アニメ様365日[小黒祐一郎]

第404回 『ロボットカーニバル』の各作品(8) なかむらたかしの「ニワトリ男と赤い首」

 8本目の作品が、なかむらたかし監督の「ニワトリ男と赤い首」だ。人気のない夜の大都会で、メカの魔物達による饗宴がはじまる。それに巻き込まれた男は、魔物のリーダー格であるニワトリ男に追い回される。ニワトリ男はマントを羽織った鳥のような怪人だ。ホラータッチのコメディであり、キャラクターがよく動いている。全体のイメージとしては『ファンタジア』の「はげ山の一夜」を意識しているようだ。なかむらたかしのファンでない観客にとっては、ちょっと変わったテイストの、よくできた作品だろう。だけど、僕にとってはそうではなかった。
 僕は「ニワトリ男と赤い首」を観て当惑した。キャラクターのデザインや動きが、予想していたものと違ったからだ。アメリカの古典的なキャラクターアニメーションを思わせるものだった。特に、主人公の男の芝居、表情のつけ方が、そういった感じだった。動きに柔らかいところがあるし、大袈裟に動かしているところもあった。改めて観ると、魔物達はいつものなかむらたかし調で動いているところもあるし、派手なエフェクトも、彼が得意としていた岩石崩し的な描写もある。
 ではあるが、作品全体の印象はバタくさいものだった。
 以下、アニメージュの「いまだから話せる!? 『ロボットカーニバル』の裏のうら」の原稿を引用する。ちょっと文章に変なところがあるが、そのあたりはご勘弁を(明らかな誤字は修正した)。


 動きによる表現力について、高く評価されているなかむらたかしさん。実は、ディズニーやフライシャーなどのフルアニメに対する思い入れがむかしからあり、それを目指しているような部分があったのだそうだ。今回の作品で初めてその目指していたものをストレートに作ることになった。動きについてはもちろん、色あいや形などつにいてもその感じを狙ったようだ。
 幻想的な本編と対照的に、写実的に描かれた冒頭の現実の町の風景。このシーンはビデオプリンターで実写の映像を1コマずつプリントし、それから原画を描きおこす一種のライブで描かれた。動きにこだわるなかむらさんらしい仕事だといえるだろう。


 「メモリー オブ ロボット・カーニバル」のインタビューでは、ディズニーやフライシャーの動きそのものを目指したわけではないと語っている。以下に抜粋しよう。


—— 当時、なかむらさんの「ニワトリ男と赤い首」を観て、「ああ、ディズニー的な方向性なんだ」と思ったんです。でも、今、観るとそうでもないですよね。
なかむら (笑)。ディズニーの方が遥かに完成度が高いですよ。
—— と言うか、タイミング等に関して、日本のアニメ的な部分もありますよね。
なかむら それはそうですよ。だって、あれは基本的にフルアニメではないですから。あの作品で、ディズニー的なタイミングそのものを目指したわけではないんですよ。ディズニーのタイミングか、日本のタイミングか、という事を意識してやったわけでもないんです。

(略)

—— なるほど。言葉で「こういう部分はディズニー的な動き」とか、「こういう部分は東映長編的な動き」という風に言えるものではないという事ですね。
なかむら 以前の日本の作品を観て勉強したり、ディズニーとかフライシャーを観たりして、それが目に残っているんですよ。タイミングも含めてね。描いている時に、自然とその好きなものが出てくるんだと思う。
—— 日本のものも、海外のものも。
なかむら そうそう。それがゴチャゴチャと入っている。「動かしたい」という欲求で動かしていく中で、そういうゴッタ煮のようなものが(笑)生まれたという事なんじゃないですかね。


 ぶっちゃけて言ってしまえば、僕は「ニワトリ男と赤い首」に対して、『幻魔大戦』や『未来警察ウラシマン』のようなテイストを期待していた。他のなかむらたかしファンも同様だったはずだ。ああいった劇画的であったり、アニメ的なパキっとしたデザインのキャラクターが、リアルに動くのを期待していた。だが、フタをあけたら違った傾向の作品だった。それで驚いたわけだ。「メモリー オブ ロボット・カーニバル」のインタビューでは、ファンがそういった事を期待していたという言葉を、なかむらたかしに投げかけてみた。


—— ファンがあの時に、なかむらさんに求めていたものは、『幻魔大戦』や『ウラシマン』のようなものだったんじゃないでしょうか。勿論、それはファンの勝手な言い分なんですけど。
なかむら 『幻魔大戦』にしても、『ウラシマン』にしても、あれは「アニメ」ですからね。俺は『ロボット・カーニバル』を、それとは、ちょっと違うと思ってはいるんだけどね。
—— 『ロボット・カーニバル』は「アニメ」ではなくて「アニメーション」なんですね。
なかむら そう。そういう風に捉えているんだ。『ウラシマン』や『幻魔大戦』は、基本的にストーリーがあって、それに沿って芝居をしていくものだから。
—— 物語中心なわけですね。
なかむら そう。アニメーターというのは、そういう風に役を演じて、動かすというよりは、そんな事に捕らわれないで、ただ単純に動かしたい、好きなように動かしたいという欲求があったりするんでしょうね。まあ、今の若いアニメーターの事は分からないですけど。通常の作品だと、どうしてもキャラに縛られ、芝居に縛られ、というのがありますよね。『ロボット・カーニバル』は、そういうものから解き放たれて自由に作れるという企画だったわけだから。
—— そうでないと、やった意味が無いわけですね。
なかむら うん。せっかく好きにやっていいんだよって言われて、やるんだったらね。


 第396回『ロボットカーニバル』の「アニメ」と「アニメーション」で話題にした「アニメ」的な作品と、「アニメーション」的な作品についての話だ。僕は、そして、おそらくは他のなかむらファンも、「アニメ」を期待していたが、彼は「アニメーション」がやりたかった。
 「ニワトリ男と赤い首」でやったアニメーションのスタイルが、なかむらたかしが最終的な目標としていたものだったのかどうかは、彼自身にも分からないし、「ニワトリ男と赤い首」の仕上がりに、充分な手応えを感じたわけではなかった。ではあるが、あれが彼のやりたい方向性のものではあったし、あのスタイルに自分が求めているものがあると思っていたのは間違いない。
 その後、彼が手がけた『AKIRA』にも、動きに関して、アメリカの古典的なキャラクターアニメーションのような柔らかい部分があった。それについては「アニメの作画を語ろう」の「animator interview なかむらたかし(5)」「animator interview 森本晃司(3)」を参照してもらいたい。
 なかむらたかしが「ニワトリ男と赤い首」で、当時、やりたかった事に挑戦した。それに関しては、『ロボットカーニバル』の企画を考えれば間違っていない。そして、振り返ってみれば、「ニワトリ男と赤い首」は、アニメーターとしての彼の方向性が変わっていった途上の作品でもある。ひょっとしたら、ターニングポイントになった仕事であったのかもしれない。
 今となっては、そのように捉えて「ニワトリ男と赤い首」を楽しむ事もできる。ただ、観直すたびに「ああ、初めて観た時には、戸惑ったよなあ」と思う。作家とファンの関係というのは、意外と難しいものなのだ。

第405回へつづく

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(10.07.08)