第60回 スタジオZと金田伊功
この連載で『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』に触れた時、アニメスタイル編集部のスタッフに、どうして金田伊功の名前を出さないのかと訊かれた。勿論、僕は金田伊功が大好きだ。いや、好きどころではない。彼がいなければ、動きに興味を持つ事もなかったかもしれない。僕や同世代のアニメファンに「アニメの快楽」を教えてくれたのが、彼だと思う。他にも、快楽を与えてくれたクリエイターは大勢いるが、彼ほど「アニメの快楽」を体現したアニメーターはいないと思う。僕としては「アニメの快楽とは金田伊功である」と断言してしまってもいいくらいだ。また、直接的にも、間接的にも彼が日本のアニメに与えた影響は大きい。アニメ史を語る上でも、決して外せないクリエイターだ。
『ザンボット3』と『ダイターン3』において、作画的な見応えが一番あったのは、やはり金田伊功が参加した回であり、両作品のLD BOXやDVD BOXを買った時に、最初に観返すのも彼の回だ。ただ、当時の僕は「金田伊功の作品」ではなく、「スタジオZの作品」としてそれらを観ていた。スタジオZは、当時、金田伊功が所属していたスタジオだ。たとえば『ダイターン3』の本放送中に、友達と「昨日の『ダイターン』はZだったな」なんて話題にしていた。
どうして金田伊功の名前よりも先に、スタジオZの名前を覚えたのかと言えば「ランデヴー」の記事のためだろうと思う。「ランデヴー」は「月刊OUT」の増刊で、アニメや特撮を取り上げた雑誌だった。1977年から1978年の間に6冊出ており、最後に出た6号にスタジオZの紹介記事が載っていたのだ。ちなみに、プリンス・ハイネルが表紙の号である。その記事を読んで、スタジオZという個性派集団がある事を知ったし、名前を覚えた。先にスタジオZというチームで意識したので、金田伊功個人として見るのがやや遅れたわけだ。ただ、思い返してみると、スタジオZ時代の作品では、富沢和雄の画も好きだった。金田伊功の原画に、富沢和雄の作画監督という組み合わせも好きだった。そういう意味では、スタジオZのファンだったという言い方も、間違いではない。
僕が金田伊功の名前を意識したのは、何時だったのだろうか。『ダイターン3』と同じ年の『さらば宇宙戦艦ヤマト —愛の戦士たち—』では、公開時には彼の名前を意識していないはずだ。翌年の劇場版『銀河鉄道999』では、間違いなく彼の作画に魅了されている。彼の作画パートで、キャラクターが激しく違っているのも意識した。だが、ロードーショー時に「金田伊功だ!」と思ったかというと、それは怪しい。
『ムーの白鯨』1話を観た時に「あ、金田さんが戦闘機を描いている」と思ったのは間違いない。その少し後に放映された『ずっこけナイト ドンデラマンチャ』6話で、彼が絵コンテ&作画監督を担当しており、それは非常に興奮して観た。すると、僕が金田伊功の名前を意識するようになったのは、劇場版『銀河鉄道999』が公開された1979年夏から、『ムーの白鯨』1話が放映された1980年4月の間という事になる。
『ドンデラマンチャ』6話が決定打だったと思う。その後、積極的に金田作画をチェックするようになる。新作は全て追いかけた。それだけではない。友達に、昔からアニメのスタッフクレジットをメモしている人を紹介してもらい(原口正宏さんではない。原口さんとの出逢いはもっと後だ)、金田伊功が参加した作品のリストをもらった。それを参考にして、過去の作品もチェックしていった。『キャンディ・キャンディ』、『ろぼっ子ビートン』、『氷河戦士ガイスラッガー』は再放送でチェックした。『ゲッターロボ』と『ゲッターロボG』は大学に入ってから、池田憲章さんが録画していたビデオテープで観せてもらった。余談だが、池田さんに観せてもらった『ゲッターロボG』の中に、本放送を録画したものがあって驚いた。代表作である『大空魔竜ガイキング』は、地方で再放送があると知り、金田伊功が参加した回を、全部録画してもらった。
他のクリエイターの仕事もチェックしていたが、そこまで1人のアニメーターを追いかけたのは初めてだった。そのくらい金田伊功の仕事に魅了されていた。そういった活動をするうちに、僕はますますアニメマニアの世界にハマっていった。
第61回へつづく
(09.02.05)