「第拾九話 男の戰い」は第3部の最終エピソード。第壱話から続いたシンジの物語を一段落させる話だと云われている。絵コンテ・演出が摩砂雪、作画監督は本田雄。原画陣にもアクションアニメーターが大挙して参加。第八話以来の社内チーム総力戦である。たっぷりとメカアクションを展開する次の総力戦は「第25話 Air」まで待たねばならない。
第拾九話を、燃える話だと云う人達がいる。確かにシンジが積極的に戦う話であり、戦闘シーンも見応えがある。血湧き肉躍る展開であるのは間違いない。だけど、本当に燃える話なのだろうか。冒頭で、ゲンドウが自分にトウジを殺させようとしていた事を知ったシンジは怒りを露わにし、ゲンドウを詰問する。マヤが碇指令の判断が正しかったと云っても「そんなの、関係ないって云ってるでしょ!」とシンジは返す。この台詞が印象的だ。まるで幼児の様な言い回しなのだ。興奮の余り、精神が退行しているのだろう。シンジのゲンドウに対する態度が、子供じみたものだという事でもある。
第拾九話では第壱話、第弐話、第四話のシチュエーションが繰り返される。シンジとミサトが別れる駅は、第四話で2人が再会した新箱根湯本駅。第3新東京市に使徒が現れてシンジが驚くカットは、第壱話と同じアングル。第14の使徒の姿は、第壱話と第弐話に登場した第3の使徒をボリュームアップしたものであるし、使徒の攻撃で十字架の形の爆発が起きるのも、第壱話と第弐話と同様。シンジがゲンドウに自分が初号機に乗ると宣言する場面にも、第壱話と同じアングルが幾つもある。使徒との戦闘中に初号機が勝手に動き出し、自分の左腕を復元する展開も同じだ。大抵、このような構成をとる場合は、同じシチュエーションでもシンジの対応が違う事を示し、彼の成長を見せるのが演出的な目的だろう。
それでは第壱話や第弐話と比べてシンジは成長したのか。この話前半に、シンジの内的宇宙のシーンがある。再び夕暮れの列車にシンジは乗り、そこでレイに「そうやって厭な事から逃げているのね」と云われて、「いいじゃないか。厭な事から逃げ出して何が悪いんだよ!」と答えている。第拾六話の「楽しい事だけを数珠の様に……」の台詞や、第拾七話の辛いのは嫌いだという発言とも繋がっている描写だ。シンジはEVAに乗るのを「厭な事」だと感じて第3新東京市を離れようとしたが、それはアスカ、レイ、あるいは他の人達を見捨てる事になる。第13の使徒との戦いで、他人を傷つけるくらいなら自分が死んだ方がましだと思った彼である。自分が戦わない事で人が死ぬのは「更に厭な事」だろう。だから、再びEVAに乗った。決意に至る思考は第壱話と何も変わっていない。
同じ様な状況でEVAに乗る事になったが、シンジの表情の決意の深さはまるで違う。シンジは成長したのだ。いや、シンジは同じ事を繰り返しただけだ。まるで成長していないのではないか。どちらともとれる。その判断は視聴者に委ねられるわけだ。
この話のサブタイトルは「男の戰い」だ。「僕は、僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」とゲンドウに対して力強く云い、彼は初号機に乗り込んで「最強の使徒」と呼ばれる第14の使徒に立ち向かう。鬼気迫るシンジの表情。激しいEVAの攻撃。これでシンジが自分の力で使徒を殲滅できれば万々歳。正しいヒーローロボットものの展開。つまりは「男の戰い」だ。だが、世の中はそんなに甘くない。『エヴァンゲリオン』は世の中の厳しさを直視するアニメでもあるのだ。戦闘中に初号機はエネルギー切れとなり、シンジは「動け、動け!」と叫ぶが、ピクリとも動かない。彼は自分の力で使徒に勝つ事はできなかったのだ。その後、初号機は再起動して第14の使徒を倒す。だが、それはシンジの勝利ではない。その時、EVAとのシンクロ率が上がり過ぎて、彼は肉体を喪ってしまっていたのだ。彼は自分が勝利した事も自覚していないだろう。初号機の正体を彼の母親であるユイと考えるならば、息子が一所懸命に頑張っていたが上手く用事を済ませる事ができずに困っていると、代わりに母親が現れてそれを簡単に処理してしまったという構図である。母親に助けてもらって敵をやっつけて、それが「男の戰い」と云えるだろうか。
前にも書いた通り、『エヴァンゲリオン』という作品は男性性というものに対して懐疑的なところがある。第拾六話で「戦いは男の仕事!」と云ったシンジは、その生意気さを母親に窘められるようにエントリープラグから出られなくなり、この話で積極的に戦う事を決意したシンジは肉体を喪い、またしてもエントリープラグから出られなくなる。
この話の前半に助かったトウジが、病院のベッドに横たわっているシーンがあり、彼は片脚を喪っている様に見える。それは分かりやすい去勢の比喩だ。男らしさを演じる少年は去勢され、男の戰いを演じようとした主人公は母親の胎内に取り込まれる。そして、実際に男性としての能力の高い加持は、しばらく後に物語から消え、父権の権化にも見えたゲンドウは「第26話 まごころを、君に」で正体が明らかになる。「俺は男だ」などと男性性を誇示するなんて、下らない事だ。この話のサブタイトルには、そんな意味が込められているように思えてならない。そして、そういったジェンダー感覚が作品の根底にある事が『エヴァ』の現代性であり、この作品がヒットした理由のひとつだとも思う。
庵野監督は、肉や魚を全く食べない事で知られている。肉の味が付けられたスナック菓子は好きなのだから、肉の味ではなく、自分が肉を食べていると実感するのが厭なのだろう。それを反映して『ふしぎの海のナディア』では主人公のナディアが肉を食べないし、『エヴァ』ではレイが肉嫌いだ。それ以外のキャラクターでも、肉を食べるシーンは極端に少ない。それゆえに劇中で、誰かが肉を食べる描写には何か意味がある。この話のラストで初号機が使徒を喰う描写は、生き物が生き物を喰らう事に対する最大限のネガティヴな表現である。それも「男の戰い」に対する罰なのだろう。
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