第230回 『オーディーン 光子帆船スターライト』
『オーディーン 光子帆船スターライト』は、『宇宙戦艦ヤマト』スタッフによる新作で、やはり宇宙戦闘ものである。製作・総指揮・企画・原案は西崎義展で、総監督が舛田利雄、監督が白土武と山本暎一という見事に『ヤマト』なメンバー。キャラクターデザイン・作監は湖川友謙と高橋信也の2人で、総作画監督が宇田川一彦。確認した事はないが、ヒロインのサラのみが高橋信也のキャラクターで、他は全て湖川友謙のキャラクターだろうと思う。凄いのは音楽で宮川泰、羽田健太郎、高崎晃、天野正道、安西史孝と、5人も音楽家の名前が並んでいる。高崎晃は後述するLOUDNESSのメンバーだが、それにしてもわずか139分の映画に、そんな大勢の作曲家が必要だった理由が分からない。
当時、雑誌でこの作品について知った時に、どう感じたのかは覚えていない。きっと「今度は戦艦じゃなくて帆船か。『ヤマト』っぽいけれど『ヤマト』の続きでないだけマシか」と思ったのだろう。あまり興味は持てなかったが、前回(第229回 『オーディーン』でアルバイト)で書いたように、1日だけとはいえ、お手伝いをした作品だった。それもあって、公開早々に劇場に足を運んだ。ひょっとしたら、東映からチケットをもらっていたのかもしれない。劇場で観たのは間違いないのだけど、作品自体の印象は希薄だ。観て嫌な気持ちにはならなった。かといって面白いとも思わなかった。非常に薄味の内容だった。前回書いたように、ゼロックスのお手伝いをしたカットが無かったのが残念だった。周りでもほとんど話題にならなかった。友達でも観た人間は少なかったのではないかと思う。
この映画は公開以来、一度も観返していなかった。2003年にDVDソフトになり、すぐに購入したのだけど6年も観ないままだった。で、一昨日、初めてDVDで観た。勿論、この原稿を書くためだ。ほぼ四半世紀ぶりに観たのだけれど、印象は変わらない。やっぱり薄味の内容だ。『ヤマト』にあったハッタリや、コッテリとしたところがない。ハッタリやコッテリがなかったとしても、それ代わる魅力があればいいのだけれど、それもない。
今となれば狙いは分かる。明るさやノリのよさが求められていた当時の風潮に合わせて、『ヤマト』を作り直したのだろう。第204回「「クサい」「ダサい」の時代」で書いたように、この頃、大袈裟な事やドラマッチックな内容は「クサい」とか「ダサい」と言われて、バカにされていた。クサくて、ダサかった『ヤマト』をナウな感じにしたかったのだろう。劇中で、ロックバンドLOUDNESSの楽曲を使っているのが象徴的だ。長いイントロの後に、主人公達がスターライト号に走って乗り込むシークエンスがあり、そこで景気よくLOUDNESSの楽曲がかかる。ここは確かにノリがよく、本作で数少ない印象に残った場面だ(エンディングにも、LOUDNESSのライブ映像が使われている)。
主人公達もノリのよさが強調されており、船長を含む大人のキャラクターも、『ヤマト』ほど時代がかった人物ではない。この映画の中盤で、船長が地球に帰還する事を決め、それを不服に思った主人公達が反乱を起こして、オーディーン星を目指す事になる。主人公達が反乱を起こすなんて『ヤマト』では考えられなかった展開だ。作り手は「若者寄り」にするために、そういった筋立てにしたのだろう。それで、公開時に僕がその展開に共感できたかというと、まるでできなかったはずだ。やはり「ナウい」ノリにはなりきれていなかった。この作品の作り手と、当時のアニメファンの間には、相当な温度差があった。
四半世紀ぶりにDVDで観て、感心したのは、ビジュアルの出来のよさだ。公開時には、映像的に粗の多いフィルムだと思ったのだけれど、観返したら人物はキッチリ描けている。かなり湖川友謙の手が入っているように見える。撮影も凝っている。派手な透過光がガンガン入っている。「あれ、こんなに綺麗にできていたっけ?」と思った。公開時に、あるカットのとんでもない作画ミスで、腰が抜けるほど驚いたのだが、DVDでは驚いたそのカット自体がなかった(僕の思い込みかもしれないので、具体的にどんなミスだったか書かないが、サラがヘルメットを被るカットか、脱ぐカットかのどちらかだ)。ひょっとしたら公開後にリテイクをしたのかもしれない。
第231回へつづく
(09.10.16)