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プロダクション探訪
第2回 アートランド(後編)


 前回に引き続き、アートランドの取材記事をお届けする。
 後編では代表取締役の石黒昇本人にご登場いただき、スタジオ草創期から現在までの様々な出来事や、関わりのあった人々などについて存分に語ってもらった。
 石黒さんといえば、アートランド社長としての知名度もさる事ながら、『宇宙戦艦ヤマト』『鉄腕アトム』(TV・第2作)『超時空要塞マクロス』『メガゾーン23』『銀河英雄伝説』など数々の作品を手がけてきたアニメーション監督としても名高い。
 前編の渡辺プロデューサーと入れ違いで取材に応じてくださった石黒さんは、淡々とした語り口の中にも作品づくりに対する情熱を感じさせ、やはり経営者という以上に、クリエイターとしての雰囲気を漂わせた方だった。


●会社プロフィール

 社名:株式会社アートランド
 代表取締役:石黒昇
 設立年月:1978年9月
 従業員数:41名
 公式サイト:http://www.artland.co.jp/



取材日時/2006年10月14日
取材場所/アートランド(東京・武蔵境)
取材/小黒祐一郎、和田穣
構成/和田穣
●主な作品(開始年)
『超時空要塞マクロス』(1982年)
『超時空世紀オーガス』(1983年)
『メガゾーン23』(1985年)
『銀河英雄伝説』(1988年)
『星猫フルハウス』(1989年)
『みかん絵日記』(1992年)
『勇午』(2003年)
『ギャグマンガ日和』(2005年)
『蟲師』(2005年)
『僕等がいた』(2006年)
『ギャグマンガ日和2』(2006年)
『はぴねす!』(2006年)
『家庭教師ヒットマン REBORN!』(2006年)




■アートランド設立の経緯
 1978年当時、石黒さんは『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』や『宇宙戦艦ヤマト2』の制作に忙殺されており、自宅まで帰りつく時間すらないほどだった。そこで5月、アニメーター仲間の藤岡正宣(注1)と共に、高田馬場にマンションを借りたのが全ての始まりである。この時は「別に会社を起こす気はなかった」そうで、あくまで最初は寝るための場所という位置づけだったという。
 その後の経緯もなかなかに面白い。「知り合いがスタジオをたたむという事で、動画机を買ってくれないか、と持ちかけられたんです。いまトラックに積んで知り合いを回っているんだけど、これが売れないとトラックのレンタル料を払えないんだ、と言ってね(笑)」。こうして格安で動画机みっつを譲り受けた石黒さんのマンションには、その後様々な人間が出入りすることになる。

■急増する人員〜法人化へ
 最初のメンバーは、サンライズからもたらされた。
 「サンライズから話があって、九州から上京してきたアニメーター志望の女の子がいると。ウチじゃ育てられないから、君のところでどう? という事でね。僕も1日の大半は外で仕事してるから、電話番がいてもいいかな、と思って」
 そんな軽い気持ちで引き受けたのが門上洋子(注2)で、他に相棒の藤岡が飲み屋で知り合った杉山京子などが最初期のメンバーだという。
 それから、仕事仲間からの紹介等で「面倒をみてほしい」と依頼される事が増え、新人を中心にどんどん人員が増えていく。石黒さんが外にいる事が多かったため、これら新人の面倒は主に藤岡がみた。
 こうして短期間で7〜8人が揃い、積極的に仕事をこなしたためチーム全体の月収が100万円を超えるまでになる。このままだと収入に対する源泉徴収額が1割から2割に跳ね上がってしまうため、石黒さんは法人化を決意する。時に1978年9月、有限会社アートランドの誕生である。

■初期の担当作品
 会社創設後の最初の仕事は『ルパン三世』(TV・第2シリーズ)だったそうだ。石黒さんが演出を担当した作品で、アートランドでは1、2ヶ月に1本程度のペースで原動画を請け負った。
 また、お互いに高田馬場に立地するという縁で、手塚プロダクションからも頻繁に仕事を得ていた。最初の24時間テレビアニメ『100万年地球の旅バンダーブック』(1978年)の制作協力を皮切りに、『火の鳥』(劇場版)、『鉄腕アトム』(TV・第2作)等を次々と担当した。

■大久保への移転〜『マクロス』誕生前夜
 1979年、トップクラフト(注3)から移籍してきた勝井和子を中心に、社内に「背景部」を立ち上げる。この結果、スタッフが増えて高田馬場のマンションが手狭になったため、12月に知り合いの紹介で新宿区百人町(注4)に一軒家を借りる事になる。ちなみに高田馬場スタジオも存続しており、後にアートランド背景部の拠点となっている。
 石黒さんによれば、個性的なメンバーが多く在籍していた事もあって、この大久保スタジオ時代はアートランドの長い歴史の中でも特に刺激に満ちた面白い時期だったそうだ。「古い民家でね。いかにもって感じの門があって、向田邦子のドラマに出てきそうな風情がありましたよ。新宿まで歩いて10分だから、立地もいい」
 そして、この頃にスタジオぬえから、まだ企画段階であった『超時空要塞マクロス』の話が持ち込まれる。
 石黒さんは、この企画にすっかり惚れ込んで早々と制作を始めていたが、なかなか放映開始には至らず、当初の予定だった1982年4月から7月へ、そして結局10月にまでずれこむ事となる。この間『ヤッターマン』や『戦闘メカ ザブングル』等の原画を単発で請け負った。

■『マクロス』を作り上げた人々
 「『マクロス』の最も大きな特徴というのは、ほとんどがアマチュアというメンバーを使って作り上げた事です」と石黒さんは語る。
 まずキャラクターデザインの美樹本晴彦は、『鉄腕アトム』からアートランドで原画に参加しているが、当時はまだ慶應義塾大学に在学中の身である。最初から独特の魅力ある画風を持っており、何も教える必要のないほど巧かったという。
 一方、メカ作監の板野一郎は、それまでサンライズの外注として『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』等に参加してきたアニメーターであり、『マクロス』メンバーの中では比較的現場の経験があった。彼は、スタジオぬえの河森正治に誘われて『マクロス』に参加している。また、板野が友人である平野俊弘(現・俊貴)に声をかけ、平野が垣野内成美と共に参加する。
 続いて、大阪芸術大学に在籍中だった山賀博之と庵野秀明が駆けつける。前年の『DAICONIII オープニングアニメ』に目をつけたスタジオぬえからアートランドに紹介された、というのが縁である。大学の休みを利用して上京し、庵野などは会社や板野の自宅で寝泊まりしながら、好みのカットを選んで描いていった。
 このように、それまでは無名だったり、アマチュアだったメンバーを制作の中核に据えた『マクロス』は、彼らの若いエネルギーと斬新なアイディアが溢れ出す魅力的なフィルムとなった。石黒さんも「非常に面白かったですよ。毎回、実験をやっているようなもんでね」と当時を振り返る。
 彼らは『マクロス』をきっかけにブレイクし、後にアニメ界を代表する存在にまでなるわけだが、そういった人々がアートランドに集結していた時期は、さほど長くはなかったという。「TVの『マクロス』を作って、その後の劇場版。それから『メガゾーン23』……そこまでかな。3年あったかどうかという感じですね。僕自身、最も好き勝手に作品を作れた時代でした」

■『マクロス』の制作状況
 『マクロス』の実作業としては、作画に関してはアートランドが主力となり、背景はアートランド背景部とタツノコが半分ずつ担当。各社への動画・仕上げの割り振りはタツノコが行っていた。
 制作着手が早かった事もあり、第1話の原動画にはたっぷり3ヶ月を費やしたそうだが、中盤以降の制作期間は逼迫し、毎回のように当日納品が続いた。毎日放送の榎本恒幸プロデューサーが大変なSF好きであり、石黒さんの経験と実績を信じて「あんたを信頼してるから、好きにやってくれ」と任せてくれたのが救いだったという。

■『メガゾーン23』〜会社の危機
 『マクロス』は高い人気と評価を得たものの、版権を持たないアートランドは、ロイヤリティによる収益については、蚊帳の外であった。それならば、と石黒監督自らが原案をまとめ立ち上げたのが、オリジナル企画のOVA『メガゾーン23』である。
 制作は『マクロス』の中心メンバーを主力に、原画に垣野内成美、結城信輝、北爪宏幸、庵野秀明、梅津泰臣らが参加する等、豪華ラインナップが特徴である。一方で、クオリティへのこだわりゆえか、制作費は予算をかなりオーバーしてしまう。
 しかし、苦労の甲斐あって『メガゾーン』は大ヒットする。今回は石黒さんの原作、アートランドの元請制作であり、かなりの収益が見込めるはずだった。
 ところが、会社間の収益配分の時点で問題があり、アートランドにはほとんど収入が入らなかったという。2作続けてヒット作を作りながらも、金銭的に苦境に立たされた石黒さんは「これなら、下請けをやってる方がずーっといい」と、自社制作にすっかり幻滅してしまう。

■転機
 『メガゾーン23 PartII 秘密く・だ・さ・い』の頃になると、制作の主体はAICに移され、アートランドからは『マクロス』のメカ班を母体として設立された、吉祥寺の第2スタジオのメンバーが参加している。『PartII』の監督となった板野一郎を中心に、結城信輝、本猪木浩明、森川定美といった面々だ。
 石黒さんは、それまでのアートランドを「戦略も何もなくて、ある意味会社ごっこだった」と振り返る。『メガゾーン』の時に体験した会社の危機をきっかけに、より経営に集中する事の必要性を痛感したという。
 会社立て直しの一策として、当時50名を超えるまでに膨らんでいた人員の分離・独立が図られる。まず、板野一郎ら吉祥寺第2スタジオのメンバーが、D.A.S.Tとして独立する。続いて高田馬場に残っていた背景部も、アトリエブーカとして独立する事となった。

■『銀河英雄伝説』の時代
 こうして身軽になったアートランドに舞い込んできたのが、1988年よりスタートするOVA『銀河英雄伝説』の仕事である。この作品に石黒さんはシリーズ監督として参加し、スペースオペラの定番的作品として大いに人気を博す。
 「結局、13〜14年やった事になるんですけど、こんなに長くなるとは全く思ってなかった」という破格の長期シリーズとなる。TVアニメに比べて制作期間に余裕があるため、石黒さん自身も経営との両立が可能だった上に、コンスタントに安定した仕事量をこなす事で会社の状況も改善していく。
 その間、TVアニメの制作協力もしばしば行ってはいたが、「アニメ界がどんどんキャラクター重視の方向へと進むのが、嫌になっちゃってね。まあこれも発端は『マクロス』からなんですが」。という事で、石黒さん自らが監督として腕を振るうケースは少なくなっていた。

■現社屋への移転
 この頃、アートランドは大久保から武蔵境の現社屋に移転してきている。ここはそれぞれ、1Fが会議室・制作、2Fがデジタル(仕上げ)・作画、3Fが作画、4Fが物置・社長居室となっており、大きなビルではないものの、そのほとんどをアートランドが使用する。石黒さんは平日には会社で寝泊まりする事も多く、会社設立時の「寝泊まりするための場所」という役割は今でも維持されているのだ。
 ちなみに現社屋は、2000年2月9日(注5)に隣の新聞店からの貰い火で火災が発生し、2Fが全焼するという被害に見舞われている。幸い、すでに制作はデジタル化されていたため、データの復旧はある程度可能だったそうだが、セル時代なら大変な損害が出ていた事だろう。
 現在、人員も増えて手狭になってきており、近い将来に分室の設立や、移転等のプランもあるそうである。

■『蟲師』について
 かなりの期間TVアニメに関心を持てず、監督どころか視聴する意欲もあまりなかったという石黒さん。そんな中で「これならやれるかな」と久々に情熱をかき立てられた作品が、2005年の『蟲師』である。
 当初からかなり面白くなるだろう、という予感はあったとの事で、石黒さん自身も絵コンテを1本描く予定だった。
 ところが「いつまでたっても打ち合わせに来ないんですよ。こっちから催促するのもなんだしなあ、と思っていたら、僕にくれたはずの話を別のヤツに振っているんです。制作の渡辺を怒ったんだけど、すっかり忘れていたらしくて」。という事で、残念ながら『蟲師』での「石黒担当回」は幻に終わってしまった。
 近年のTVアニメ制作では、あのような贅沢な作り方、こだわりのスタイルを常に維持するのは難しいという。『蟲師』は色々な偶然が重なった結果、生まれた作品なのである。「ああいった事は、もう二度と起こらないんじゃないでしょうかね。それに制作費も随分と足が出てしまったし(笑)」と石黒さんは語る。
 また『蟲師』のスタッフルームとして設立された、鷺宮の「蟲籠」は今後も存続させ、若いスタッフの才能を発揮する場として活用させていくとの事。このチームは、アートランド作品以外にも積極的に関わっていくそうだ。

■『蟲師』のスタッフ
 長濱監督や馬越嘉彦との交流は、石黒さんにとっても大いに刺激になった。若手の中にも、確かに豊かな才能が育ってきていることを実感し、アニメ界に対する展望も開けたようだ。
 また、かつての『マクロス』の若手クリエイターと、今の『蟲師』の長濱監督達を比べてどうかという、こちらのちょっと意地悪な質問に対しては、「違いますね。『蟲師』の連中は人間ができてる」という一言で笑わせてくれた。「板野君なんてあの頃は危なっかしかったですよ。30歳以上の人間は信用できない(注6)なんて言ってたし(笑)」。とはいえ、『マクロス』スタッフの多くが当時20代、『蟲師』中核スタッフは30代が中心である事を考えれば、致し方のない事かもしれない。

■2006年秋放映開始の3作品
 2006年秋期、アートランドでは同時にTVシリーズ3本を元請で制作する、という設立以来のピークを迎えている。
 このような状況になった経緯だが、まず『蟲師』の後に『僕等がいた』の話がきたのが最初で、『蟲師』の主力スタッフをそちらに割り振って制作を始めていた。
 その後『はぴねす!』の仕事が舞い込んできたため、そちらに『僕等』のスタッフを一部割かねばならなくなる。そうしたところに、今度は『REBORN!』の依頼がきてしまった。2007年の1月か4月に放映開始予定だったものが、前倒しになったためだ。
 元々が3本を同時にやるつもりで制作体制を組んでいたわけではないため、現在は人員のやりくりに苦労している。「今はボロボロになってやってます。よその会社はよくこんな事をやっているな、と思いますよ。中にはウチより少ない制作進行スタッフで回しているところもあるんだから。長年下請けをやっていたから、こういう状況には戸惑いがありますね」と石黒さんは語る。

■マーベラスとの関係
 周知のとおり、アートランドは2006年4月に株式会社マーベラスエンターテイメントの子会社となり、7月から株式会社アートランドとなった。石黒さんが社長である事に変わりはないが、心理的には大きく負担が減ったそうだ。「もう今後はお金の心配をしなくていいから、正直肩の荷が下りた気分です」
 また、マーベラス本社の意向で、10月から全従業員に社会保険を適用した。アニメ界では、制作進行スタッフを保険に加入させるケースはあるが、アニメーターの多くは作品ごとの契約制や出来高制である。社保完備のスタジオは、スタジオジブリのような大手を除けばほとんどないのではないかという。

■今後の展望〜作家として
 最後に、石黒さんはサバサバした表情で、以下のように語ってくれた。
 「十数年間、経営に専念しようとして頑張ってきたけど、元々そっちの才能がないんで、一所懸命やってもダメですわ。それに経営をやるよりも、やっぱり作品を作っている方が楽しい」
 今後のプランとして、社長業はあと2〜3年で退いて後進に任せ、作品制作に専念したいとの事だ。いくつか暖めているアイディアがあるため、オリジナル企画として実現させていきたいという。


 以上で前後編にわたるアートランド取材記事を終える。
 短期間で人が集まった創成期、若手を積極的に起用した『マクロス』期、作監育成に力を入れた下請け期、これらを通じて言えるのは、石黒さんの面倒見のよさと、人を育てようとする意識である。それがアートランドの社風なのかもしれない。
 石黒さんも「いい加減なベテランよりは、やる気のある新人の方がよっぽどいい、という事ですよ。この考えは設立当時から今まで、ずっと変わらないですね」と語ってくれた。
 社史を振り返ると、金銭的な苦労や不遇の時代もあり、決して順風満帆とはいかなかったようだが、「若くて優秀な人にはチャンスを与えたい。強いて言えば、それが会社を起こした目的です」という石黒さんの姿勢は一貫しており、説得力があると感じた。
 『蟲師』での成功も、このような人的資源の蓄積があればこそではないだろうか。アートランドの今後のさらなる発展に期待したい。

(注1)アニメーター。石黒門下の1号生。1日に動画100枚をこなすほど仕事が速かったとの事。
(注2)アニメーター。後に板野一郎率いるD.A.S.Tに移籍。
(注3)東映動画出身の原徹が設立したアニメ制作会社。『風の谷のナウシカ』制作後に発展解消し、スタジオジブリの母胎となる。
(注4)新宿駅の北に位置する、JR大久保駅・新大久保駅の周辺地域。現在では韓国料理店が多く立ち並ぶ。
(注5)アートランド社内では「肉の日」として記憶されている。
(注6)「Don't trust anybody over 30」――ヒッピー達の決まり文句で、シド・ヴィシャスの発言でも有名。



(07.01.10)

 
 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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