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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第187回 ルギア黙示録

 ポケモン映画『ミュウツーの逆襲』の予想以上のヒットで、2作目は当然ヒットすることが期待されて作られることになってしまった。
 そして、生命の源という仮説を持つ深層海流を象徴する映画独自のポケモンX(エックス)という当初ゲームにいなかった……後にルギアという名前がつけられる……を、登場させることも了解された。
 ただし、2作目に求められるのは『ミュウツーの逆襲』の持つ「自己存在」などというしち面倒くさく隠れテーマを感じさせない爽快な冒険活劇である。
 ところで、『ミュウツーの逆襲』のテーマ自体も、終わったわけではない。
 ミュウツー自身が、「自己存在」を自覚し、文字どおり「ミュウツー!我ハココニ存リ」と確信できた時に終わることのできるテーマである。
 だが、いちおう『ミュウツーの逆襲』で「自己存在への問いかけ」は終わった。
 次にくるテーマは、それぞれが持っている「自己存在」が共存できるかどうかである。
 映画2作目がいくら爽快な冒険活劇だとしても、前作で提示したテーマを忘れて、能天気な活劇にすぎないとしたら、前作の存在が孤立したものになってしまう。
 映画のシリーズとして、前作の持つテーマを全く無視したものにはできないと僕は思った。
 第183回のコラムで、「ミュウツーの誕生」のプロットをお読みになった方は、プロットで、「ミー」と呼ばれていたクローンの少女の名が、脚本では「アイ」に変わっていることに気がついた方もいると思う。
 言うまでもなく、英語の「私」……I・MY・MEのIからMEへの変更である。
 ついでだがミーは僕の娘の名・三穂の略称で、いつもは「ミー」と呼んでいる。
 だから、「ミュウツーの誕生」のプロット段階では、ミーという名に極めて気楽にしたのだが、脚本を書いているうちに、アイとミーとでは、所有格である「マイ」はともかく、語感の持つ自意識に差があるような気がした。
 自己存在を主張をするときに、ミーのほうが、アイより語感が強い気がしたのだ。
 「ミュウツーの誕生」の少女は、消えていく運命のはかない存在である。
 ミーよりアイの名が似つかわしい気がして、脚本化の時に変えたのである。
 ミーという名を使う少女は、他で登場させようと思った。
 ミーは映画版3作目――実は3作目のエピソードにするつもりはなかったが、結果的には3作目の映画になった――『結晶搭の帝王』の主役格の少女の名前にした。
 つまり、「ミュウツーの誕生」の脚本を書いている時に、『結晶搭の帝王』のプロットができ、ミーは「結晶搭の帝王」の少女の名にしようと思ったのだ。
 消えていくはかない運命の「ミュウツーの誕生」のアイは、『結晶搭の帝王』のミーでもある。
 アイとミーの違いは、「自己存在」への意識の違いである。
 ミーはアイよりも「自己存在」への執着が強いのだ。
 つまり、『ミュウツー』と『ルギア爆誕』と『結晶搭の帝王』は、「自己存在」というテーマでつながっている……というより、つながってしまったのである。
 さらに言えば、娘を持つ父親というものの「娘に対する自己存在」が『結晶搭の帝王』のほとんどメインテーマである。
 これに、アニメスペシャルの「ミュウツー!我ハココ二存リ」を加えると、あきれるほど僕の書いた脚本は「自己存在」にこだわっている。
 あきれるほどと書いたのは、脚本を書いた本人は、それほど強く意識的に表現するつもりはなかったからである。
 あとで、本人も気がついたのである。
 で、ポケモン以外の他の作品も、後で見返すと、ほとんどが「自己存在」にこだわっている。
 露骨なほどこだわっている。
 自分で自分にあきれるどころか、いささか自分が嫌になる。
 で、『ルギア爆誕』の絵本版には、あとがきに表向きこんなことを書いている。

        ×          ×

 ポケモンの劇場版第2編は、昔、懐かしい冒険活劇を目標に作られました。
 目まぐるしく駆けずり回る登場人物を何も考えずにあれよあれよと見ているうちにエンドマークが来てしまえばそれでいい映画です。
 でも、いくら冒険活劇とは言え、前作『ミュウツーの逆襲』は、「私は誰だ!」という自己存在の問いかけがテーマになっていました。
 今回の作品にも、それに対する答えのようなものが、裏の裏の奥でかすかに匂っているかもしれません。
 「私は誰だ?……」と聞かれたら「僕は僕だ。ほかの誰でもない僕だ」
 ……ということ。ポケモン・ファイター達の、存在のバランス(共存)が崩されることで世界の破壊がはじまり、それぞれがそれぞれの自分(自己存在)に戻ったことで世界は元に戻ります。
 この世界は音楽のシンフォニーのようなものかもしれません。自分が、自分という名の楽器を、無理せずに精いっぱい演奏し続けるかぎり、あなたの音楽は壊れもしないし、周りの世界も壊れず調和している。
 だから、映画の最後のほうでサトシのママがサトシに言った……。
 「世界を救うなんて命がけでする事じゃない。あなたはあなた……他の誰でもない。たった一人のあなたなのだから、自分を大切にして、あなたはあなたのやりたいことを目指しなさい」
 この少し非常識に聞こえる台詞のことを、親子のみなさんでちょっぴりはなしあっていただけると、このアニメは他の映画でない今の時代の冒険映画としての存在価値があるのかもしれません。

        ×          ×

 何事も、親や周囲の環境が子供の生き方を決めてしまう。子供が子供らしい夢を持てず、部屋に引きこもり、仮想の自己満足にすぎないゲームにひたり、他者との対話は相手の顔の見えない携帯電話の時代。自分のやりたいことを目指し、それがそのままの形で周囲と共存し、その世界は音楽のシンフォニーのように調和する。
 それが、本来の世界。
 実際、この作品の脚本には音楽が重要な意味を持つように意識的に描き、世界の自然の調和を守る深層海流のシンボルXというポケモンが登場し、崩れかけた調和を元に戻そうとする。そういう脚本になっている。
 確かにテーマはそれでいい。
 でも、これは、いささか、表向きのきれいごとのテーマでもある。
 というのも、それぞれの自己存在のバランスのよい共存を、首藤剛志という脚本家はあんまり信じてはいないのですね。
 このエピソード、理想的なストーリーの展開としては、世界の共存を崩す強力な悪役が登場して、世界のそれぞれの自己存在が持てる力を出し合って悪を倒し、世界を守る。
 ところが、僕の脚本には、そんな悪役は出てこない。
 この映画では、ジラルダンというコレクターが登場する。
 この個性的な自分のやりたいことをやっている人物は、映画では、世界を破滅に導くきっかけを作ってしまうただの悪役に見える。
 しかし、脚本ではそうではない。
 偏執的なコレクターであり、なにもポケモンだけを集めているだけではない。
 いろいろなお宝を集めていて、それをそのまま自分のものにして、いい気持ちになっている普通のコレクターではない。
 集めたお宝……それは別に世間がお宝と認めているものとは限らない……自分にとって価値のあるものを、そのままではなく自分の好みに変えてしまいたいという変な人物なのだ。
 普通の世界で価値のあるものを、自分にとっての価値のあるものに変えたい自己存在意識のいびつな人物。
 けして、悪人ではない。世界が滅びようが滅びまいが、自己の世界を作り出しその世界の中で陶酔したい人物なのだ。
 たとえば、ミロのビーナス像には手がない。しかし、ジラルダンは、手のあるビーナスが見たい。
 モナリザの絵の謎の微笑……ジラルダンは本当に、ふふふと笑うモナリザが見たいのだ。
 常識的な価値観と違う自意識をもっている……それが彼の自己存在。
 こんな人間は……実際にいる。
 というより、すべての人間の中にそんな部分がある。
 ミュウツーがハムレット的なら、ジラルダンはいびつなドンキホーテといっていい。
 こんな人間の声を演技するには、ミュウツーの声、市村氏に匹敵する演技者でなければ困る。
 いるんですよね、そういう舞台俳優の方が……。
 鹿賀丈史氏という方。
 市村氏が「オペラ座の怪人」なら、鹿賀氏は「レ・ミゼラブル」「ジキルとハイド」。
 ご本人同士はどうかしらないが、周囲から名優としてライバル視されるし、また、演技を競い合うように、よく同じ舞台で共演する。
 で、どっちも負けない。しっかり、自分の役を立たせてしまう。
 その鹿賀氏がジラルダン役だった。
 つまり、脚本でのジラルダンは鹿賀氏が演じるだけの必要性のある役だったのだ。
 しかし、映画にはジラルダンの見せ場はほとんどない。
 世界破壊のためのただのご都合主義の悪役にしか見えない。
 脚本にあったジラルダンの見せ場シーンがカットされ、その分、派手なアクション場面がふえている。
 試写会の時に、総監督が呟いていた。
 「あと10分、上映時間が長ければ……」
 あるプロデューサーが直ちに答えた。
 「それはダメです。上映時間は増やせません」
 その10分に総監督は何を入れるつもりだったのか。
 それがジラルダンのシーンだったら、『ルギア爆誕』の印象はストレートな軽いアクションアニメではなく、かなり屈折したものになったかもしれない。
 折角、鹿賀丈史氏を起用しながら、とてももったいないと思う。
 もっとも、「上映時間に収まらない脚本を書いたお前が悪い」といわれれば、「大した見せ場にもならない余計なアクションシーンを増やした方がどうかしている」と答えたくなるが……。
 さらに、『ルギア爆誕』をご覧になった方は、覚えていらっしゃるかもしれないが、ラスト付近に、全てを失ったかに見えたジラルダンが、なぜかミュウのポケモンカードを見ながら不敵な微笑を洩らすシーンは残っていて、この微笑の意味がわかるのだろうか?
 さらに『ルギア爆誕』には、脚本家の責任として、大失敗したところが1ヶ所。別の要因で、僕個人がいまだに首をひねっているところが少なくとも2ヶ所ある。
 2作目の最初のプロット会議の時、御前様とあだ名される方が言った。
 「『ミュウツーの逆襲』のヒットは驚いた。だから2作目に関しては、内容に関して口は出しません。ただ、題名にこの言葉をつけてほしい」
 御前様はわざわざ白板に文字を書いた。
 「爆誕」
 辞書にものっていないおそらく御前様が作った造語だろう。
 2作目のストーリーでは、なにも誕生していない。
 まして、「爆誕」といえば、爆発で何かが誕生するということだろう。
 この造語には驚いた。いや、ひどく抵抗があった。
 しかし、御前様や多くのスタッフには、格好のいい派手なタイトルに思えたのかもしれない。
 世代の差なのか? まあ、タイトルに関しては、脚本家が口を出して会議を混乱させることもないと思い、黙っていた。
 ちなみに、アメリカでは『ルギア黙示録』という題名で公開されたと記憶している。
 「爆誕」よりはセンスがいいし、2作目の内容に似合っている。
 海外で『ルギア黙示録』というタイトルで公開されたなら、まあいいか……。
 僕は、いまも『ルギア爆誕』については、「ポケモン映画の2作目」といい、めったに「爆誕」とは言わない。
 その理由は次回で……。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 僕の先輩は、僕が僕の名前のタイトル間違いを放送局に番組の放送内で訂正しろと言う前に、アニメの制作会社の社長とかけあっていた。
 「あなた、脚本家にとって、いいえ、ものを作る人間にとって名前が、命の次に大切なものだってこと……いいえ、命より大事なものだっていうこと、わかっていない人じゃないでしょう」
 で、その社長は、分かっている人だった。
 当時、映画界は斜陽もいいところで、特に日活という映画会社は、普通の映画ではやっていけなくなり、ヌードと男女のからみを写すポルノ映画を作ることでかろうじて生き残っていた。
 いわゆる日活ロマンポルノ路線である。
 「ポルノ映画で食べていくなんて……」と、日活をやめた人も多かった。
 「要するに、ヌードとからみを見せれば、あとは何を作ってもいいんだろう?」と居直って、日活でポルノを作り続けた映画人もいた。
 斜陽で、映画の本数が減り、なかなか監督になれなかった助監督も、映画を撮れるならとポルノで監督になった人もいた。
 「ヌードとからみを見せれば、あとは何を作ってもいいんだろう?」の「あとは何を作ってもいいんだろう」の部分がミソで、下らない作品も多いが、作家が作りたい映画もヌードとからみがあればOKということで、外見はポルノだが内容のすぐれた作品、監督、脚本が多く出てきた。
 今、著名な監督でポルノを撮ったことのない方を探すほうが難しいだろう。
 アカデミー外国賞の「おくりびと」の監督も、ポルノよりワンランク下と言われていたピンク映画の出身である。
 この方の作った最高傑作は「痴漢……」というシリーズだといまだに言われている。ついでだが、僕もそう思う。
 日活ポルノは、その後、もっと過激なアダルトビデオの出現でつぶれてしまったが、優秀な人材を育てたというけがの功名的功績は大きい。
 だが、ポルノに名前なんか出るのは嫌だという人……品のいい映画(ポルノが下品というわけではない)を作りたい、教養的作品、子供に安心して見せられる映画を作りたい、ヌードとからみのない良質な作品、面白い映画を作りたいという人もいるわけで、僕のタイトル間違いをした作品を作った制作会社の社長も、日活出身で、日活がポルノ路線になった時点で、日活から離れた人だった。
 この社長の日活監督時代の代表作は「ハレンチ学園」の実写版である。
 「ハレンチ学園」はもちろんポルノではない。今見ても、結構面白い喜劇映画だと思う。
 しかし、その社長、丹野雄二という名が出れば、監督としては「ハレンチ学園」である。
 丹野氏自身が「ハレンチ学園」をどう思っているかはしらない。
 すでに故人だが、一度聞いてみたかった。
 だが、プロデューサー、制作会社社長になってからは、ドキュメンタリーやら教養番組やら良質と呼ばれる部類のアニメ番組や映画……文化庁の賞をいくつも取るわ、厚生省推薦番組をつくるわ、子供と家族向けの劇団を作るわ、なんだか日活作品の時とは別人のような作品を手掛け続けたから、本質はいわゆる生真面目、良心的作品を目指すタイプの方だったのだろう。
 プロデューサーとしての丹野雄二氏は、おそらくTBS系優良番組制作者として、名前がある。
 でも、監督としての丹野雄二氏は「ハレンチ学園」である。
 つまり、自分の作ったものと自分の名前との関係と責任に関しては、かなりの意識を持っていた方だと思う。
 そこに加えて、僕の先輩は、自分の書いたものに対する著作者意識(責任意識)が強い。
 当時、自分の書いた脚本の台詞は「一言一句、変えるな」のつわものタイプの脚本家はかなりいた。
 今で言うなら(噂に聞くだけだが)倉本聡氏、山田太一氏のタイプで、この方たちのドラマを見ると、脚本を読まなくても、この方たちの「セリフは一言一句、変えるな!」の声が聞こえるような気がして微笑ましい。
 僕の先輩は、そんなタイプの脚本家の先鋒のような方だった。
 おまけに酒が入ると、さらに著作者意識が先鋭化してくる。
 ある監督が無断で脚本を変えたときの大げんかは、雑誌ネタ、裁判沙汰寸前までになった。
 「書くことに命をかけている脚本家の名前を間違えるなど、人を殺すのと同じことだ。お前は人殺しだ!」
 ぐらいは、平気でいいかねない方であった。
 でもって僕は、名前を間違えられたぐらいで……余談だが、首藤剛志という名前、珍しいのか分かりにくいのか、領収書などもらう時に、まともに書かれたことがほとんどないから間違いに慣れている……死ぬ気もないし殺された気もしないが、間違えた放送局の信用をつぶすために、訴訟ぐらい平気でする気でいた。
 おまけに、20歳前でTVの番組を書いた僕は、脚本では鳴かず飛ばずだったが、その後の奇行ぶりは結構、脚本家の方々には噂にされていたらしい。
 噂というものは尾ひれがつく。
 「最近、脚本を書いていないようだが、あの坊やは、何をしでかすかわからんぞ」
 当時、23歳だったから、先輩脚本家からしたら坊やである。
 70年安保はとっくに終わっていたものの……断わっておくが僕は、ノンポリ、無宗教である……けれど、やけっぱちになったら何をやるかわからない世代であり、そんな時代でもあった。

   つづく
 


■第188回へ続く

(09.06.03)

 
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