アニメ様365日[小黒祐一郎]

第485回 『火垂るの墓』のおばさん

 『火垂るの墓』を観た観客の多くにとって、清太と節子が世話になった家のおばさんは、印象に残るキャラクターだったはずだ。彼女は主要登場人物の1人であり、中盤は清太とおばさんの関係を主軸にして話が進む。彼女は、清太が配給品をもってきた時などには明るく接するが、それ以外の時には小言や嫌みを言って、きつくあたる。

 強烈だったのが、清太達の母親の着物を米に替えた前後の描写だ。米を手に入れた日の晩飯では、優しく清太と節子に接して白米を振る舞う。次のシーンは、数日後の朝食の場面だ。今度は掌を返したかのように、清太と節子に冷たく接する。おばさんの娘と、その家の下宿人(この原稿を書くまで、家にいる男性をおばさんの息子かと思っていたのだが、絵コンテ本で確認したら下宿人だった)の弁当には白米のおにぎりを用意するが、清太と節子の昼飯は雑炊だ。おばさんは、家で遊んでいる人間には米の飯なんて食べさせられない、と言う。そのおにぎりに使っている米は、清太の母親の着物を替えて手に入れたものだ。
 その前にある食事シーンも印象的だ。おばさんが、下宿人の椀によそった雑炊には具が沢山入っており、清太の椀には、わざと葉くらいしか具がないようによそう。清太は自分の椀にもられた雑炊が汁ばかりなのに気づいて、一瞬、手の動きが止まる。おばさんの娘は、自分の雑炊が節子の雑炊よりも盛りがいいのに気づいて、顔を赤らめる。セリフでは雑炊の盛りについては一言も話題にせず、画のみでおばさんが贔屓している事を観客に示し、気まずい雰囲気を表現している。演出と作画の見せ場のひとつでもあった(下宿人によそる時と、清太によそる時で、おばさんのオタマの動かし方が違うのに注目)。

 もっと直接的に、清太にきつくあたった場面もいくつかある。清太と節子は、おばさんによってじわじわと追い詰められていった。結果的に2人はおばさんの家を出て、防空壕で暮らしはじめる事になる。
 ただ、おばさんが悪い人かというと、必ずしもそうではない。ここが面白いところだ。改めて観てみると、むしろ清太の方に非がある。彼は、おばさんの娘のように勤労動員で働いているわけでもないし、家の手伝いをするわけでもない。かといって勉強をしている様子もない。空襲の時にも、防火活動を手伝わずに防空壕に駆け込んでしまう。大人からみれば、清太は素直な子どもともいえない。叱ってもろくに謝らないし、何かを問われても煮え切らない態度をとる。食事の事で怒ると、あてつけのように七輪を買ってきて、自分達の分のごはんを炊きはじめる。清太が素直に接していれば、おばさんももっと優しくしてくれたのではないかというのが、彼女の発言からうかがえる。
 おばさんは、ちょっと大人げないところや、厳しいところがあるが、決して理由もなしにきつくあたっているわけではない。善良な人間ではないけれど、世間によくいる、ちょっと口やかましい中年女性だ。前述の母親の着物を米に替えた前後の描写にしても、おばさんが機嫌がよかった日と、数日後の機嫌がよくない日を続けて見せているために、酷い人に見えるだけだ。おそらくは、清太にとっておばさんが掌を返したかのように思えたという事を表現するために、そのようにシーンを繋いだのだろう。

 この一連の原稿を書くために、久しぶりに『火垂るの墓』を観返して驚いたのが、おばさんについてだった。公開当時は、清太側から物語を眺めていたために、おばさんを酷い人だと思って観ていた。自分が子どもの頃に、親戚のおばさんの高圧的な態度に辟易していた事まで思いだしてしまった。ところが久しぶりに観直してみたら、むしろ、おばさん側から清太を観てしまった。「素直な子じゃないなあ」とか、「非常時なんだからちゃんと働けよ」なんて思った。こんな子だったら、雑炊の盛りで贔屓をする気持ちが分かる、などと思ってしまった。そして、そう思った自分に驚いた。

 第31回「『赤毛のアン』その後」で、僕は『赤毛のアン』において、本放映時にはアンに感情移入して観ていたが、数年経って再見したら、マリラやマシュウの目線でアンを観るようになっていたと書いている。高畑監督は、登場人物たちを主観的ではなく客観的な視点で描くことで、それぞれの年齢によって違った見方ができるような作りを狙ったのだ。
 それと同じように『火垂るの墓』でも、観客が清太に感情移入できるように構成をしてはいるが、物語の視点=清太にならないように作っている(実は清太の内面にも踏み込んでいない。そこが作劇のポイントであるのだろう)。おばさん側の視点からでも観られるように、そのための材料(つまり、情報だ)を作品中に散りばめているのだ。高畑勲、恐るべし。

 『火垂るの墓』において、清太は現実と向き合おうとはしなかった。そのために悲劇的な末路をたどる事になる。現実と向き合わなかった清太は、現実の中の「世間」とも向き合っていなかった。「世間」を構成するのは「他者」である。『火垂るの墓』は、執拗に清太と「他者」の関係を描いた作品だ。そして、清太にとっての「他者」を代表する存在が、おばさんだった。
 主人公と「他者」の関係を描くためにも、高畑監督は客観的な視点で描く必要があったのだろう。「他者」の話をもう少し続ける。

第486回へつづく

火垂るの墓 完全保存版 [DVD]

カラー/88分/片面2層/16:9 LB/ビスタサイズ
価格/4935円(税込)
発売元/ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント
販売元/ウォルト ディズニー ジャパン
[Amazon]

火垂るの墓 スタジオジブリ絵コンテ全集

徳間書店/A5/2730円
ISBN : 9784198613792
[Amazon]

(10.11.05)