第100回 『伝説巨神イデオン 発動篇』
今までの人生で、最も衝撃を受けた劇場アニメが『伝説巨神イデオン 発動篇』だ。ドラマも、演出も、映像も、神がかったところのある作品だった。第64回(『伝説巨神イデオン』(TV版))でも触れたように、TVシリーズ『伝説巨神イデオン』は、予定されていた最終話の数回前で打ち切りになってしまった。それがようやく完結を迎えたのが、劇場版『伝説巨神イデオン』だった。この映画は、総集編である『接触篇』と、予定されていたラスト4話分を中心とした完結編『発動篇』の2本で構成。なお、フィルム中で表記される作品タイトルは『THE IDEON A CONTACT 接触篇』と『THE IDEON Be INVOKED 発動篇』だ。公開日は1982年7月10日。
ソロシップとバッフ・クランの戦いは続いていた。イデの危険性に気づいたバッフ・クランは、ソロシップごとイデを滅ぼすために総力戦を仕掛ける。ソロシップのメンバーは、文字どおり死力を尽くして、生き残るための戦いを続ける。イデは地球人とバッフ・クランを戦わせて、互いを滅ぼそうとしているようだ。この映画では、とにかく人が死ぬ。人気キャラクターのキッチ・キッチンは、イントロに登場。映画が始まって2分経ったところで、彼女の生首が飛ぶ。そこで主人公のコスモが「バッフ・クランめ〜!」と叫んだところで、『THE IDEON Be INVOKED 発動篇』のタイトルが出て、ドラマがスタート。初っ端からエンジン全開だ。物語が進んでいく中、登場人物は全員死ぬ。主人公だけではない。ヒロインも、幼児も死ぬ。子供ができたばかりの恋人達も死んでいく。子供も敵に銃を向け、姉が妹を撃ち殺す。個々の死についての描写も容赦がない。頭を撃ち抜かれて死ぬケースが多いのは、死をはっきりを描くためか。あるいは作り手のトラウマの反映か。
ドラマのテンションは凄まじく高い。放映打ち切りにならなかったら、本当にこの内容を、公共の電波に乗せるつもりだったのかと思う。初見時には、劇場で背筋が凍った。まるで自分がソロシップに乗り込んで、破滅に向かう物語の一員になったように感じながら観ていた。「人が死ぬドラマ」だから慄然としたわけではない。全ての人が死に行く展開の中で、それぞれが生き抜こうとしているドラマだからこそ、胸を打たれたのだ。極限状態の中で、キャラクター達は己の生と業をぶつけ合う。それを表現した名セリフは多い。「みんな、星になってしまえー」「じゃあ、あたし達は何のために生きてきたの!」「私の恨みと怒りと悲しみを、ロゴ・ダウの異星人にぶつけさせてもらう。ハルルが男だったらという悔しみ、カララが異星人の男に寝取られた悔しみ、この父親の悔しみ、誰が分かってくれるんだ!」「俺達だって、ルウやメシアと一緒だ。充分に生きちゃいないんだ!」。初見時に一番強烈だったセリフは、こめかみを撃たれたハタリが、今際の際に言った「バカな。俺はまだ、何もやっちゃいないんだぞ……」だ。その悔しさは痛いほど分かったし、同情した。自分はあんな想いを残して死にたくないものだと思った。
バッフ・クランのドバ総司令の言葉が正しいならば、知的生物の欠落とは、己の業を乗り越えられない事であり、己の業とは、恐怖、憎しみ、死へのこだわりを引きずって生きていく事だ。そして、イデがソロシップとバッフ・クランに殺し合いをさせたのは、両者を滅ぼして、新しい知的生物を生み出すためだった。しかし、ドバはそれに気がついても、戦いを止めない。さっき引用したセリフのように「父親の悔しみ」という、極めて個人的な理由で戦いを続けてしまう。むしろ、意識して己の業のために戦う。自分達が業を乗り越えられない存在であるから悲劇が起きているにも関わらず、その業を力一杯にぶつけてしまう。それが、業の業たる由縁。人間が欠落のある知的生物である事の証だ(と、ここまで書くと「それを補うための補完計画」と言葉を繋げたくなる)。
『発動篇』は表現もいい。ドラマや演出のテンションに、ビジュアルや音響が充分に応えている。湖川友謙の作画が素晴らしい。とてつもなく巧いのは当然。人々が死にゆく物語であるにも関わらず、そのキャラクターの画は生命が溢れている。登場人物達が死にたくない、生き延びたいと願っている事を、画が表現している。だから、素晴らしいと感じる。役者の芝居もいい。コスモ役の塩屋翼も、デク役の松田たつやもいいのだが、カーシャ役の白石冬美が抜群にいい。当時すでにベテランであり、数多くの作品に出ていた彼女だが、僕は『発動篇』のカーシャが一番好きかもしれない。ハルル・アジバ役の麻上洋子が、また絶品。収録時に体調が悪かったらしく、声が裏返っているのだが、それが実に生々しい。あの芝居がなければハルルではない、とすら思える。
全てのキャラクターが死に絶えた後、彼ら全員がひとつの星に転生する。クライマックスの後に、精神だけの存在となった彼らが、言葉を交わすシーンがあるのだ。その場面は映像では、皆がオールヌードの姿で表現されている。業をぶつけ合い、その結果、解脱したという事なのだろう。彼らは穏やかになり、敵も味方も親しげに言葉を交わす。生前に充分に愛を育めなかった恋人達は、改めてここで愛を交わす(ここでのキャラクター描写が、実にいい)。普通なら「死んでも意識が残り、さらに転生するのなら、ここまでの死に関連したドラマチックな展開はなんだったんだ」と思うところだが、クライマックスまでの展開があまりに壮絶であったために、その場面についても「このくらいの事は起こるだろう」と思った。彼らが業を乗り越えたらしい事を含めて、その場面でほっとしたかというと、それについては記憶がない。ただただ、呆然としてスクリーンを見つめていた。イデオンとバッフ・クランの決戦のあたりから、宗教的なムードが漂っており、気分的にもクライマックスと、彼らが精神だけになったシーンは繋がっていた。
そして、ラストには加工された実写が使われている。登場人物達が転生した星を、光る海面、波等の映像で表現しているのだ。これも衝撃的だった。「ここまでは、アニメの抽象的な世界だったけれど、ここからはリアルな世界なんだな」と思った。高まり続けたドラマが、遂にフィクションとリアルの壁を乗り越えた事に感動した。『発動篇』は全速力のままゴールインし、僕は最後まで呆然としていた。
初見からしばらく「『発動篇』は、一生の間に何度も観る映画ではない」と思っていた。事実、ロードショーから、6年ほどは、ほとんど再見していない。改めて、ちゃんと観返したのは、アニメ雑誌で仕事をするようになってからだ。再見してからは、高校生の時には分からなかったドバやハルル、あるいはシェリルのドラマの深みが楽しめるようになった。流石に今では冷静に観られるようになり、高校時代の自分は入り込み過ぎていたかもしれないと思うが、それでもなお、『発動篇』は、作り手が掛け値なしの本気で作ったフィルムであると思っている。作り手が自らの業をぶつけたフィルムだ。だからこそ価値がある。富野作品流の言葉を使えば、だから、僕らは富野監督の作品に魂を惹かれた。
再見した時に驚いたのは、転生直前シーンのキッチンのセリフだ。コスモの「幸せになろうな」という呼びかけに対して「当たり前じゃない。損しちゃうもの」と彼女は返す。ああ、まだ幸せになりたいという欲が残っているんだ。まだ業があるのだと思った。きっと転生して、次の人生を歩んでも、彼らは同じような悲劇を繰り返すのだろうと思った。やはり、逆立ちしたって、人間は神様にはなれないのだ。そのキッチンのセリフに関しては、「オタク学叢書Vol.2 イデオンという伝説」(太田出版)の富野監督インタビュー中に、監督自身による解説がある。そのインタビューの最後で、富野監督は「死ぬ前にもう一度、『イデオン』のラストを見ることができたらいいと思ってます」といった意味の事を話している。あの作品を作った人が、そう言ってくれるのは嬉しいと感じた。
第101回へつづく
伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇
カラー/接触篇:84分/発動篇:99分/2層ディスク・2枚組/4:3/モノラル/
価格/10080円(税込)
発売元/ビクターエンタテインメント
販売元/タキ・コーポレーション
[Amazon]
(09.04.06)