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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第61回 エヴァ雑記「第25話 Air」

 「春エヴァ」は第25話の途中までとなり、『エヴァ』の完結は同年夏まで持ち越しになった。それが「第25話 Air」と「第26話 まごころを、君に」で構成された『THE END OF EVANGELION』である。僕はそれを「夏エヴァ」とも呼んでいる。
 公開日はわずか数ヶ月の違いであり、内容は一部重複しているにも関わらず、「春エヴァ」と「夏エヴァ」では気分が違っていた。すでに熱狂のピークは過ぎていたのだ。少なくとも作品の周辺にいる僕達の気分は変化していた。関連印刷物のデザインコンセプトもその気分に合わせている。極太明朝体の文字を紙面いっぱいにギッチリ詰めたあのパターンは使わず、白地を活かすデザインでなるべくシンプルに。真っ白い紙面の片隅に、黒い文字が1行ある様なクールさを理想とする。特に庵野さんやGAINAXと、デザインの方向性について打ち合わせをしたわけではない。GAINAXが作った「夏エヴァ」のシンプルなロゴ(「THE END OF EVANGELION」の文字が十字にクロスしている方ではなく、明朝文字を横に配置した方)を見て「なるほど、次はこっちか!」と判断したのだ。「春エヴァ」と「夏エヴァ」の前売り券のデザイン、パンフレットのデザインを見比べれば、その違いは一目瞭然。ただ、「夏エヴァ」のパンフはとある事情で、プランニング以上に白い誌面になってはいるが。同年夏に開催されたコンサート「エヴァンゲリオン交響楽」のポスターやLDジャケットは僕が編集を担当したわけではないが、白地に黒い文字が配置されたシンプルなデザインで感心した。半ば自慢話になるが、当時の『エヴァ』は作品周りのデザインコンセプトの統一が上手くいっていた。LD、VCのパッケージデザインでもvol.11からは、極太明朝ギッチリのデザインをやめている。これはvol.10リリースとvol.11リリースの間に「春エヴァ」「夏エヴァ」の公開があり、作品の気分が変わっているからだ。

 「第25話 Air」と「第26話 まごころを、君に」は、TVシリーズ第弐拾伍話、最終話のリメイク版であり、同じテーマを、アクション、個々のキャラクターのドラマを絡めて描き直したものである。第25話は、TVシリーズ制作中に仕上がっていた第弐拾伍話の脚本をベースにして作られている。スケジュール等の都合で、第弐拾伍話ではその脚本は使われなかったのだ。アニメーション制作は「春エヴァ」も「夏エヴァ」も、GAINAXと共同でProduction I.Gが担当。劇場作品に相応しい見応えのある映像を仕上げている。
 第25話は庵野総監督の下で鶴巻和哉が監督を務め、フィルムをまとめている。作画監督はキャラクターを黄瀬和哉が、メカニックを本田雄が担当。原画陣もメカアクションのエキスパートが揃い、腕を振るっている。弐号機と国連軍の戦い、量産型エヴァンゲリオンとの戦いは巨大感、リアル感共に素晴らしく、アニメ戦闘シーン史に残る仕上がりだ。作画マニアには磯光雄作画パートが話題になる事が多いが、他の作画も、絵コンテも、演出処理も見事なものだ。

 やはり最後の敵は人間であった。戦略自衛隊はネルフ本部を武力制圧しようとする。職員の血に染まるジオフロント。アスカの復活と最期。愛憎の果てのリツコの死。シンジを救おうとして命を落とすミサト。そして、謎解きも進む。アダム、リリス、使徒、人間の関係が語られ、ゼーレが進めていた人類補完計画とゲンドウが目論む補完計画の片鱗も明らかになる。ユイが自分の意志でEVAに残った事も判明。謎解きは第26話でも続き、劇中で仕掛けられた謎についての解答、あるいは謎を解く為の手がかりが次々と提示される。
 盛り沢山ではあるが、乾いた感覚はTVシリーズ終盤と同様。あるいはそれ以上だ。倒れているネルフ職員の遺体が、どれもカメラに顔を向けていない点に注目したい。人類の未来を賭けた戦いであるにも関わらず、ジオフロントとゼーレのいる暗闇以外は、殆ど描写されていない。手のアップと遠景のみで登場した日本国首相が、外部の世界を代表している。いつの間にか『エヴァ』の世界は酷く寂しいものになっていたのだ。
 TVシリーズから切り離して、久し振りに「第25話 Air」だけを観ると、どうしてこんなにも悲劇的な展開が続くのかと疑問に思う。テーマ的に云えば、それは人類が「できそこないの群体として行き詰まった存在」である事を示し、補完が必要である事を示す為であるのだろう。「できそこないの……」は本編中のミサトの台詞だ。しかし、それは同時に作り手の心象風景の反映であり、あるいは現実の厳しさを観客に観せたいという欲求の為でもある。僕は公開時には、第25話の展開を心地よいと感じた。フィクションの中で痛々しい現実を味わう事によって生じるマゾヒスティックな快感。この映画はシンジの自慰行為で始まる。その事でも、作り手の姿勢がはっきりと分かる。そして、僕はそれに当惑しながら、当惑すらも愉しんだのだ。

 「第弐拾伍話 終わる世界」で力が入っていたのがミサトの描写であったのと同様に、「第25話 Air」の肝もミサトだ。ただし、その描写は正反対のものである。第弐拾伍話はミサトの仮面を剥ぎ、彼女が快活に振る舞っていた理由、行動的な女性になったきっかけを明らかにした。生々しい部分を暴いた。第25話ではその彼女がシンジを救う為に、命を投げ出す。漫画版単行本1巻の巻末解説で庵野監督が書いた様に「他人との接触を可能な限り軽く」し、「表層的な付き合いの中に逃げていく事で、自分を守って」きた女性であるならば、それはミサトが生まれて初めて他人と本気で関わろうとした瞬間だったのだろう。たとえそうでなかったとしても、終盤でのシンジとのやり取りは、今まで積み重ねてきたミサトの描写の総決算だ。「ミサトさんだって、他人のくせに」というシンジの言葉に対する彼女の回答は「他人だからどうだってぇのよ!」だった。これは第参話に於ける「叱らないんですね。家出の事。当然ですよね。ミサトさんは他人なんだから」というシンジの問いかけに対する回答でもある。第参話では、ミサトはシンジに対して応える言葉を持たなかった。だが、今は違う。肉親でなかったとしても、恋人でなかったとしても、他人を真剣に思いやる事はできる。それが証拠に彼女はシンジの為に戦自の兵士を射殺し、自らも命を落とす。「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気付き、後悔する。私はその繰り返しだった。糠喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でも、その度に前に進めた気がする」。それもシンジに対するミサトの言葉だ。第弐拾伍話のミサトも本当の彼女なら、第25話も本当の彼女なのだ。

 そのミサトの言動に胸を打たれ、シンジが初号機に乗り込めば、物語はロボットアニメらしいラストシーンに向かっていっただろう。しかし、シンジはそれでもエヴァに乗らなかった。見かねた初号機が動きだし、彼を乗せたのだ。リアリティのある世界で、ロボットアニメとしての『エヴァ』が展開したのは第25話ラストシーンまで。「第26話 まごころを、君に」に突入すると共に、世界を形成する輪郭線が溶け出していく。


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[DVD情報]
「THE FEATURE FILM NEON GENESIS EVANGELION」(『DEATH(TRUE)^2』と「第25話 Air」「第26話 まごころを、君に」を収録)
発売元:キングレコード
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■第62回 エヴァ雑記「第26話 まごころを、君に」に続く


(06.06.26)

 
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