第289回 アニメージュ編集部へ
今回から1986年の話題に入る。まずは自分についての話からだ。僕がアニメージュ編集部に出入りするようになったのが、1986年だった。ただ、初めてアニメージュ編集部に行ったシチュエーションが思い出せない。「アニメグランプリ」のコメントとりのアルバイトをした時か、「天空の城ラピュタ GUIDE BOOK」の資料協力で呼び出された時かのどちらかだろうと思う。
「アニメグランプリ」の結果を発表する記事には、ランキングに入った作品やキャラクターに、投票した読者のコメントがつく。コメントとりには人手が必要であり、そのためにアルバイトの学生が集められた。僕もその1人で、他のメンバーは大学のアニメ研究会の人間だったと思う。その作業のために、数日間、アニメージュ編集部に通った。投票したファンの家に電話をし、コメントをとり、それを原稿にまとめる仕事だ。短いものではあるが、自分が書いた文章が活字になったのは、これが初めてだった。アニメージュでは、書いた原稿に級数、行間、字間、書体の指定を入れるのもライターの仕事だった。僕はその時に、そういった指定のやり方を習っている。
「天空の城ラピュタ GUIDE BOOK」では、巻末に宮崎駿のレイアウトが掲載されている。前にも触れた(第65回 セルから紙へ)が、あれは僕のコレクションを貸し出したものだ。その記事の構成は、池田憲章さんが担当しており、池田さんに呼び出されて、レイアウトコレクションを持って編集部に行った。
そんなふうにして、アニメージュ編集部に顔を出すようになった。アニメージュ編集部は、徳間書店のビルの2階にあった。雑然としていて、いかにも雑誌の編集部という感じだった。当時の編集長は尾形英夫さんだった。僕がライターとして働くようになるのと前後して、鈴木敏夫さんが2代目編集長に就任するので、僕は尾形さんの下で仕事をした事はほとんどない。徳間書店のビルは新橋にあった。駅から徳間書店に行くには、呑み屋街を通らなくてはならない。レイアウトを持っていった時か、他の用事で行った時だったかは覚えていないが、一度、編集部の近くの炉端焼き屋で、池田憲章さんに奢ってもらった事がある。サラリーマンが入る呑み屋に入ったのは初めてだったし、憧れの池田さんに連れていってもらったのも嬉しかった。
アニメージュに「TVアニメーションワールド」というコーナーがあった。通称「アニワル」だ。毎月のTVアニメのあらすじや各話スタッフの情報を掲載するページだ。その「アニワル」内で、コラムなどの読みものをやる事になり、そのスタッフの1人として僕が呼ばれた。バックナンバーを見ると、僕は1987年2月号(1月発売号)の「アニワル」で原稿を書いている。だから、呼び出されたのは、1986年の11月か12月だろう。
「アニワル」の主要ライターは、データ原口こと原口正宏さん、後に「宇宙船」などで編集をやる小川雅久君、そして、僕の3人だった。マンガ家ののつぎめいるさんも、書き手の1人だった。担当編集はDr.望こと、高橋望さんだ。僕を高橋さんに紹介したのは、小川雅久君だったはずだ。高橋さんに「かなりできる奴だ」と話していたらしく、最初に呼び出された時から、妙に期待されている感じだった。ベテランライターである徳木吉春さんが「ほら、小黒君。この仕事面白いよ。この素材でページ構成やってみない?」と、子どもを相手にするような甘い声で話しかけてきたときには「何事だ!」と思った。そんなふうに扱われた事がなかったので、当惑した。
僕がチヤホヤされたのには、小川雅久君が誇張して伝えたからだけではなかったようだ。これは後になって気づいたのだけれど、僕が「アニワル」スタッフとして呼ばれたのは、フリーのスタッフが入れ替わった時期だったらしいのだ(ひょっとしたら、社員編集も入れ替わっているのかもしれない)。ライターが新雑誌「Newtype」に移っていったという事情もあったようだ。このあたりは機会があったら裏をとりたいと思っているのだが、とにかく、僕達が「アニワル」に呼ばれた時、アニメージュで働いているフリーのスタッフの数は少なかった。
そんなにふうに持ち上げてもらったにも関わらず、僕はアニメージュでライターとして働く事に対して躊躇いがあった。「今のアニメージュで働くのは、アニメマニアとして堕落ではないか」と思っていたのだ。どうしてそんなふうに思ったのかについては、次回で触れたい。
第290回へつづく
(10.01.20)