animator interview
橋本敬史(1)情熱で始めたアニメーターの仕事

 大友克洋監督の大作『STEAM BOY』でエフェクト作画監督を務め、現在は業界内外で「エフェクトの匠」として知られる彼。クオリティが高いだけでなく、スピードと仕事量においても業界屈指と謳われるプロフェッショナルである。『モノノ怪』では、キャラクターデザインを手がけ、他の作品とは違った別の顔を見せてくれた。また、3DCGに作画アニメ的な魅力を与えるスーパーバイザーとしても活動している。彼がどのようにして自分のスタイルを築き上げてきたのか、たっぷりとお話を伺ってきた。

●PROFILE
橋本敬史(Hashimoto Takashi)

1965年9月30日生まれ。群馬県桐生市出身。血液型はA型。高校卒業後、じゃんぐるじむに入社し、その後フリーのアニメーター・デザイナーとして活躍。メカやエフェクトの作画には定評があり、近年は『STEAM BOY』『劇場版NARUTO 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!』などでエフェクト作画監督を担当。現在も劇場・TVを問わず敏腕アニメーターとして精力的に腕を振るっている。『KARAS』『FREEDOM』『スカイ・クロラ』といった作品では、3DCGのモーション監修やCGシーンに絡むエフェクト作画監督を務めた。また、中村健治監督と組んだ『怪 〜ayakashi〜』第3話「化猫」ならびにTVシリーズ『モノノ怪』では、コンセプトデザイン・キャラクター設定・総作画監督を手がけ、奇抜で魅力的なビジュアルが注目を集めた。現在、タツノコプロダクション所属。

【主要作品リスト】

●2008年12月4日
取材場所/東京・池袋
取材/小黒祐一郎
構成/岡本敦史

小黒 ここ数日、橋本さんの昔の作品をいっぱい観たんですよ。
橋本 ああ、そうなんですか(苦笑)。
小黒 同時代の大平(晋也)さんとか、濃いアニメーターの方々は、若い頃から大暴れしていて、早いうちから自分のスタイルで仕事をしている場合が多いじゃないですか。でも、若い頃の橋本さんはわりと空気を読んでますよね。
橋本 ハハハハ(笑)。まあ、そうですねえ。自分の色は作品の中でちょっとずつ出せればいい、ぐらいにしか思ってなかったですから。最初に入ったじゃんぐるじむという会社が、高倉(佳彦)さんの画ありきみたいなところがあったんですね。みんな、あの画に合わせていかなくちゃいけないような感じだった。だからなるべく空気を読みつつ、ちょっとずつ色を出していくみたいな感じでやってました。
小黒 元々、子供の頃からアニメはお好きだったんですか?
橋本 そうですね。『(大空魔竜)ガイキング』を見て「なんか毎回、画が違うな」とか思ったりしてました。あとは、みんなと同じように『さらばヤマト(さらば宇宙戦艦ヤマト —愛の戦士たち—)』とか、『(銀河鉄道)999』とかでショックを受けて、東京までセルを買いに行ったりもしてましたよ。ただ、仕事としてアニメーターになりたいとかいう自覚は、あまりなかったです。
小黒 ただアニメが好きな男の子だった、と。
橋本 ええ。でも、高校の時に入った部の先輩が、ちょっとクレイジーなくらいにアニメが大好きな人だったんです。その人がアニメ雑誌をたくさん持ってきて、アニメージュの付録とかいろんなものを見せてくれて。ちょうどアニメーター特集で金田(伊功)さんや山下(将仁)さんが、写真入りで採り上げられていた時期だった。そこからですね、アニメというものを仕事として意識するようになったのは。
小黒 その先輩がいる部活は何部だったんですか。
橋本 漫画同好会から始まって、自分が3年生になった時に部に昇格して、自分が部長になったんですけどね。漫画部といいつつ、アニメ主体の感じでしたね。アニメ雑誌を見たり、みんなで誰かの家に行って朝までビデオを見たり。
小黒 今で言うと「げんしけん」みたいな感じですね。
橋本 そうですね。同人誌も作ったりしました。
小黒 自主制作アニメは作らなかったんですか?
橋本 作ったんですけど、どっかにいっちゃいましたね。
小黒 それはペーパーアニメ?
橋本 いや、ちゃんとセルで作りました。でも、セルって高いじゃないですか。当時1枚50円ぐらいしたので、それを1000枚とか買うと凄い金額になっちゃう。だから、近くにある馴染みのプラモデル屋さんにお願いして、タップを渡して型を作ってもらって、1枚10円くらいで塩ビの板を加工してもらって。それを1000枚買って、みんなでそのセルに一所懸命、画を描いて色を塗って作ってましたね。動画用紙と絵の具はもうしょうがないので、東京のアニメックまで買いに行ってましたけど。
小黒 完全に「漫画部」ではないですね(笑)。
橋本 当時、アニメックにはビデオの撮影台が置いてあったんですよね。そこで泊まり込みで撮影したような……ちょっと記憶が薄れてるんですけど、そんなような事をしてました。
小黒 その時も作画監督だったんですか?
橋本 いや、みんなで好き勝手に描いてるような感じです。
小黒 やっぱり、金田爆発とか描いてましたか。
橋本 うん、描いたような気がします(笑)。自分の家にはビデオがなかったので、アニメコミックを見たりしながら。自分でも同じ画が描けて、それが動いたり喋ったりするのが嬉しかった。だから、まだそこまで深い作画マニアというわけではなかったですね。
小黒 で、高校を出られてすぐアニメ業界に?
橋本 そうですね。やっぱりアニメに関わる業種がいいなあって、なんとなく思ったんですよ。高校2年の時、その先輩に連れられて、アニメスタジオを見学させていただいたりしてました。多分、東映(動画)とかだと思うんですけど。それでもう、アニメーターになろうと心に決めてですね。親に言ったら、専門学校に行かせるお金もないので、勝手に仕事を探して勝手に入れ、と言われて。夏休みまでに結構あちこち電話して──当時、アニメスタジオの電話番号って電話帳に結構載ってたんですよね。それでまあ、当然(スタジオ)No.1に電話したり、(スタジオ)ライブに電話したり、カナメプロに電話したりして。
小黒 積極的ですね。
橋本 スケッチブックを持って会社を回ったりしたんですけど、ことごとく断られて。No.1には「うちは社員をとるスタジオじゃないから」みたいな事を言われちゃったり。そしたら友達が、たまたま何かの新聞にアニメ会社の広告が載ってると教えてくれて、それがじゃんぐるじむだったんですよ。で、画を見せに行ったら、画は見てくれなくて。だから「もう高校を辞めてもいいから、業界に入りたい。こんなにアニメが好きなんだ」って、とにかくアニメに対する情熱を語ったんです。それでまあ、合格したというか。その時、たまたま社員が少なかったのと、会社の規模を大きくしたかったみたいで。それで、ちゃんと高校を卒業するまで待ってもらって、卒業してからじゃんぐるじむに入った、という感じです。
小黒 なるほど。
橋本 卒業するまでの間にも、いろいろ出会いはあったんですよ。下北沢に住んでいる叔父貴がいて、当時あったパラレル・クリエーションというスタジオを主宰していた豊田有恒さんと知り合いだったんです。そこにいる若いデザイナーさんに紹介してもらって……。
小黒 ああ、出渕裕さんですか。
橋本 そうそう(笑)。出渕さんにも自分の画を見てもらったりとかしてました。金田さんの『BIRTH』の漫画みたいな画を描いてたりしてたので、「僕の知ってるところはビーボォーぐらいしかないけど、こういう画ならNo.1とかそっち系のスタジオに行ったほうがいいんじゃないかな」って言われたり。あとで聞いたら、出渕さんは当時の事を忘れてましたけど(笑)。それと、高2の時に金田ファンクラブに入ったんですけど、そこで(小林)治ちゃんと知り合ったんです。
小黒 あ、なるほど。ファンクラブ会長でしたもんね。
橋本 ええ。その時に、治ちゃんのお兄さん(小林誠)とも出会っていて。その後、2人とは『YAMATO(2520)』で再会して、そこからまた仲良くさせてもらってます。
小黒 で、橋本さんが入社した当時、じゃんぐるじむでやっていた作品って何になるんですか。
橋本 最初の動画は『黒い雨にうたれて』という作品ですね。あと『パーマン』と、ミームのなんとかの旅っていう……。
小黒 『ミーム いろいろ夢の旅』ですね。
橋本 それだったかな。あと『まんがはじめて(物語)』みたいなものとか。土田プロ系の会社だったので、そういうのが主体でしたね。当時は『さすがの猿飛』がホントに大好きで、8000枚とか9000枚とか、凄い枚数を使ってたじゃないですか。やっぱりそういうものがやりたくて……当時はあんまりメカとかエフェクト方面にいきたいわけじゃなくて、とにかく画面の中で元気いっぱい動くような作品がやりたかった。TVを見ていて目を引いたのはそういう作品でしたから、じゃんぐるじむはちょうどいいかな、と思ったんです。その頃は『らんぽう』が始まった時期で、毛利(和昭)さんとかが好き勝手にやってる回があったじゃないですか。たまにそういう動画をやったりして、勉強したという感じですね。
小黒 実際、毛利さんの原画を動画にした事があるんですか。
橋本 しました。やっぱり感動しましたよ。同人誌の「(毛利和昭個人集)も」だって、全部持ってますから。
小黒 (笑)
橋本 当時、同人誌の原画本がたくさん出てたじゃないですか。山下さんの原画が載っていた「爆走」とか、合田(浩章)さんが作った『(六神合体)ゴッドマーズ』の本とか。あと、金田さんの原画本で、黒い表紙に『BIRTH』の画が描いてある……。
小黒 「THE ANIMATOR」シリーズですね。
橋本 そうそう。あれはいまだに活用させていただいてます。
小黒 活用してるんだ(笑)。
橋本 そういう同人誌とかを机の上に置きながら、いろいろ自己流で勉強していたような感じですね。摩砂雪さんの動画もやったりしたので、「ああ、これが本物なんだ」と。本物の巧さはこんなに凄いんだ、と感動しながら動画をやってました。
小黒 初原画は何になるんですか。
橋本 『あした天気になあれ』という作品で、話数は分からないんですけど、ゲストルームで話ししてるような場面。それと同時期に、『(魔法のスター)マジカルエミ』の「海辺のベストキッド」という回がありまして。
小黒 はいはい、覚えてます。舞が海に行く話ですね。
橋本 そうです。その回の線香花火を描きました。
小黒 おお、早くもエフェクトを!
橋本 そうなんです(笑)。スタジオのベランダで、線香花火を垂らしながら写真を撮ったりしてですね。たまたまスタートがエフェクトだったんですけど、やっぱり画風が全然違うので、高倉さんにかなり直されて──直されるというか、もう全面的に違う原画に描き直されちゃったような状況だったので、あんまり初原画とは言いたくないんですけどね。
小黒 じゃあ、今見ても橋本さんの痕跡は残っていない?
橋本 と思います。そもそも、じゃんぐるじむの社長さんは、やる気だけで自分を会社に入れてくれたじゃないですか。だけど実際に現場へ入ってみると、周りは専門学校卒の人ばっかりで、自分は全然レベルが違うというか、描けなかったんですよ。それでもうひたすら動画の練習、トレスの練習ばかりで、1ヶ月半ずーっと『パーマン』や『ドラえもん』を描いたりしてるような状態だった。本当はもうクビにしたかったみたいなんです。途中から「もう仕事やらなくていい」と言われて、外注さんのところへカットを受け渡しに行ったりしてるような感じでした。だから、出だしは他の人に比べてかなり遅いんですよ。
小黒 同期ではどんな方がいるんですか?
橋本 一緒に入った人では、佐々木敏子さんという方や、メカをやっている津野田勝敏さん、それから箕輪(悟)さん。みんなすぐに原画をやったり、学生時代から『(魔法のプリンセス)ミンキーモモ』の原画を描いてたりしていた人達なので、それに比べると自分はもう負け負けのダメダメだった。そんなつらい時期でしたね。動画も、初原画も。
小黒 大張(正己)さんの動画をやったという話は、もっと後になるんですか。
橋本 それはもっと後で、原画としてすでに調子が出てきていた頃です。原画になった後、『(ハイスクール!)奇面組』を2年ぐらいやって、それが終わったら次が『燃える!お兄さん』で、同じ画の路線を延々4年ぐらいやったりしてたんです。その頃に、じゃんぐるじむを辞めた方がAICで動画をやってまして、そこで自分も「やってみないか」と言われて。『ブラックマジック(M—66)』とか、エロものの動画でアルバイトしてたんです。大張さんのは『(戦え!!)イクサー1』の「Act.III」ですね。その原画を見た時、本当にちょっと目から鱗が落ちたんです。「ああ、こんな原画があるんだ」と。今まではやっぱり、綺麗な線で──もちろん当時の大張さんの線も凄く綺麗なんですが──キャラクターを似せて、かっちり実直に動かすというやり方が染みついていた。ひとつのアクションは中3枚とか中4枚ぐらいで、3コマで、というように。でも、大張さんの動きって凄い変則じゃないですか。
小黒 そうですよね。
橋本 このシートが一体どんな画面になるのか、全然分からなかったんです。それで、ビデオが出た時に観てみたら、素晴らしい動きとタイミングだった。それはもう凄いショックでしたね。そこからちょっと、考え方がいろいろ変わってきたというか。
小黒 摩砂雪さんの原画に触れた時は、そこまで考えられなかったんですか?
橋本 摩砂雪さんのは、ちょっとイッちゃいすぎてて分からなかったですね(笑)。重ねも多いし、枚数も多いし。なんていうのかな、摩砂雪さんの原画って「一枚画の美学」ではないじゃないですか。大張さんは本当に、もう版権が動いてるような感じで、一枚画の密度、描き込みとかディテールが凄い。摩砂雪さんは1枚の画だけ見ると、勢いのあるタッチだし、結構グニョッとなったりしてる。
小黒 動きの途中で、一回柔らかくかたちが崩れるんですよね。
橋本 そうなんですよ。当然、それはそれでショックだったし、カッコよかったんですけど。凄いという事は分かるんだけど、じゃあ何がどう凄いのか分からないくらい、高次元の人という感じだった。当時の自分に今の脳ミソがあれば、と思うんですけどね(苦笑)。
小黒 話は前後しますが、『奇面組』のあたりから、原画マンとして調子が出てきたという自覚があったんですか。
橋本 そうですね。ちょっとずつ、金田さんや山下さんっぽいアングルを入れてみたり。まあ、空気を読みつつですけどね。『燃える!お兄さん』でも、大張さん的な煙を描いてみたりとか。それで、先ほど言った摩砂雪さんと、たまたま『燃える!お兄さん』で初めて同じ話数をやらせてもらう事になったんです。それがまた凄い経験で──実は、じゃんぐるじむという会社はあまり「教える」ところではなかったんですよ。動画入れのカットが社長の部屋にドンと積まれているので、社長が来るまでにそれを見て勉強しろとか。高倉さんも、林静香さんも、そんなに教えるタイプではなく。
小黒 あ、そうか。林さんもじゃんぐるじむなんですね。
橋本 お2人とも「私達の画を見て覚えなさい。これは教えられるものじゃないから」という感じだった。だけど摩砂雪さんは「こうじゃなくちゃダメだ」という感じで、とにかく画と字でゴンゴン責めてくるタイプなんです。
小黒 中のツメ方まで?
橋本 そう(笑)。もうシートまで付いて返ってくる、みたいな。『燃える!お兄さん』のその回は、憧れの摩砂雪さんとやれるという事で、自分なりの方向で凄く頑張ったつもりなんですけど、返ってきたレイアウトはもうコテンパン。「水はこうじゃない。何々を見なさい」とか「中は何枚で」とか「ツメはこう」とか、全部書いてあった。それがまあ、言ってみれば初めてちゃんと原画を教えてもらえた機会というか──というと高倉さん達に失礼なんですけども。今まで本当に自己流すぎたので。
小黒 つまり“濃い人”とぶつかり合った、最初の仕事なんですね。
橋本 そうですね。
小黒 『奇面組』で橋本さんが原画をやった回では、かなりヤンチャな仕事が見れたりするんですか。
橋本 ええっ、どうでしょう? そんな話数もありますけどね。基本的には、抑え気味に、空気を読みつつ。ただまあ、地味な芝居よりはとにかく派手なところをやりたかったので、毎回アクションばっかりやってる感じでしたね。『奇面組』って、モブシーンばかりじゃないですか。必ず5人一緒に出てくるわけだから、モブでアクションというところを選んで、好んでやっていた感じです。多分、見ても分からないと思いますけどね。
小黒 当時、吉松(孝博)君とかもライブ回で相当ヤンチャしていたとか。
橋本 あ、してましたね。
小黒 それは見た記憶あります?
橋本 あります、あります。牧野(竜一)君のやった遊園地の回(第67話Bパート「度胸だめしで男の証明」)とか。突然、凄い金田モドキの回があるんですよ。みんなで遊園地に行くんですけど、ジェットコースターの背動があったりとか。宇宙船みたいなアトラクションに乗ると、急に金田タッチで惑星の表面をビューッと飛んだりとか(笑)。
小黒 ほうほう。
橋本 それは牧野君が描いたんだと思うんですけど、本人は否定するんですよ。「俺はそんな仕事はしてない」って。でも名前は載ってるし、画にも彼みたいな癖があるので、私は牧野君の仕事だと思ってるんですけどね。実は『奇面組』って、金沢(比呂志)さんが総作監的なポジションで入っていて、あんまり画的な外し方はさせなかったと記憶してるんですよ。ライブが入ってくるまではそんな感じだった。だから吉松さん達がああいうハッチャケた話数をやり始めたので、凄くジェラシーを感じてましたね。「え! だって今までそういう事やっちゃダメって言ってたじゃん!!」って。そこからだんだんと、じゃあ自分もハッチャケてみようと思って、少し遊んだりはしてましたけどね。ただ、やっぱり山下さんの「画」はなんとなく真似できるんですけど、「タイミング」だけはどうしても──どうしてああいう風になるのか、というのがよく分からなかった。だから、なんか山下作画風なんだけど、ちょっと鈍臭い動きがあったら、私の描いたところかもしれないですね(苦笑)。
小黒 あのシャープな感じではないんですね。この表現も的確かどうか分からないですけど。
橋本 そうなんです。あの「キュッ・キュッ」という感覚が、やっぱり分からなかった。山下さん本人は「鉛筆にコマ数を書いて、転がして決めてた」って言ってましたけど(笑)。そんな無茶なタイミング盗めませんよ。

●「animator interview 橋本敬史(2)」へ続く

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