第378回 アニメージュのライターは何でもやる
僕らは「アニメージュのライター」と呼ばれていたけれど、厳密にはライターではなかった。やっている仕事は編集者に近かった。一応、説明しておくと、ライターというのは、原稿を執筆する職業であり、編集者は、記事の企画、アポ取り、取材、カメラマンの手配、デザイナーとの打ち合わせ、入稿、文字校正、色校正と、本作りについて必要な事はなんでもやる仕事だ。編集者が原稿を書く事もある。
アニメージュにもライターが何人かいたけれど、大半が編集作業をやっていたはずだ。今のアニメージュ編集部がどうやっているのかは知らないが、僕が仕事を始めた頃は、そうだった。前にも書いたけれど、僕の場合は誰に取材するか、どの話をとりあげるか、どんな構成のページにするかも自分で考えていた。編集者からアイデアをもらう事もあったけれど、こちらから「こんなかたちでやりたいです」と言う事の方がずっと多かった。僕はネタを出すライターとして、重宝されていた。自分が担当する以外の企画についても、アイデアを求められる事がよくあった。
話が脇道にそれるが、当時「黒ちゃん、何かいい企画はないか」と訊かれて、注目を集めていたあるキャラクターデザイナーの特集をやりたいと言った事がある。その時に「アニメーターの特集? 今はそんな時代じゃないんだよ」と返されて、ちょっとショックだった。アニメージュがアニメーターの特集をやり、「THE MOTION COMIC」を出していた頃とは、雑誌の方向性も読者の嗜好も、変わってしまっていたのだ。僕らは薄々気づきながらも、TVアニメーションワールドで、アニメーターをはじめとする現場スタッフを取りあげる記事をやっていたわけだ。ひょっしたら、アニメ雑誌の流行りに対する反発心も、多少はあったのかもしれない。
話を戻すと、僕達はアニメージュの仕事で、取材もやったし、ページ構成もやったし、文字校正もしたし、色校正紙もチェックした。アニメ本編の画を掲載するための方法はいくつもあった。制作会社が用意してくれたポジフィルムを使う事もあった。カメラマンと一緒にスタジオに行って、セルを組んで撮影する事もあった。フィルムを焼いてもらってコマを切り出す作業なんて、毎月のようにやっていた。16ミリフィルムを借りてきて接写した事もあった。
接写については文章で説明するのが難しいが、三脚やライトを使った特殊なセッティングをし、接写レンズを使って、16ミリフィルムから必要なコマを選んで撮影していくのだ。接写レンズは、誰かが作った手製のものだったはずだ。セッティングにも、接写にもコツが必要だった。ちょっとした職人技の世界だった。僕はそのやり方を、前々回の原稿(第376回 潘恵子さん、すいませんでした)でも名前が出た斎籐良一さんに教えてもらった。斎籐さんはアニメ雑誌編集のプロフェショナルで、近年ではスタジオジブリ作品のロマンアルバムの編集に参加している。斎籐さんが接写したフィルムは、とても綺麗だった。
ラフをデザイン事務所に持っていった事もあったし、自分の原稿が遅れたときは写植屋まで原稿を持っていった。それどころか本指定紙のコピーをとって、写真指定紙を作って写真入稿をやったり、原稿指定紙を作って原稿を入稿したりしていた。写真指定紙、原稿指定紙なんて、一般読者どころか、DTPから仕事を始めた若い編集者でも、なんの事だかわからないかもしれないが、そういった工程があったのだ。デジタルのデの文字もない、完全アナログ編集だった時代の話だ。今になって思えば、入稿作業くらいは社員の編集者がやるべきだったのではないかとも思うけれど、当時は、何の疑問ももたずにやっていた。作業の多さを大変だとも思っていたが、やりがいも感じていた。自分が本を作っているのを実感していた。
徳木吉春さんから「アニメージュで仕事を覚えると、どこの編集部に行っても困らないよ」と言われていたが、それは本当だった。アニメージュでできる作業はなんでもやっていたので、他の編集部の仕事でやり方が分からずに困るなんてことはなかった。むしろ、執筆だけの仕事がきたりすると物足りなく感じたくらいだった。
先輩の斎籐さんもそうだったけれど、僕はページ構成で粘るタイプだった。粘るというか、ページ構成で悩むタイプだった。8ページくらいある特集で、ページ構成で時間をかけてしまうと、原稿に使える時間がほんのわずかになってしまう。スケジュールの大半を取材、素材集め、ページ構成で使ってしまい、原稿は最後に慌てて書くといったパターンが少なくはなかった。周りからはライターと呼ばれていたし、自分でもライターと名乗っていたのだけれども、やっている事は決してライター的ではなかった。
第379回へつづく
(10.06.02)