも原作どおりだ。原作ではこの結婚式の場面で、紀子のドラマは終わっている。幸せそうではない花嫁。彼女は何を考えているのか。『あしたのジョー2』は、その前後のドラマも描いている。
 「第44話 葉子…その愛」では、西と紀子の新婚生活が描かれている。ホセ戦直前のエピソードであり、ここでも紀子は沈んでいる。西はジョーのセコンドにつく予定であり、その事ばかりを考えていて、紀子が沈んでいる事にも気がつかない。その後、彼女もホセ戦を観戦する。前回も触れたように「第46話 凄絶…果てしなき死闘」で試合中に挿入された回想によって、紀子が西との結婚を悩んでいた時期があり、それについてジョーに相談していた事が分かる。その会話の中で、彼女はジョーに対して「結婚を考えた事があるか」と訊ねていた。まだジョーに未練があったのだ。そして、いつかジョーが旅立ってしまうのではないかと言う。
 結婚式前後と、その後の紀子が沈んでいるのは、ついにはジョーが自分の気持ちに気づかなかったためであり、彼がホセ戦が終わったら、どこかに旅立ってしまうのではないかと思っているからだった。44話に関しては、新婚ホヤホヤであるのに西が紀子の事は気にかけず、ジョーの事ばかり考えているのも、彼女の気持ちを暗くしている理由かもしれない。13話でデートの最中にジョーについて考え始めた時と、西は変わっていないのだ。ジョーほどではないが、西もボクシングバカなのだ。そんな可愛そうなう立場にいる紀子だが、葉子や段平でも気づかなかった「旅人」というジョーの本質に気づいたのは、彼女だけだった。一番ジョーの事を分かっていたのは、紀子だったのではないのか。それが作り手が与えたせめてもの救いだったのだろうと思う。
 さて、以下が今回の本題だ。もしも、僕と同じ世代のスタッフが同じ原作を映像化したら、紀子にもっと分かりやすいかたちで、救いを与えると思う。例えば44話の新婚生活の描写でも、西が紀子が沈んでいるのに気がつくなり、他のところでフォローを入れるなりするはずだ。41話では、結婚式の前に、ロードワーク途中のジョーが引っ越しの準備をしている西と紀子を訪れるシーンがある。その後、ジョーと段平が2人の結婚について語り合う。「紀ちゃん、きっといい嫁さんになるぜ」「ああ、西にはもったいねえくらいだ」「おっつあんも、惚れていたんじゃねえのか。紀ちゃんによ!」「えっ、この野郎。何て事言うんだ! バカバカバカ!」と、実に平和な会話だ。ジョーと段平は、まるで紀子の気持ちに気づいてないのだ(原作では段平は、紀子がジョーが好きな事に気づいており、ジョーにそれを告げている)。2人の会話が能天気ではあればあるほど、紀子の不憫さが際立つ。このジョーと段平の会話は「男ってのは、馬鹿なものだな」という事を描いているのだろう。そこには、作り手の開き直りすら感じられる。そして「馬鹿なものだ」と描ききる事ができるのは、作り手が大人だからだと思う。

第57回へつづく

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(09.01.30)