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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第59回 エヴァ雑記「最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの」

 第弐拾伍話と最終話がテーマ的に充実したものであり、意欲的なフィルムであったとしても、ドラマらしいドラマを放棄してしまっているのは間違いない。劇中で提示された謎も、その多くが解かれてはいなかった。事実、このラスト2話に不満を感じたファンは多い。
 『エヴァ』では「シンクロ」と「補完」といった劇中の用語が、作り手と作品の関係、作品とファンの関係について語る際にも有効であるのは、興味深い事だ。作り手が自分の心象風景や嗜好を作品に反映させ、作品とファンがシンクロする。いわば作品を通じて、ファンは作り手の深い部分とシンクロしていた。そういった構造が、当時の『エヴァ』人気の裏側にあったはずだ。勿論、僕もシンクロしたファンの1人だ。
 心の欠落を埋める作業が「補完」であるならば、『エヴァ』はファンの心を補完する作品であった。いや、『エヴァ』に限らず、ありとあらゆる娯楽が心の欠落を埋めるものであるのかもしれないが。『エヴァ』のドラマ、キャラクター、フィルムとしての魅力がファンの心を補完していた。しかし、作り手は第弐拾伍話と最終話で、ファンに対して冷や水を浴びせてしまった。ファンは怒り、あるいは行き場のなくなった気持ちの捌け口を『エヴァ』のゲーム、グッズ、二次創作等に求める事になる。それまでのシンクロ率が高かった為に、反動が大きかった。補完という概念を当て嵌めるのが適切でなかったとしても、TVシリーズがああいったラストを迎えた事が、『エヴァ』ブームを加熱させた事は間違いない。引いた視点で見れば、劇中の補完計画の発動が、ファンの心の欠落をより大きなものにしたという構図になる。それが『エヴァ』の造り出した、最も大きな皮肉だ。

 TVシリーズ放映終了後、庵野監督は第弐拾伍話と最終話について、雑誌やラジオ番組でコメントしている。当時のアニメージュの取材記事では、アニメに依存しているファンが厭になった、と語っている。第弐拾伍話と最終話はバケツで水をかけるつもりで造った。半分はファンにかけて、もう半分は自分にかけた。あのラストを造る事で、自分も厭な気持ちになる事は分かっていたから、自分も水をかぶる事になる。また、庵野監督は「現実に帰れ」がラスト2話のテーマであるとも語っている。当時のラジオ番組でも同様の発言をしているはずだ。
 最終話の後半にある「あり得たかもしれない世界」。俗に「学園エヴァ」と呼ばれるパートは、「どうせ君達が観たいのは、こんなものなんだろう」という作り手の嫌味が込められたものだが、それすらもファンは自分達の嗜好品として消費した。嫌味と云いつつ、作り手自身も「学園エヴァ」を愉しんでいる様に見える。その矛盾がまた『エヴァ』らしい。ファンが耽溺するフィルムを造っておいて、後になって「現実に帰れ」と云い出した事自体が矛盾にしか思えないが、そういった矛盾を孕む事が『エヴァ』の『エヴァ』たる由縁でもある。
 最終話のサブタイトルは「世界の中心でアイを叫んだけもの」。最終話のサブタイトルはSF小説のタイトルから採るという庵野監督作品の伝統に則って、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」から採られている。アイは「愛」と英語の「I」をかけたもの。すなわち、世界の中心で「私はここにいる」と叫ぶという意味だ。前回に続き、シンジ達の内的宇宙で物語は展開する。実写の写真、ペーパーアニメまでが使われ、この話のアフレコ台本までが劇中に登場する。描写は第弐拾伍話よりも更に前衛的であるが、シンジが救われる話である為か、前回程の緊張感はない。

 自分自身の存在に価値を見い出せないシンジは、様々なキャラクターとの対話を続けていく。時間は常に流れ、世界は変化の連続で出来ている。それは自分の心次第で如何様にも変化するものなのだ。自分自身にも色々な可能性があり得る。今の自分ではない自分にだってなれるはずだ。葛藤の果てにシンジは、自分の存在を認めて、ここにいてもいいのだと思い至る。その瞬間に薄暗かった世界は、青空と青い海に変わり、他のキャラクター達が現れて、シンジに対して「おめでとう」と告げる。
 しかし、全ての人の心が一つにまとめられた世界で、自分を肯定できたからと云って、何か役に立つのだろうか。すでに自分という個は喪われているのではないか。あるいは、主人公が他者の手によって、力ずくで矯正されたとして、それが最終回らしい最終回と云えるのか。最終話が、第弐拾伍話の続きであるならば、それはシンジが導いた「この世の終わり」の中の出来事であるはずだ。キャラクター達が拍手をしている場面で、彼等の足下に見えるのは地球である。大陸は消失し、代わりに巨大な珊瑚礁が見える。サードインパクトの後の世界なのだろう。人が人として生きる場所がなくなっても、それがハッピーエンドと云えるのだろうか。勿論、この終わり方をどう捉えるかの判断も、1人1人の視聴者に委ねられる。この話で加持が云っている様に「真実は人の数だけある」のだから。ただ、僕には「おめでとう」の台詞が、酷く偽善的なものに感じられる。
 あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』のここまでの物語と切り離して、後半の問答をシンプルにアニメファンに対するメッセージだと考えてみよう。作り手が伝えたい事は「ここにいてもいいんだ」ではなく、その前の「あなたが信じている世界は、自分自身が造りだした狭い世界だ」の部分である。自分が真実だと思っている事は、ケンスケが云う様に「狭量な世界観で造られ、自分を守る為に変更された情報。歪められた真実」なのだ。だから、現実に帰ろう。これもメッセージを伝える相手に対する態度が優しいものであり過ぎる。それが居心地が悪い。まるで、幼児に対して噛んで含めて言い聞かせている様だ。

 最後に「父に、ありがとう」「母に、さようなら」「そして、全ての子供達(チルドレン)に」「おめでとう」とテロップが出て、TVシリーズは幕を降ろす。『エヴァ』がエディプス・コンプレックス的な物語だとすれば「父に……」「母に……」の部分は、母を求めて父を憎んでいたシンジが、その葛藤を克服し、父と和解し、母親離れができたという意味と解釈できる。「そして、全ての子供達……」の部分は、世界は生きる価値のある素晴らしいものであり、この世に誕生した事を祝福しようという意味だろうか。タイトルの「エヴァンゲリオン」とは、福音という意味だ。
 自分が造り出していた世界の狭さを知り、自分自身はここにいてもよいというのが、シンジが達した結論だった。そんな小さな幸せが僕達にとっての福音であるならば、むしろ、とても寂しい事だ。


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■第60回 エヴァ雑記「EVANGELION DEATH AND REBIRTH」に続く


(06.06.22)

 
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