細田守作品逆ロケハン戦記
第10回 現実との足し引き! 「演出家」との戦い(後編)

どうかんやまきかく

 ロケハン写真に基づいた背景美術の1枚を単独で見ても、映画を見たときのような強くて印象的なリアリティは意外に感じられない。当然ながら、現実との類似度という点においては写真に適うはずがない。背景美術は映像の中にあって初めてその本領を発揮する。背景画をDVDの一時停止や書籍の図版で見るときの体験は、映画を見ているときの体験とは異なっている。絵画芸術は、単独の静止画として観察者に豊かな体験を生むように制作されたものだが、背景美術はそうではない。映画という有機的な構造の中で、他のカットとの関連において初めてその意味が立ち現れる。
 劇場版『デジモンアドベンチャー』で、アグモンとヒカリが交差点にいるシーンがある。これを例にして、ロケハン写真がいかに映像の流れの中で「利用」され、ただの現実の断片から背景美術となっていったのかを垣間見ることができる。
 SHOT 28は、アグモンが歩道上から交差点越しにバスを見ているカット〔12:29〕だ。

SHOT 28

 その4カット後、同じ場所からアグモンが見上げた上空のようすを表していたのがSHOT 29〔12:38〕

SHOT 29

 SHOT 28の同ポジションなどを経て、アグモンが歩き出すカット〔12:47〕SHOT 30である。

SHOT 30

 SHOT 28SHOT 30は現実でも確かに同じ交差点の同じ場所だ。しかしSHOT 29は、実はこの交差点から数百メートル離れたまったく別の場所である。当然、SHOT28の交差点に立って上を見上げてもSHOT 29のようにはならない。
 劇中でSHOT 29SHOT 28の交差点から見上げた様子だと観客が感じるのは、アグモンが急に上を向く動作をした直後にSHOT 29のカットが来るからである。このカットのつなぎ方が、現実には異なる場所を同じ場所にしてしまう。映画監督レフ・クレショフは、カットつなぎによってモスクワとワシントンでさえ同じ場所に見えてしまうという実験を行っている(クレショフの人工的地表)。まさに同じことが起こっているわけだ。映像作品とは単に現実世界を撮影・模倣したものではなく、要素としてのカットを組み合わせることでまったく新しく創造されるものだということがよく分かる。SHOT 29の1枚の背景画は、それだけでは現実の団地の模倣に過ぎない。しかし、カットの流れの中に用いられることでそれは新しい意味を持ち、ある意味で現実を超越する。現実の都市空間のモンタージュ、それが『デジモン』の背景美術である。
 とは言え、もちろん制作スタッフは現実には違う場所を同じ場所に見せたいからこういうことをやっているわけではないはずだ。SHOT 29の構図のロケハン写真がこのカットに使われたのは、いかにも空を見上げているような構図だからであろう。たまたまこういうロケハン写真があって「ちょうどいいや」と採用したのか、それとも初めからこういう構図が必要だと分かっていてロケハンしたのかは分からない。いずれにせよSHOT 29の重要性は、いかにもな「見上げている感」であり、またそれを主に生んでいる手前のカーブミラーの存在である。カーブミラーがどういう場所にあり、通常どれくらいの高さであるのかは、誰もが知っている。だから、カーブミラーがこの構図になっているだけで、路面から空を見上げていることは誰の目にも明らかなのだ。
 SHOT 28SHOT 30の劇中カットをよく見ると、カーブミラーが追加されている。SHOT 28の劇中カットでは、アグモンの画面左にカーブミラーがある。SHOT 30の劇中カットでは、画面右上の端に現実にはない柱状の物体(カーブミラーの柱に相当するのだろう)が加えられている。言わばSHOT 29とのつじつま合わせであり、芸が細かいとでも言うべきだろうが、実際にはそこまでしなくても初見の観客がカーブミラーの不在に気づくことは少ないだろう。カットが切り替わると、同じはずの物体が変化していても意外に気づかないものである(change blindness, 変化の見落とし現象)。が、それはここではさして重要な問題ではない。もっと興味深いのは、わざわざつじつま合わせの作業をしてまでSHOT 29を使いたかったのだろうということだ。SHOT 2830と矛盾しない、「見上げている感」はあるがカーブミラーのないレイアウトを作ることも可能だったはずだ。SHOT 29の何がそんなに良かったのだろうか。こういったところから制作スタッフ、とりわけ演出家の、「意図」を越えた「欲望」のようなものが見出せるのではないだろうか。
 逆ロケハンを通して分かることは、劇中カットと現実のどこが同じで、同時にどこが違うのかである。しかし現実と同じところは、同じということを確認してそれで終わることが多い。概して興味深いのは、ロケハンされたカットでありながら現実と違っているのはどこか、であり、さらに言えば違っているのはなぜか、なのである。その答えは、ただ現地を巡り歩くだけでは見えてこない。実際に劇中と同じ構図で写真を撮り、その結果を見比べてみるという逆ロケハンの作業が必要だ。映像作品を「創造する」ことの本質が、素材としてのカットやロケハン写真の単なる集合と、それらが有機的に絡みあってできた映画との間の差分にあるとするならば、逆ロケハンとはまさにその創造の過程を検証し、追体験することだと言ってよいのかもしれない。
 連載初回、撮った写真が「劇中カットそのまんま」であることが逆ロケハンの醍醐味と書いた。実はそれは醍醐味のごく一部でしかない。本当の醍醐味はその逆、すなわち「劇中カットそのまんま」ではないときに味わえるのである。

細田守作品逆ロケハン戦記 完

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(09.09.07)