第291回 「アニメビジョン」の仕事
僕は学生時代に、VHDのビデオマガジン「アニメビジョン」の仕事もやっていた。「アニメビジョン」に関しては、前にも「アニメ様の七転八倒」の第2回「幻のVHDマガジン『アニメビジョン』」で書いた。VHDとは何か、「アニメビジョン」の具体的な内容については、そちらを読んでいただきたい。
記憶が正しければ、「TVアニメーションワールド」のスタッフとしてアニメージュ編集部に呼び出された時、すでに僕はアニメビジョンの仕事を始めていた。「アニメビジョン」の仕事はセルコレクターの友人に紹介された。友人が、どうして僕がその仕事に向いていると思ったのかは聞いていない。僕が作ったマニア同人誌を見て、こいつならできるんじゃないかと考えたのだろう。
「アニメビジョン」を製作していたのは日本ビクターであり、ビクターのプロデューサーは、現在は『天体戦士 サンレッド』を手がけている小松茂明さんだ。実作業をしていたのは、MTVという会社だった。MTVは、葦プロダクションやカナメプロダクションに所属していた相原義彰プロデューサーの会社だ。MTVは、アニメーションの製作が本業であり、「アニメビジョン」に連載していたOVA『戦国奇譚 妖刀伝』も、日本ビクターと共同で作っていた(ただし、作画などの実制作は、J.C.STAFFが担当)。
「アニメビジョン」における僕の肩書きは「構成」だった。要するに、収録する番組についてのアイデアを出し、番組を並べる仕事だ。実際にはそれだけでなく、アボ取り、収録の立ち会い、素材の回収、テロップ原稿の発注、ブックレットの編集まで、いろんな事をやった。映像の編集にも参加している。「アニメビジョン」も、MTVも、決してスタッフが多くはなかったのだ。後になって若いスタッフも参加するようになるのだが、最初は大人ばかりの現場だった。東映動画(現・東映アニメーション)のアルバイトを含めて、僕はこの前後、同年輩の人間と一緒にやっている仕事が多かったので、それが新鮮だった。
僕が学生で、昼間に連絡が取れない事が多かったので、ポケベルを持たされた。1986年当時のポケベルはやたらと大きかった。大きいわりには、文字を表示するような機能はない。音が出たり、ブルブルと震えたりするだけだったはずだ。大学で講義を受けている時に、ポケベルで呼び出しをくらい、学校を抜け出して打ち合わせに行った事もある。ビデオ編集が始まると、編集室に連日通った。ビデオ編集中に、ロビーでテロップ原稿を書いて、テロップ制作の会社にFAXで送ったりもした。前にも書いたが、アニメの原画を使ったメイキング映像を作るときには、撮影会社に原画を持ち込んで、撮出しのマネごとをやった。
その頃の僕は、大学で楽しみを見つけられずにいた。同人誌も作っていたけれど、何か力を持て余していた。鬱屈していた時期でもあった。だから、「アニメビジョン」の仕事が楽しかった。ビデオマガジンとはいえ、映像に関わる仕事ができたのも嬉しかった。僕が「アニメビジョン」をやっていた期間は、2年弱だと思う。その頃はまだ東映動画のアルバイトもやっていた。一時期は、東映のバイトをやりながら、「アニメビジョン」の構成をやって、アニメージュでライターをやっていた事になる。馬鹿だったなあ。当時の自分に忠告できるなら、仕事を減らして、もっと学校に行けと言ってやりたい。
「アニメビジョン」を辞めたのは、相原さんとつまらない事でケンカしたのがきっかけだったはずだ。アニメージュの仕事が増えていたのも、辞めた理由だった。この仕事を始めた時の事はよく覚えているのに、どういうわけか、辞めたときの事はあまり覚えていない。
第292回へつづく
(10.01.22)