第313回 続・安濃高志CDの『めぞん一刻』
安濃高志CD時代の話を、もう少しだけ続ける。安濃CD時代の『めぞん一刻』で、一番見応えがあるエピソードは、前回(第312回 安濃高志CDの『めぞん一刻』)取り上げた39話、40話だが、演出面で際立っているのは、別の話数だ。
安濃CDの個性がもっとも色濃く出たのが、27話「消えた惣一郎!?思い出は焼鳥の香り」(脚本/伊藤和典、絵コンテ/安濃高志、演出/片山一良、作画監督/河南正昭)だろう。安濃CD時代の最初のエピソードで、彼自身が絵コンテとしてクレジットされている。この話は、冒頭から凄い。ファーストカットは、手前に枝になった柿の実。その奥に紅葉した木々。さらに奥に青空、その空には伸びていく飛行機雲。2カットめは、風にゆっくりと揺れる道端の花。この花のカットが妙に長い。ゆったりとしたBGMが流れる。3カット目は、道を歩いてくる響子、郁子、惣一郎(犬)の超々ロングショット。超々ロングショットを見せながら、響子と郁子の会話を聞かせ、超々ロングショットと超々ロングショットの間に、響子のアップ、スカートのアップを挟み込むというトリッキーなカット構成。作品世界に客観性と情緒を与え、視聴者と登場人物の距離を自在に操る演出だ。
この27話では、犬の惣一郎が行方不明になり、五代達がそれを探す事になる。響子の回想が挿入され、夫の惣一郎が犬を飼いはじめたきっかけや、犬を夫と同じ名前で呼ぶようになった経緯が語られる。最終的に、犬の惣一郎は五代が見つける。そして、クライマックスで、夕陽に向かって犬の惣一郎と一緒に歩いていく五代の姿を、響子は亡き夫と見間違えてしまうのだった。このエピソードの大筋は、原作と同じだ。
27話の演出は、冒頭だけでなく、全編に渡って独特なものだった。ロングショットと風景のみを映したカットを多用。たっぷりと間をとった語り口で、話を進めた。ゆったりとしたBGMも効果的だ。全編を通じて情緒を押した話であり、濃密な時間を表現したフィルムだった。リアルというよりは、詩的なエピソードだ。また、季節感を大事にし、流れゆく時間の中で、キャラクターの感情を浮き彫りにするという手法は、いかにも安濃高志らしいし、僕にとっては『マジカルエミ』的だ。
前半で、響子が1人で街を歩く映像に、彼女のモノローグを載せたシークエンスがある。そのモノローグは「ささいな事に、時の流れを感じる事があります。いつの間にか、自分がすっかりこの街の住人になっている事に気づいた時……」と始まり、道行く主婦との世間話をはさんで「私なりの決意を秘めて、初めて一刻館の玄関に立ったのが、遠い日の出来事みたいです」と続く。このシークエンスでもロングショットを多用し、街の様子をたっぷりと見せている。物語にとっては、必要ですらないシークエンスだが、演出にとっては非常に重要なシークエンスだ。演出がやろうとしている事を、饒舌に語っているのだろう。ひょっとしたら、27話以降の『めぞん一刻』の方向性を宣言するためのシークエンスであったのかもしれない。
響子が、五代を亡き夫と見間違えるクライマックスは、響子の背後の町並みに列車を走らせ、奥から街灯がひとつずつ点いていくといった演出もあり、ドラマチックに盛り上がる。そこで挿入歌がかかるのだが、その曲が変わっていた。ギルバート・オサリバンの「Alone Again」。1970年代のヒット曲だ。これは同時期に公開された実写劇場版『めぞん一刻』の主題歌であり、TVアニメ版でも、24話で一度だけ使われている(一度だけ使われた時のオープニングの映像が、まるで楽曲にあっていなかった事が話題になった)。本編で挿入歌として使われたのは、この時だけだ。そこまで淡々と進んできた物語が(さらに言えば、どんよりした感じで進んできた物語が)、「Alone Again」がかかった瞬間に、お洒落で都会的なラブストーリーに切り替わった感覚であり、不思議な幸福感のある場面になっていた。安濃高志CD時代の『めぞん一刻』は、BGMや挿入歌を効果的に使っているが、その中でもこれがベストの選曲だろうと思う。
27話はあまりに技巧的であるために、安濃高志CD時代においても、異色のエピソードだ。彼は、もしもできる事なら、全話をこういったテイストで作ろうと思っていたのか、機会があったら確かめたいと思う。
第314回へつづく
(10.02.24)