アニメ様365日[小黒祐一郎]

第160回 大物監督達の海外合作作品

 1981年くらいだったと思うけれど、年上のアニメマニアが集まった場で、そこにいた1人が冗談で「もう出崎、高畑、宮崎は新作を作らなくてもいいよ」と言っていた。どんな場所で、誰が言ったのかも憶えていないのだけど、その発言を聞いて、苦笑したのはよく覚えている。つまり、出崎統、高畑勲、宮崎駿が作るものは傑作ばかりだから、発表されたら追いかけないわけにはいかない。傑作が観られるのは嬉しいけれど、こんなに次々と作られたら追いかけるのが大変だよ、という嬉しい悲鳴だった。思えば1970年代末に始まったアニメブームは、そういったTVアニメ初期から活動してきたクリエイター達が、代表作となる作品を次々と発表した時期でもあった。僕達はそんな傑作を観られる幸せが、いつまでも続くものだろうと思っていた。しかし、それがずっと続く事はなかった。東京ムービー新社が、海外との合作に乗り出したのが、その理由のひとつだ。
 前回の「第159回 無音で上映された『名探偵ホームズ』」でも触れたが、宮崎駿の『名探偵ホームズ』は、海外との合作としてスタートし、制作が始まった頃は、国内では観られるかどうかわからなかった。そして、1980年代前半には宮崎駿だけでなく、他の大物監督達も、東京ムービー新社で合作を手がけていた。まずは『ベルサイユのばら』を降板した長浜忠夫が、フランスとの合作である『宇宙伝説ユリシーズ31』に参加。長浜監督は制作中に亡くなっており、これが遺作となっている。1982年頃に、りんたろう監督が手がけたのは『ルパン8世』。これもフランスとの合作で、なんと『ルパン三世』の未来版。ルパンファミリーの子孫が活躍するものだった。
 当時のアニメ誌を見ると、出崎統監督のTVシリーズ『コブラ』も、放映開始前にイタリアとの合作として紹介されている。合作の話がなくなって、国内向けに路線変更したのだろう。宮崎駿は『名探偵ホームズ』の後に、アメリカとの合作による超大作『LITTLE NEMO』に参加。『LITTLE NEMO』には高畑勲、大塚康生らもスタッフとして名前を連ねていた。ここで名前を挙げた中で、一番長く合作に関わっていたのが出崎統であり、彼は『マイティ・オーボッツ』『バイオニック6』等、何本もの合作を手がけている。彼が国内作品に復帰するのは、1988年の『エースをねらえ!2』だ。スタジオ単位で言うと、宮崎駿や高畑勲だけでなく、テレコム・アニメーションフィルム自体の国内作品への参加が、ほぼなくなった、
 それらの合作作品の多くが、アニメ雑誌で取り上げられたが、いずれもいつになったら国内で観られるのか分からなかった。『ルパン8世』などは、現在でも未公開のままだ。振り返ってみると、出崎統以外の監督については、合作に参加している時期は決して長くはないのだが、僕は自分と関係のないところで大物監督達が活動している事に寂しさを感じていた。彼らがこのまま国内作品に帰ってくれなかったらどうしようかと思った。「もう出崎、高畑、宮崎は新作を作らなくてもいいよ」なんて冗談を言ったから、バチが当たったのかもしれない。
 東京ムービー新社の合作は、積極的に海外に進出するためのものだった。同社の海外進出は、成功したとは言いがたいが、非常に意欲的な試みであったし、日本のアニメ史について考える上で、避けて通るわけにいかない重要な事件だ。合作に力を入れるにしても、もっと違ったやり方であったら、宮崎駿や高畑勲が東京ムービー新社から離れる事はなかっただろう。同じプロダクションで、出崎、高畑、宮崎が腕を競い合う状況が続いたかもしれない。時々「あの時、もしも……」と考える。
 1980年代中盤から、東京ムービー新社以外のプロダクションでも、海外との合作が激増。アニメ界はちょっとした合作ブームを迎える。摩砂雪が作画した『サンダーキャッツ』オープニングなどが、アニメマニアの間で話題になるのだが、それはまた別の話。

第161回へつづく

(09.07.03)